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研究授業から学ぶ 雑感

2017年01月23日 09時18分39秒 | 教育を考える
今年は体育の研究発表があり、発表後も「それで終わりではなく、年度末まで研究を」という、校長の提案を受けて、三学期早々に私が授業を行った。
まあ、それはそれでよし。
迂闊ながら、この時期、6年生は受験の子がとっかえひっかえ休む。グループでの練習は、その都度調整しなくてはならない。さらに前日は高齢者擬似体験の学習。市の福祉課の担当や手伝いの保護者との交渉を、ほとんどひとりでこなす。さらに次の週に予定している、震災で被害を受けた熊本への募金活動の段取りを児童会の子どもたちとしなくてはならない。
授業の日まで、息もつけないくらいの忙しさで走り回る。
私自身、冷静に考えれば想定できたのに。

学んだことの第一は、状況判断を怠るべからず。
授業のプランは、最終的には授業者個人に帰結する。今回もしかり。ほとんど話し合いは皆無。私はそれなりに勉強にはなったが。

学んだことの第二は、体ほぐし、体つくり運動という分野は、新しい概念であり、まだまだしっかりとした論理的な枠組みがなされていないことがわかった。何冊も本を読んだが、そのほとんどが、学習指導要領の引用であり、なんら納得することがなかった。
これらは、器械運動、ボール運動などとどんな関係があるのか。
体ほぐしは、準備運動とどう違うのか。体を温め、馴らして運動の準備に入る従来のものとは何が異なるのか。柔軟性を高めるのであれば、それはトレーニングと言えるのではないのか。整理運動には使えないのか。
体つくり運動は、一般的なトレーニングと同義でないのか。技を追い求めないとするが、瞬発力、力強さ、柔軟性も、技があってのものではないのか。現に、私たちの研究授業では、この体つくり運動で、「コツを教え合おう」をメインにした展開をしている。

私は学べた。忙しかったが(笑)
こんな老いぼれではなく、若者が、もっともっと学ばないといかん。
しかし、それ以上に現場は過労死状態。みんなコピーですませている現実。
質の低下は著しい。残念だけど。
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