はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

寒雲(斎藤茂吉料理歌集)

2011年02月09日 21時08分59秒 | 斎藤茂吉料理歌集


 昭和十二年

むらぎもの心(さや)けくなるころの老(おい)に入りつつもの食はむとす

子らがためスヰトポテト買ひ持ちて暫(しば)し銀座を歩きつつ居り

街上(がいじやう)の反吐(へど)を幾つか避(さ)けながら歩けるわれは北へ向きつつ

まぼろしに現(うつつ)まじはり蕗の薹(ふきのたう)萌ゆべくなりぬ狭き庭のうへ

しづかにも老いたまひたる岡大人(をかのうし)に祝酒(ほぎざけ)ささぐわれも飲ままく

洋食をこのごろ食ひてあぶらの香(か)しみこみしごとおもふも寂し

おさなごの筥(はこ)を開(あ)くれば僅(はつ)かなる追儺(つゐな)の豆がしまひありたり

乳(ちち)の中になかば沈みしくれなゐの苺を見つつ食はむとぞする

みづうみに下(くだ)りて行かむ道のべに苺(いちご)の花は咲きさかりけり

莖(くき)赤く萌えにし蕎麥(そばを)たまはりぬ朝な朝な食(を)すわがいのち愛(を)し

つちのうへに莖(くき)くれなゐに萌えいでしものを食ひつつ君しおもほゆ

酒宴(さかもり)にもろごゑ響き洲本(すもと)なる旅の宿りに一夜(ひとよ)いを寐(ね)ず

田のあひに人のかへりみせぬ泉(いづみ)吾手(わがて)にひびくまでにつめたし

人に言はむ理由(ゆゑよし)もなし色づきし麥生(むぎふ)のあひに泉(いづみ)もとむる

群れ生ふる擬寶珠(ぎばうしゆ)つむと友ゆけば高野(たかの)のうへに自動車が待つ

わが友は山の入野(いりぬ)に擬寶珠のやはらかを摘(つ)む明日(あす)食(く)はむため

わが側(そば)にをとめ來りてドラ燒をしみじみ食ひて去りたるかなや

横濱の成昌樓につどひたる友等みな吾よりわかし

わがそばの女(をんな)しきりに煙草(たばこ)吸ふ芝居みる時は多く吸ふらし

幾年(いくとせ)ぶりにわが身に沁みしものの一(ひと)つ泉(いづみ)におりて鷲が水飲む

この峽(かひ)も日でりつづけば汗あえておりて來にけり泉を飲みに

おもひ殘す事なしと云ひ立ちてゆく少尉にネエブル二つ手渡(てわた)す

陣(ぢん)のなかにささやかに爲(せ)る靈祭(たままつり)二本の麥酒(びいる)そなへありたり

たたかひに出でゆく馬に白飯(しらいひ)を焚きて食はせぬと聞きつつ默(もだ)す

塹壕に見ゆる眞裸(まはだか)の工兵が今し酒のむ物恐(ものおそ)れなし

いささかの氷砂糖等(など)君の陣に届かむ日ごろ雨な降りそね

枸杞(くこ)の實のあけのにほへる冬の野に山より小鳥くだりて鳴くも

よひよひに露霜(つゆじも)ふれか擬寶珠(ぎばうしゆ)はさながら白くなりて伏したり

ひろ葉みな落ち盡(つく)したる太木(ふとき)よりくれなゐの實の房(ふさ)垂(た)りに垂(た)る

じやのひげの瑠璃(るり)いろふかくならむ實をそこはかとなくあけくれて見ず

嬬(つま)ゆゑに心なやましきことなしと上海戰線に蕎麥うつところ

あるゆふべ君がみづから呉(く)れたりし我口(わがくち)ひびく佐賀(さが)の蟹(かに)づけ

わがあゆみ立ちどまりたる茄子畑(なすばたけ)老(おい)のいのちをしばし樂しむ


