落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

愛について

2005年09月04日 | movie
『愛についてのキンゼイ・レポート』
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ぐりは不勉強ながらこのキンゼイさんについてはなーんにも知らなかったんだけど、この映画に出て来るよーなエピソードは自分でも経験してるから、かなり共感しました。
前にも書いたと思うんだけど、ぐり自身がその方面に異常に鈍かったのと躾が厳しかったせいで、ぐりは大人になってからも相当なかまととでした。何が普通で何が正しくて、自分は正常なのか異常なのかぜんぜん分からなかった。幸いにも鈍感だったのでそれほど真面目に悩まなかったけど、大学生のころ「マルコポーロ」という雑誌(のちにホロコーストを否定する記事がもとで廃刊になった)に連載されていた清水ちなみさんの「大えっち」というアンケートコラムを読んで、「ああ人間ってみんな違うんだな、みんなといっしょでなくったっていいんだ」とスッキリした気持ちになったのをよく覚えてます。
「大えっち」は単行本にもなったので読んだ方もいると思うんだけど、女性だけを対象にしたセックスに関する詳細なアンケートで、それこそ初体験や不倫経験などの単純な設問から相手の肉体に抱いた印象やオーガズムの感覚の具体的な比喩などといったユニークなのもあって、普通に読み物として楽しいし、読んだ誰もがかなりホッと出来る内容なんではないかと思います。機会があったら是非お手にとってみて下さい。

人はいつからこんなにセックスに否定的になったのだろう?
これはぐりが勝手に思ってるんだけど、人類がセックス=恥ずかしいという風に感じるよーになったのって、大航海時代以降じゃないかと思うんだよね。つまり性病の蔓延が原因。それ以前はカトリック世界でだってセックスはもっとオープンなものだったし、日本も江戸時代までは庶民の性生活は今よりもアナーキーだった。そこへ性病が登場した。まだ医学が発達していなかった時代、人が性病から健康を守る手段は「純潔」しかなかった。それはそれで間違ってはいなかったんだけど、人間は誰もがそこまで意志が強いわけではない。かくして人の性的幻想を抑圧するためにあらゆる事実無根の迷信が生み出された。その結果やがて人は「セックスは恥ずかしいもの、子づくり以外のセックスは反道徳的なもの」と思いこむように洗脳されていってしまった。

キンゼイ氏は医学の発達した現代においてそうした無意味な呪縛に苦しめられる人々を救うために、科学的にセックスを研究したひとだ。彼の研究は素晴しかったし、この映画にもそのことはちゃんと描かれている。
だがこの映画のおもしろいところは、そうした美しい面/かっこいい面だけではなく、キンゼイ氏を含めた科学界のありようの不自然な部分もさりげに描かれているところだ。
キンゼイ氏やスタッフたちは純粋に研究にのめりこむあまり、やがてセックスに対して傲慢な感覚を抱くようになっていってしまう。自分はセックスを知り抜いているから、自分や伴侶のセックスのみならず感情までも完全にコントロール出来ると思ってしまうのだ。まぁそれが人情というものだろう。だが人は自分で自分を100%制御出来るほど完璧な生き物ではない。

キンゼイ氏の本に助けられた人はたくさんいるだろう。だがあれから60年近くが経とうというのに、性知識の不十分さによって起こる不幸は決してなくならなかった。未成年が犠牲になる性犯罪や性的マイノリティに対する差別、性病感染者の低年齢化は今の方が当時よりも深刻になっている。それどころか、世界には完全に誤った性認識のために反人格的な慣習が堂々と行われている地域も存在したままだ。
あの当時「原子爆弾よりも衝撃的」といわれたキンゼイ・レポートだが、結局は全人類を救うところまでにはいたらなかった。果たしてこの重荷から全ての人が解放される日は現実に訪れるのだろうか。

ところでこの「キンゼイ・レポート」は日本語訳は出てるのかな?読んでみたーい。

愛について

2005年09月04日 | movie
『緑の帽子』アジア海洋映画祭

2年間もアメリカの恋人と離ればなれの男が仲間と共謀して銀行強盗をはたらくが、彼女のもとへ飛び立とうとした矢先に破局が発覚してしまう。ヤケになった男はレンタル電話屋に人質をとってたてこもる。
交渉する刑事はことが恋愛沙汰ときいて呆れるが、実のところ彼も夫婦生活の危機にさらされ病院通いをしているところだった。

