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今日はホントは投票の後仕事の予定があったのだが天候悪化のためキャンセルに。
なので『舞劇 覇王別姫 ある愛の伝説』上演に併せた映画『さらば、わが愛 覇王別姫』のレイトショーに行ってきました。
記憶にある限りではぐりはこの映画をスクリーンで観るのは初めてだ。
93年だかの日本公開時はまだ学生で、世間でやんやと騒がれてるものにいちいち反発する生意気なガキだったために劇場では観なかったのだが、のちのちビデオやLD(持ってるんだなこれが)で観ては「スクリーンで観ればよかった」と後悔した。
断っておくがぐりはこの映画は決して好きではない。好きにはなれない。だが世間で批判されているほどイヤな作品でもないと思う。ぐりは時代考証や舞台背景の再現といった些末なリアリズムには正直ほとんど興味はないし、そうしたトリビア的な映画の見方に何の意味があるのかまったくわからない。なのでこの映画のあれこれが史実に反しているとかどこそこの表現が乱暴だとかそういうことは問題ではない。単に、各場面の演出過多なあざとさとディテールの粗雑さが大味に感じるだけだ。
あざとくはあっても確かにこの映画は美しい。映像も綺麗だし音楽もいいと思う。今回初めてスクリーンで観て、改めて、もっとフィルムの状態がよかった時に観ておくべきだったと思った。
それと何度めかの鑑賞で思い当たったのだが、やはりこの映画はいわゆる「同性愛映画」ではないと思った。
主人公・程蝶衣は男性でありながら兄弟子の段暁樓との関係に異様に固執し、暁樓の妻・菊仙にも露骨に嫉妬するが、その感情はいわゆる単純な恋心ではない。というか恋心でないからこそ本人も苦しんだのだ。
暁樓はそんな蝶衣にことごとに芝居と私生活はべつものだと諭すが、蝶衣はまるで耳を貸さない。それもそのはずで、彼にとっては芝居が全て、芸が全てだから、そもそも人間らしい「私生活」になどなんの価値も見いだせはしなかったのだ(だからこそアヘンに溺れたりパトロンと関係を持ったり、破綻した生活に陥るのだ)。そして彼の芝居には暁樓が欠かせなかった。暁樓を支えにして彼は芸術家として生きて来たのだ。彼は暁樓にもそうした価値観を求めたが、なぜか暁樓はそういう人間にはならなかった。いつもいっしょにいて支えあって育ったふたりの価値観がなぜそこまでかけ離れていたのかはわからないが、蝶衣が本心から暁樓との関係を発展させたいとは望んでいなかったことだけは確かだと思った。ただ現状維持だけを熱望していたのではないだろうか。むしろ仮に彼の感情が恋であったなら、一生を報われない恋に捧げつくすよりもっと劇的な展開もあり得たのではないだろうか。
前にも少し書いたが、この映画が撮影された当時の張國榮(レスリー・チャン)の北京語は発音に問題があり、完成した映画の台詞はほとんどが別の役者の吹替えになっている。
だが陳凱歌(チェン・カイコー)監督の意図なのかこだわりなのか、部分的にレスリー本人の声が残されているシーンもあって、観ていてそこだけがふと「程蝶衣」ではなく「張國榮」に見えてドキッとした。それでまた「ああこのひとはもういないんだ、死んでしまったんだ」とさみしくなった。
そらおそろしいほどの熱演が、今となってはあまりにせつない。芝居の役と自分を混同していた程蝶衣が、芸能人・張國榮と私人・張發宗とを器用に分けて生きられなかったレスリーにくっきりと重なってみえてしまう。
今日の観客の中にはすっごい号泣してた人もいたけど、正直ぐりは涙も出なかった。映画には感情移入できないし、映画と似たような末路を辿ったレスリーのために泣くには、ぐりは彼の苦悩をまるで理解してはいないし、理解したいとも思えない。