 昭和十三年

ゆたかなる武運(ぶうん)にあれとうちこぞり部隊の兵は餅(もち)食ふらむか

忽ちに飯店(はんてん)出來て兵(へい)いで入る「突撃(とつげき)めし」といふ看板(かんばん)あはれ

榧(かや)の枝(え)につもりし雪を口づから食はむとぞする我ならなくに

鎌もちて、楤(たら)のこのめを君が切るおどろが中に吾(わが)待ち居りて

楤(たら)の芽の萌えしばかりを食(く)はむとて軍手(ぐんて)をはめし君が手摘(つ)むも

我庭の隅に萌えいでし蕗の薹幾つかありてはやくほほけぬ

伊太利(イタリヤ)の使節人(つかひびと)らを迎へたる酒筵(さかむしろ)にゆきてのぼせつつ居り

羽前(うぜん)なる弟(おとうと)の子が満州に行くをよろこび飯(いひ)くふわれは

吾が歩むみぎりとひだり畑(はたけ)にて大麥よりも小麥が秀(ひい)づ

出羽(では)ヶ嶽(たけ)勝ちたるけふをよろこびて二(ふ)たりつれだち飯(めし)くひはじむ

來禽(らいきん)はすなはち林檎(りんご)のことにして或るときは露伴先生の「音幻論(おんげんろん)」

自轉車のうへの氷を忽ちに鋸(のこぎり)もちて挽きはじめたり

蒸暑き日にはおのれの額(ひたひ)より汗は垂りたり紅(あけ)の胡頽子(ぐみ)の實

戸をしめて遠地(とほち)をおもふこの夜ごろ杏子(あんず)黄いろになりにつらむか

豊かなるこの水中(すいちゆう)に鰻(うなぎ)鱸(すずき)沙蠶(ごかい)を食はむさましおもほゆ

くろずむまでになりたる茱萸(ぐみ)の實を前を通(とほ)り幾つか食ふも

あまつ日の遂に見えざりし市中(いちなか)に色新(いろあたら)しき茄子(なす)並びけり

みづからの食(く)はむ米(こめ)もち入りて來し峽(かひ)大門(おほと)に雲とぢわたる

通草(あけび)の實ふたつに割れてそのなかの乳色なすをわれは惜しめり

むらさきの葡萄(ぶだう)のたねはとほき世のアナクレオンの咽(のど)を塞(ふさ)ぎき

おほつぶの葡萄(ぶだう)惜しみてありしかどけふの夕(ゆふべ)はすでに惜しまず

ただ見てもわれはよろこぶ(あを)ぶだうむらさき葡萄(ぶだう)ならびてあれば

葡萄(くろぶだう)われは食(く)ひつつ年(とし)ふりしグレシヤの野(の)をおもふことなし

をとめ等(ら)がくちびるをもてつつましく押(お)しつつ食はむ葡萄(ぶだう)ぞこれは

まをとめの乳房(ちぶさ)のごとしといはれたる葡萄(ぶだう)を積みぬわがまぢかくに

秋の陽は雲のしたびに熟(じゆく)したる苺(いちご)のごとくなりて入りゆく

巖鹽(がんえん)は幾何幾何幾何(いくばくいくばくいくばく)と計算すみといふを聞きゐる

山のさちはさもあらばあれ海(うみ)の幸(さち)おのれが幸(さち)とものおもひもなし

みどり兒(ご)のおひすゑ祝ふともしびのかがよふもとにわれ醉ひにけり

鉢の子に赭(あか)くなりたる栗(くり)入れて歸りましけむ聖(ひじり)しおもほゆ

久々に君と相見れば一國(いつこく)の米(こめ)を論ずるいきほひぞよき

酒のみて痴(し)れむとすとも在りしひの神保(じんぼ)おもへば涙し流る

醉泣(ゑひなき)は誰とかもするありし日の君を偲びて醉泣(ゑひな)かむとす

朗(ほがら)けき神保おもへば今日(けふ)こよひ倒れむまでにとよもして飲め

