『四月の雪』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000VXR78Y&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
昨日の日記にも書いたぐりの映画鑑賞三原則。
ひとつ、作品に関する事前情報をなるべくいれない。ふたつ、作品に対する勝手な期待をもたないこと。みっつめ、作品にできるだけ入りこんで観ること。
Blogがこれだけ流行ってたくさんの人が映画評を書く世の中だけど、ぐりが普段みてまわる限りでは、大抵の「おもしろくなかった」という評はほとんどがふたつめ、作品に観客の勝手な期待を持ちこんでいることが原因のように思える。
たとえばハードボイルドならハードボイルドはこうあるべきではないか、とか、サスペンスならサスペンスはこうあるべきではないかとか。もっと下世話な言い方をするなら、ラブシーンがあるならエッチじゃなきゃイヤとか、ホラーなら残酷じゃなきゃ納得いかないとか、意外に結構たくさんの人が無意識に映画にいわゆる既成概念を求めながら観ていたりする。それはそういう観客が求めがちなものに安易に迎合している映画やTV番組が多すぎる(その方が最大公約数的にわかりやすい=受け入れられやすい)からなんだけど、毎度毎度それでは新鮮味もオリジナリティもなくなってしまう。当然作家によってはそんな予定調和な作品なんかつくりたくない人もいる。
ぐりはどっちかといえばそういう観客を裏切れる作品の方が好きですけども。
『四月の雪』もぐりがみてまわるBlogではすこぶる評判悪いです。曰く退屈だとか、盛り上がりに欠けるとか。日本ではヒットしてるけど韓国や台湾では全然成績悪いみたいだし。
でもさぁ、大体許秦豪(ホ・ジノ)作品に盛り上がりとか求める方が間違ってないかね?大絶賛された『八月のクリスマス』だって『春の日は過ぎゆく』だってカタストロフもなにもない、ひたすら静かで淡々としたメロドラマだった。
彼の映画では画面ではほとんど何も起こらない。死期の告知も、主人公の最期も、愛が壊れる瞬間も、交通事故も、ほとんどの大事件は画面には出て来ないまま物語が展開していく。大事なことは大抵画面の外で起こってしまってから、観客はなりゆきでその「一大事」の存在を知る。それが許秦豪作品。盛り上がる訳がない(爆)。
だがそれだからこそ、彼の作品には繊細な情感が満ち溢れている。わざとハイテンションなシーンを排除してあるからこそ、涙はほんとうにほんとうにせつなくあたたかいし、笑顔は実にやさしくさわやかだ。少ない台詞のひとつひとつには重い説得力があるし、登場人物の無言の背中や横顔からは能弁にその心のうちが伝わってくる。
いつも少し淋しげな引いた構図もぐりは好きだし、音楽もなくしんとしたひとりぼっちのシーンも(よく出て来る)リアルで良いと思う。
なかには裴勇俊(ぺ・ヨンジュン)や孫芸珍(ソン・イェジン)の芝居がイケてないという評もみかけたけど、ぐりは特にそうは思わない。彼らは彼らなりに頑張ってたと思うし、ぐりが観た限りではそれほど悪くないと思う。少なくともぐりは不満は感じなかった。
許秦豪の作品は台詞がとても少ないので、台詞によって台本を読み取ろうとする習慣のある役者にとっては割りに難しい、ハードルの高い作風ともいえる。だって台詞=言葉で説明しちゃうのってラクじゃないですか。でも台詞がなかったら感情をぜんぶ表情を含めたボディランゲージでしか表現出来ない。ボディランゲージによる感情表現というのはまず自分自身を解き放ってからっぽにして、全ての現象に対して100%ストレートに反応出来るモードに自分をもっていくところからしか始められない。これは相当に難しいことだし、おそらくはいくら訓練しても出来ない人の方が多い。
そんなハイレベルな芝居を要求される作品の中で、ふたりはかなり頑張ってはいたんではないかと思う。ぐりはね。
今回の『四月の雪』はそれでも許秦豪にしてはドラマチックな話だと思う。ダブル不倫のカップルが交通事故に遭って、ふたりともが意識不明の重態に陥る。病院で出会ったふたりのそれぞれの配偶者が、毎日顔をあわせるうちにだんだん親しくなっていき、恋に堕ちる。筋立ても細かな偶然の繰り返しもまさにメロドラマの王道ではないか。
それなのにお定まりのメロドラマの俗っぽさに陥らないのは、やはり台詞での説明を一切排除して全てを画で表現しようとしているからだろう。
事故に巻き込まれたトラックドライバーの葬式の帰り、ソヨン(孫芸珍)がクルマを降りて道端で号泣するシーンがある。台詞はまったくない。画面もほとんど動かず、カットチェンジも一度しかない。時間はもう黄昏時で、泣いている女の顔もろくに見えない。でもみている者は胸を抉られるようなせつなさに襲われる。私は悪くないのに、私が何をしたというんだろう、そんなソヨンの心の叫びが聞こえてくる。
そんなワケで許秦豪ファンのぐりとしては納得の出来でした。おもしろかったです。ちゃんと。いい映画です。
けど許秦豪ファンでない人にはあえてオススメはしないです。ヘタすっと寝ちゃうかもしんないからね(爆)。
そーいやぐりが観た上映館には例のよんさん手型があって、ちょーいっぱい「家族」の方が行列されてました。売店にも各種グッズがたんまり。
よんさん劇中で鼻水垂らして泣いてたけど(爆)、あれって「家族」さん的にはどーなんでしょね。ぐりは「おっ。よんさんの鼻の穴にも鼻水入ってんだー。サイボーグじゃないんだー」とかちょっと思ったけど。