何年かたてばいずれわかるようになるのかもしれないけど、今はまだわかりたくないのだ。
今日はホントは投票の後仕事の予定があったのだが天候悪化のためキャンセルに。
なので『舞劇 覇王別姫 ある愛の伝説』上演に併せた映画『さらば、わが愛 覇王別姫』のレイトショーに行ってきました。
記憶にある限りではぐりはこの映画をスクリーンで観るのは初めてだ。
93年だかの日本公開時はまだ学生で、世間でやんやと騒がれてるものにいちいち反発する生意気なガキだったために劇場では観なかったのだが、のちのちビデオやLD(持ってるんだなこれが)で観ては「スクリーンで観ればよかった」と後悔した。
断っておくがぐりはこの映画は決して好きではない。好きにはなれない。だが世間で批判されているほどイヤな作品でもないと思う。ぐりは時代考証や舞台背景の再現といった些末なリアリズムには正直ほとんど興味はないし、そうしたトリビア的な映画の見方に何の意味があるのかまったくわからない。なのでこの映画のあれこれが史実に反しているとかどこそこの表現が乱暴だとかそういうことは問題ではない。単に、各場面の演出過多なあざとさとディテールの粗雑さが大味に感じるだけだ。
あざとくはあっても確かにこの映画は美しい。映像も綺麗だし音楽もいいと思う。今回初めてスクリーンで観て、改めて、もっとフィルムの状態がよかった時に観ておくべきだったと思った。
それと何度めかの鑑賞で思い当たったのだが、やはりこの映画はいわゆる「同性愛映画」ではないと思った。
主人公・程蝶衣は男性でありながら兄弟子の段暁樓との関係に異様に固執し、暁樓の妻・菊仙にも露骨に嫉妬するが、その感情はいわゆる単純な恋心ではない。というか恋心でないからこそ本人も苦しんだのだ。
暁樓はそんな蝶衣にことごとに芝居と私生活はべつものだと諭すが、蝶衣はまるで耳を貸さない。それもそのはずで、彼にとっては芝居が全て、芸が全てだから、そもそも人間らしい「私生活」になどなんの価値も見いだせはしなかったのだ(だからこそアヘンに溺れたりパトロンと関係を持ったり、破綻した生活に陥るのだ)。そして彼の芝居には暁樓が欠かせなかった。暁樓を支えにして彼は芸術家として生きて来たのだ。彼は暁樓にもそうした価値観を求めたが、なぜか暁樓はそういう人間にはならなかった。いつもいっしょにいて支えあって育ったふたりの価値観がなぜそこまでかけ離れていたのかはわからないが、蝶衣が本心から暁樓との関係を発展させたいとは望んでいなかったことだけは確かだと思った。ただ現状維持だけを熱望していたのではないだろうか。むしろ仮に彼の感情が恋であったなら、一生を報われない恋に捧げつくすよりもっと劇的な展開もあり得たのではないだろうか。
前にも少し書いたが、この映画が撮影された当時の張國榮(レスリー・チャン)の北京語は発音に問題があり、完成した映画の台詞はほとんどが別の役者の吹替えになっている。
だが陳凱歌(チェン・カイコー)監督の意図なのかこだわりなのか、部分的にレスリー本人の声が残されているシーンもあって、観ていてそこだけがふと「程蝶衣」ではなく「張國榮」に見えてドキッとした。それでまた「ああこのひとはもういないんだ、死んでしまったんだ」とさみしくなった。
そらおそろしいほどの熱演が、今となってはあまりにせつない。芝居の役と自分を混同していた程蝶衣が、芸能人・張國榮と私人・張發宗とを器用に分けて生きられなかったレスリーにくっきりと重なってみえてしまう。
今日の観客の中にはすっごい号泣してた人もいたけど、正直ぐりは涙も出なかった。映画には感情移入できないし、映画と似たような末路を辿ったレスリーのために泣くには、ぐりは彼の苦悩をまるで理解してはいないし、理解したいとも思えない。
何年かたてばいずれわかるようになるのかもしれないけど、今はまだわかりたくないのだ。