日のつとめ果(はた)して飯(いひ)を食ふ時は高き心を汝(なれ)に與(あた)ふる

あたらしき光のごとき建國(けんごく)の心を持ちて飯(いひ)を食(く)はむぞ


 昭和十四年

白柚(しろゆず)は南(みなみ)のくにのかぐの實(み)ときのふもけふも愛(め)で飽かなくに

やはらかき餅(もちひ)を咽(のど)にのみこみて新幸(にひさいはひ)の心を遂げぬ

天皇の御下賜(おんかし)の御酒(みき)前線(ぜんせん)にごくりと飲みて年ほぎわたる

野のなかの丘を越えたるわれひとり冬(ふゆ)の泉(いづみ)をむすびて飲みつ

百萬(ひやくまん)皇軍(くわうぐん)ともに豊酒(とよみき)を飲みほす時ぞひかりかがよふ

いざ子ども世のさいはひは健(すくや)かに豊酒(とよみき)を飲むこの一ときを

餅のうへにふける黴(あをかび)の聚落(しゆうらく)を包丁をもて吾けづりけり

はりつめし甕(かめ)の氷(こほり)をかへりみずこの夜(よ)ごろ魚(うを)は生きつつゐむか

ひとり寝のベツトの上にこの朝け追儺(つゐな)の豆はころがりて居り

豊酒(とよみき)はためらはず飲め樂(たぬ)しかる今日のゆふべのこの一時(ひととき)を

竟宴(きやうえん)のゆふべとなりておのづから心ゆたけし戀(こひ)遂(と)げしごと

竟宴(きやうえん)のあかりの下(もと)に吾等つどふ馬醉木(あしび)の花もそこににほひて

鹽(しほ)斷(た)ちてこやる童(わらべ)を時をりにのぞきに來つつ心しづめ居り

をさな兒は鹽(しほ)を斷(た)たれて臥しをれど時々(ときどき)ほがらかに笑(わら)ふ聲すも

擬寶珠(ぎばうしゆ)の芽は鉾形(ほこがた)にのび立ちてけふの夕方(ゆふがた)あたり葉開(ひら)かむ

をさな子が癒(い)えむとしつつ鹽味(しほあぢ)を少しづつ食(く)ふ時にはなりぬ

入學のしらせ受けたる長男をよろこびこよひ洋食(やうしよく)くへり

わが子等と共に飯(めし)くふ時にすら諧謔(かいぎやく)ひとつ言はむともせず

夏茱萸(なつぐみ)がいろくれなゐにむらがりて生(お)ふるを見れば古(いにし)へ思ほゆ

佐比賣野(さひめの)は生ふる蕨の數しれずひくくして蕨ほほけつつあり

茂吉(もきち)われやうやく老いて麥酒(ビール)さへこのごろの飲まずあはれと思へ

年毎(としのは)におもふみ墓にあららぎの實の落つるころ我は行かむか

淺草のみ寺にちかく餅(もちひ)くひし君と千樫(ちかし)とわれとおもほゆ

山腹(やまはら)の三本楢(さんぼんなら)といふところ水湧きいでて古(いにし)へゆ今に

平(たひら)ぐらの高牧(たかまき)に來てあかときの水のみ居れば雲はしづみぬ

みちのくの藏王(ざわう)のやまに消(け)のこれる雪を食ひたり沁みとほるまで

わがためにここに起臥(おきふ)し炊(かしぎ)せし媼(おうな)身まかりて日々に悲しも

白桃(しろもも)の大きなるものわが部屋に並(なら)べつつあり(すが)しといひて

豆(まめ)もやし蒸(む)せるがごとき感動よ歐洲戰を背景とする

餅あまたくひ飽かぬてふ伯父のきみを今壽老人(いまじゆらうじん)とわれ申しける


 (原本 齋藤茂吉全集第三巻(昭和四九年))


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