すんません。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000VXR78Y&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
昨日の日記にも書いたぐりの映画鑑賞三原則。
ひとつ、作品に関する事前情報をなるべくいれない。ふたつ、作品に対する勝手な期待をもたないこと。みっつめ、作品にできるだけ入りこんで観ること。
Blogがこれだけ流行ってたくさんの人が映画評を書く世の中だけど、ぐりが普段みてまわる限りでは、大抵の「おもしろくなかった」という評はほとんどがふたつめ、作品に観客の勝手な期待を持ちこんでいることが原因のように思える。
たとえばハードボイルドならハードボイルドはこうあるべきではないか、とか、サスペンスならサスペンスはこうあるべきではないかとか。もっと下世話な言い方をするなら、ラブシーンがあるならエッチじゃなきゃイヤとか、ホラーなら残酷じゃなきゃ納得いかないとか、意外に結構たくさんの人が無意識に映画にいわゆる既成概念を求めながら観ていたりする。それはそういう観客が求めがちなものに安易に迎合している映画やTV番組が多すぎる(その方が最大公約数的にわかりやすい=受け入れられやすい)からなんだけど、毎度毎度それでは新鮮味もオリジナリティもなくなってしまう。当然作家によってはそんな予定調和な作品なんかつくりたくない人もいる。
ぐりはどっちかといえばそういう観客を裏切れる作品の方が好きですけども。
『四月の雪』もぐりがみてまわるBlogではすこぶる評判悪いです。曰く退屈だとか、盛り上がりに欠けるとか。日本ではヒットしてるけど韓国や台湾では全然成績悪いみたいだし。
でもさぁ、大体許秦豪(ホ・ジノ)作品に盛り上がりとか求める方が間違ってないかね?大絶賛された『八月のクリスマス』だって『春の日は過ぎゆく』だってカタストロフもなにもない、ひたすら静かで淡々としたメロドラマだった。
彼の映画では画面ではほとんど何も起こらない。死期の告知も、主人公の最期も、愛が壊れる瞬間も、交通事故も、ほとんどの大事件は画面には出て来ないまま物語が展開していく。大事なことは大抵画面の外で起こってしまってから、観客はなりゆきでその「一大事」の存在を知る。それが許秦豪作品。盛り上がる訳がない(爆)。
だがそれだからこそ、彼の作品には繊細な情感が満ち溢れている。わざとハイテンションなシーンを排除してあるからこそ、涙はほんとうにほんとうにせつなくあたたかいし、笑顔は実にやさしくさわやかだ。少ない台詞のひとつひとつには重い説得力があるし、登場人物の無言の背中や横顔からは能弁にその心のうちが伝わってくる。
いつも少し淋しげな引いた構図もぐりは好きだし、音楽もなくしんとしたひとりぼっちのシーンも(よく出て来る)リアルで良いと思う。
なかには裴勇俊(ぺ・ヨンジュン)や孫芸珍(ソン・イェジン)の芝居がイケてないという評もみかけたけど、ぐりは特にそうは思わない。彼らは彼らなりに頑張ってたと思うし、ぐりが観た限りではそれほど悪くないと思う。少なくともぐりは不満は感じなかった。
許秦豪の作品は台詞がとても少ないので、台詞によって台本を読み取ろうとする習慣のある役者にとっては割りに難しい、ハードルの高い作風ともいえる。だって台詞=言葉で説明しちゃうのってラクじゃないですか。でも台詞がなかったら感情をぜんぶ表情を含めたボディランゲージでしか表現出来ない。ボディランゲージによる感情表現というのはまず自分自身を解き放ってからっぽにして、全ての現象に対して100%ストレートに反応出来るモードに自分をもっていくところからしか始められない。これは相当に難しいことだし、おそらくはいくら訓練しても出来ない人の方が多い。
そんなハイレベルな芝居を要求される作品の中で、ふたりはかなり頑張ってはいたんではないかと思う。ぐりはね。
今回の『四月の雪』はそれでも許秦豪にしてはドラマチックな話だと思う。ダブル不倫のカップルが交通事故に遭って、ふたりともが意識不明の重態に陥る。病院で出会ったふたりのそれぞれの配偶者が、毎日顔をあわせるうちにだんだん親しくなっていき、恋に堕ちる。筋立ても細かな偶然の繰り返しもまさにメロドラマの王道ではないか。
それなのにお定まりのメロドラマの俗っぽさに陥らないのは、やはり台詞での説明を一切排除して全てを画で表現しようとしているからだろう。
事故に巻き込まれたトラックドライバーの葬式の帰り、ソヨン(孫芸珍)がクルマを降りて道端で号泣するシーンがある。台詞はまったくない。画面もほとんど動かず、カットチェンジも一度しかない。時間はもう黄昏時で、泣いている女の顔もろくに見えない。でもみている者は胸を抉られるようなせつなさに襲われる。私は悪くないのに、私が何をしたというんだろう、そんなソヨンの心の叫びが聞こえてくる。
そんなワケで許秦豪ファンのぐりとしては納得の出来でした。おもしろかったです。ちゃんと。いい映画です。
けど許秦豪ファンでない人にはあえてオススメはしないです。ヘタすっと寝ちゃうかもしんないからね(爆)。
そーいやぐりが観た上映館には例のよんさん手型があって、ちょーいっぱい「家族」の方が行列されてました。売店にも各種グッズがたんまり。
よんさん劇中で鼻水垂らして泣いてたけど(爆)、あれって「家族」さん的にはどーなんでしょね。ぐりは「おっ。よんさんの鼻の穴にも鼻水入ってんだー。サイボーグじゃないんだー」とかちょっと思ったけど。
すんません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます