落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

オルゴールの調べ

2008年09月06日 | play
『人形の家』

平凡な主婦ノラ(宮沢りえ)の夫ヘルメル(堤真一)は元弁護士の銀行頭取。潔癖性で頑固者の亭主関白だが、ノラは夫を心から愛し信頼していた。
あるクリスマス、幼馴染みの未亡人クリスティーネ(神野三鈴)がノラを訪ねてくる。久しぶりの再会にノラは決して夫には打ち明けられない秘密を彼女に告白するのだが・・・。
19世紀の劇作家イプセンの代表作。

既婚女性と話していて、たまに「夫がこういってたから(私もそう思う)」「ダンナがこういうから(私はそうする)」的なモノのいい方をする人に出会ってぎょっとすることがある。彼女たちの口ぶりはもろに、夫が彼女自身の価値観を支配しているかのように聞こえるからだ。夫がクロといえばクロで、シロといえばシロ、みたいな。「結婚して主婦におさまるなんて人生はつまらない」「夫に世話してもらわなくても生きていける女になれ」と耳にたこが出来て聞いてるこっちの口まで酸っぱくなるほどいい聞かされて育ったぐりには、そんな考え方はちょっと信じられない。
あるいは彼女たちは、そういうことにしておけば万事まるくおさまって天下泰平だからと、便利なつもりで夫に迎合して見せているだけかもしれない。彼女自身の意見は他にあるけど、とりあえずそれはこそっとしまっといた方がいろいろラクだからと。
そのあたりの真実は結婚経験のないぐりには推し量りようもない。

ノラは夫の命ずる通り、明るく天真爛漫とした家庭の主婦を演じている。節約をし、甘いものを我慢し、夫の意見にはすべて同調する。夫はそんな妻がかわいくてしょうがない。「僕の小鳥」と呼んで猫可愛がりし、きみのためならどんなことでもしてあげる、とささやく。
妻はそんな夫の愛を信じて秘密を必死に隠し通して来たのだが、ふたりの愛は実は愛ではない。一見すれば仲睦まじく最高に幸せそうなふたりだが、実際にはふたりとも相手の真の姿など見てはいなかったのだ。お互いに自分に都合のいい誰かをつくりあげて勝手に相手に投影して見ていただけである。
愛が虚構であったという事実が暴露され、ヘルメル夫妻の関係は破綻する。最後に妻は家庭という名の舞台を降りて去って行くのだが、今回の公演では宮沢りえは「下り」ずに「上る」。そこに微かな希望を感じさせる幕切れとなっている。
だがこの幕切れには、有史以来無数の女性が女性であるばかりに強いられ続けて来た犠牲への復讐もこめられている気がする。妻であるというだけで自我を認められてこなかったすべての女性がいったい何を隠して涙をのんで来たのかを、ノラは告発しているのではないだろうか。

この演劇が書かれた当時は、主婦が家庭を捨てるなどという行為は社会的にまったく受け入れられておらず大論争を巻き起こしたそうで、その後も「ノラ」はフェミニズム運動の象徴のように語られているが、あるいはイプセンは観客に衝撃を与える要素としてこうしたエンディングを書いただけで、社会的意図などそもそも持っていなかったかもしれない。
この物語に描かれているのは女性の自立だけではない。父であれ夫であれ、相手と衝突することを恐れて自分を曲げて騙して生きることの虚しさ、愚かしさ。家庭という人間の生活の絶対的基盤の脆さ、あやうさ。法という社会制度の欺瞞。拝金主義のリスク。どれをとってもいつの時代どこの社会でも普遍の命題である。改めて現代演劇の父イプセンの功績に畏れいる。

宮沢りえは舞台で観るのは初めてだけど、この人の演技は上手い下手じゃないなと改めて思い。ていうかどっちかというと決して上手な部類ではないと思うんだけど、あの美しい声をふり絞って必死に語り、全身を震わせながら訴えかけてくる存在感がもう既に感動的なんだよね。おかしなことにさ。演技がどーとかゆー問題じゃないんだよね。マジでノラそのものにしか見えないもん。世間知らずで聡明とはとてもいえないけど、純粋で可憐で感受性豊かな心の美しい女性、ノラ。もう説得力が圧倒的すぎます。衣裳もすっごくかわいかった。
堤真一は何度も舞台観てますが、ホントにどこを切っても堤真一印の金太郎飴役者とゆーかー・・・まあ彼もルヴォー組の常連だから安牌っちゃ安牌か(爆)。
今回はひさしぶりのデヴィッド・ルヴォーの公演とあってものすごく楽しみにしていたのだが、果たして期待はまったく裏切られなかった。すばらしい。完璧。ブラボー。
舞台装置は客席の真ん中に正方形の廻り舞台がひとつ。それがオルゴールの音にあわせてゆっくり回転する。まさに家庭=機械仕掛けの舞台そのものという美術もおもしろかったです。

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