『未来を花束にして』
1912年、ロンドンの洗濯工場で働く24歳のモード(キャリー・マリガン)は、同僚のバイオレット(アンヌ=マリー・ダフ)の代理で公聴会で証言をしたことをきっかけに女性参政権運動に巻き込まれていくが、運動のリーダー・パンクハースト夫人(メリル・ストリープ)の演説現場で逮捕され夫(ベン・ウィショー)から家を追いだされてしまう。
100年前のイギリスで女性の人権を求めて戦った“サフラジェット”の活動を描いた伝記映画。
私はもともと参政権をもってなくて、25歳で日本国籍を取得して初めて参政権を得た。
21歳までは無国籍だったし、韓国籍を取得した後も、韓国国内に居住した事実がなければ参政権は得られない。だから日本国籍になってから、日本で得た参政権が最初の参政権だった。以降、選挙に行かなかったことは一度もない。
参政権だけじゃない。
自分で行きたいところに行く権利。仕事を選ぶ権利。教育を受ける権利。病気や怪我をしたら医療を受ける権利。綺麗な水にアクセスできる権利。読みたい本が読める権利。いいたいことを発言する権利。
こうした権利はすべて、決して当たり前のものではなく先人が努力して獲得し積み重ねてきたものだ。そこには長い時間と多くの血と汗と涙が流れてきた。
地域によってはまだ、こんな権利にさえ当たり前に手が届かない女性はまだまだたくさんいる。生まれた場所が違っていたというだけの理由で、選挙にいけないだけでなく人としての尊厳のすべてを蹂躙されるままに生まれ、搾取されるがままに人生を終えていく女性たちもいる。
過去と現在の多くの犠牲の上に成り立っているすべての権利は、その犠牲の上にあるからこそ責任をもって行使されるべきで、かつ行使する者によってまもられていくべきだと思うからだ。
でも多くの人が、その事実には気づかない。少なくとも、選挙に行かない人、行かないで平気でいられる人はおそらく気づいていない。
そんな人たちが、この国の半数以上を占めている。とても怖いことだと思う。
なんでそれで平気でいられるんだろうと、単純に不思議に思う。
この映画では50年もの平和的な運動の末に、イギリスの女性たちがテロ行為にはしるようになった後の過激な活動を描いている。
女性たちは商店の窓ガラスを割ったり、ポストを爆破したり電話線を切ったりして世間の注目を集めようとする。暴力的といっても直接人を傷つけたりはしないものの、彼女たちは何度も警察に拘留されたり刑務所に入れられたりしながらも、決して折れることなく勝利を信じて戦い続ける。それは当時すでにニュージーランドやオーストラリア、フィンランドやノルウェーなど他国で次々に女性参政権が認められていて、世界的な流れが出来上がっていたからだろう。あとはタイミングの問題だったといえる。
それでも彼女たちは実力行使に訴えざるを得なかった。それは、彼女たちが求めたのが単なる“参政権”ではなかったからではないだろうか。子どもの養育権。職業選択の自由。教育の権利。自分の身体をまもる権利。彼女たちにとって“参政権”はそうした女性の人権の象徴だった。人として男と対等でないことを否定するために、参政権が必要だった。
いま現在、参政権をもっていてそれを行使しない人は、おそらくはそのことを理解していないのではないかと思う。
参政権を行使しないということは、人として享受できるはずの人権の価値にも気づいていないのと同じではないだろうか。
そんなのめちゃくちゃ怖いと思うんだけど、気づいてなくてよく平気で生きてられるよね。不思議です。
主人公モードが何も知らない、ごく平凡な若い貧しい女性という設定で、それでいて素直に純粋に自分の目指すべき目標に気づいて立ち上がっていくという過程がとても自然に描かれていて、歴史ドラマとしてもヒューマンドラマとしてもよくまとまった秀作だと思います。
すごく大事な話だし、もっと大規模に公開してもっとたくさんの人に観てほしいと思います。
1912年、ロンドンの洗濯工場で働く24歳のモード(キャリー・マリガン)は、同僚のバイオレット(アンヌ=マリー・ダフ)の代理で公聴会で証言をしたことをきっかけに女性参政権運動に巻き込まれていくが、運動のリーダー・パンクハースト夫人(メリル・ストリープ)の演説現場で逮捕され夫(ベン・ウィショー)から家を追いだされてしまう。
100年前のイギリスで女性の人権を求めて戦った“サフラジェット”の活動を描いた伝記映画。
私はもともと参政権をもってなくて、25歳で日本国籍を取得して初めて参政権を得た。
21歳までは無国籍だったし、韓国籍を取得した後も、韓国国内に居住した事実がなければ参政権は得られない。だから日本国籍になってから、日本で得た参政権が最初の参政権だった。以降、選挙に行かなかったことは一度もない。
参政権だけじゃない。
自分で行きたいところに行く権利。仕事を選ぶ権利。教育を受ける権利。病気や怪我をしたら医療を受ける権利。綺麗な水にアクセスできる権利。読みたい本が読める権利。いいたいことを発言する権利。
こうした権利はすべて、決して当たり前のものではなく先人が努力して獲得し積み重ねてきたものだ。そこには長い時間と多くの血と汗と涙が流れてきた。
地域によってはまだ、こんな権利にさえ当たり前に手が届かない女性はまだまだたくさんいる。生まれた場所が違っていたというだけの理由で、選挙にいけないだけでなく人としての尊厳のすべてを蹂躙されるままに生まれ、搾取されるがままに人生を終えていく女性たちもいる。
過去と現在の多くの犠牲の上に成り立っているすべての権利は、その犠牲の上にあるからこそ責任をもって行使されるべきで、かつ行使する者によってまもられていくべきだと思うからだ。
でも多くの人が、その事実には気づかない。少なくとも、選挙に行かない人、行かないで平気でいられる人はおそらく気づいていない。
そんな人たちが、この国の半数以上を占めている。とても怖いことだと思う。
なんでそれで平気でいられるんだろうと、単純に不思議に思う。
この映画では50年もの平和的な運動の末に、イギリスの女性たちがテロ行為にはしるようになった後の過激な活動を描いている。
女性たちは商店の窓ガラスを割ったり、ポストを爆破したり電話線を切ったりして世間の注目を集めようとする。暴力的といっても直接人を傷つけたりはしないものの、彼女たちは何度も警察に拘留されたり刑務所に入れられたりしながらも、決して折れることなく勝利を信じて戦い続ける。それは当時すでにニュージーランドやオーストラリア、フィンランドやノルウェーなど他国で次々に女性参政権が認められていて、世界的な流れが出来上がっていたからだろう。あとはタイミングの問題だったといえる。
それでも彼女たちは実力行使に訴えざるを得なかった。それは、彼女たちが求めたのが単なる“参政権”ではなかったからではないだろうか。子どもの養育権。職業選択の自由。教育の権利。自分の身体をまもる権利。彼女たちにとって“参政権”はそうした女性の人権の象徴だった。人として男と対等でないことを否定するために、参政権が必要だった。
いま現在、参政権をもっていてそれを行使しない人は、おそらくはそのことを理解していないのではないかと思う。
参政権を行使しないということは、人として享受できるはずの人権の価値にも気づいていないのと同じではないだろうか。
そんなのめちゃくちゃ怖いと思うんだけど、気づいてなくてよく平気で生きてられるよね。不思議です。
主人公モードが何も知らない、ごく平凡な若い貧しい女性という設定で、それでいて素直に純粋に自分の目指すべき目標に気づいて立ち上がっていくという過程がとても自然に描かれていて、歴史ドラマとしてもヒューマンドラマとしてもよくまとまった秀作だと思います。
すごく大事な話だし、もっと大規模に公開してもっとたくさんの人に観てほしいと思います。
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