ぐりがいちばんショックだったのはねー、この映画に泌尿器科医として出演してる郭涛(グォ・タオ)がプロの俳優じゃなかったってこと。この人、中国映画を観てるとしょっちゅう出て来るし時々すっごい重要な役やってたりするから(『青春愛人事件』『鬼が来た!』『活きる』など)てっっっっきり有名な役者さんだと思いこんでたら。なんと本職はプロデューサー?Bビックリ。演技うまいしねー、雰囲気もなかなかいいんだけど。
中華電影じゃよくあることですけどね。日本では「キャスティング=俳優の中から役にあう人を選ぶこと」だけど、中華圏では役にあう人なら役者でなくたって構わない。確かにその方が選択肢の幅は広がる。撮影は大変そーだけどね。
※後日付記。
その後あれこれ調べてみましたが郭涛氏はやはりプロの俳優のようです(某氏に教えていただいた所属事務所HP)。
ぐりは上記の件を今作のプロデューサー氏から聞いたのですが、何か誤解があったようです。何かは分からないけど。
ここに追記して訂正させていただきます。

この映画は今年の香港国際映画祭に出品されてて、そこで観たkaoriさんのレビューを読んでどーしても観てみたかった。だって中国でこーゆーセクシュアルなブラックコメディって珍しいじゃないですか。かなりおもしろいらしいし。買いでしょう。
実際観てみてねー。いやー。サイコー。ブラボーっす。ありがとうkaoriさん。
本編終了後のテロップにも出て来るけど、この映画はホントは5つのエピソードで綴る予定で撮影したのだが今作にはその一部しか採用されておらず、残りの部分はべつに編集して次回作とするそーなのだが、もうそれが早く観たくてしょうがない。それくらいおもしろい。
演出は洗練されてるしキャスティングもいいし脚本もよく練れてるし、照明とか編集もすごく気をつかってる。美術なんか超オシャレ。音楽もいい。インディーズなのでお金はぜんぜんつかってなさそうだけど、完成度はとても高い。
kaoriさんはSABUっぽいと書かれてたけど、ぐりはコーエン兄弟にも似てるなーと思いました。あーゆー、ドライでブラックでシニカルで?Iフビートな感じ。

上映後にプロデューサーのLu Yan氏のティーチインがあったのだが、ここで大ショック。映画のプロデューサーったら大体おっさんやないですか。普通。ところがLu Yan氏異様に若い。ほんとはどーなのか分かんないけどせいぜい20歳くらいにしか見えない(中国人の年齢は見た目では分かりにくい)。そんなワケないだろーとは思いますが。
しかも女性。華奢で小柄で色白で可愛らしい女の子。美少女ですよ。ほとんど。美少女プロデューサー。どないなっとるねん。前の方の列の真ん中にいたぐりはドキドキしてまともに彼女が見れなかった(恥)。
しかし今日のティーチインは最低だった。最初司会者が質問を求めても誰も挙手しなかったのに、ぐりがきっかけで軽い感想と質問をいったら続々と中国系の観客たちが発言し始めた。それはいいんだけど、彼らはいちいち不自由な日本語で発言するし(本人は上手いつもりなんだろうけどハッキリ云って全員ド下手。同じことを何度も繰り返すし結局何がいいたいのか一向に要領を得ない。通訳いるんだから中国語で訊けや)、おまけにいうことがあまりにも一方的に感情的で他の観客には不愉快極まりない。
批判的なことをいってはいけない訳ではないけど、「字幕には訳されてないけど台詞が下品過ぎる」とか「なぜもっと中国のすごいところを題材にしないのか」とか「こんな映画をこんなところで上映するのは間違ってる」とか、あんたら一体何様だっつの。そんなん他の観客には100%どーでもいいです。またどいつもこいつもしつこくてマイク持ったらなかなか放さない。
中国人として恥ずかしい、みたいな気持ちは分からんこともないけど、自分のいいたいことだけいえばいいってもんじゃなかろーが。ティーチインの時間は限られているし、日本の観客にとって海外作品の関係者と向かいあって話せるというのは大変貴重なチャンスなのだ。もっと建設的な話をしなければせっかくの機会が勿体ない。大体たかが映画に何をそんなに目くじらたてるのだろう。気に入らなければ途中で出れば良い。他の観客の気分まで害する必要はまったくない。
てゆーか司会者の仕切りも悪い。ティーチインの雰囲気がどんどん悪くなってってるのにボケッと突っ立ってるだけでなすがまま。司会の意味なし。猛省を促したい。

Lu Yan氏とはティーチイン終了後にも少しお話をさせてもらった。可愛かった(バカ)。郭涛の正体&ぐりの無知ここで発覚。正直めちゃくちゃ恥ずかしかったです。