Do you really dream of jumping sheep?
(ども 火星人です。レイシストお断り)
Martian Official Weblog



哲学というのはですね、結局のところは自分で物事を考えると言うことに他ならないのでありますね。
ウィトゲンシュタインは、「哲学の目的は思考の論理的明晰化である」「哲学は学説ではなく、活動である」などと言っているらしいです。

さてそこで、自分で考えるといっても、何も下地がないのでは、いきなりそんな明晰に考えることも難しく、宇宙空間にほっぽり出されたような気分になるかもしれないですし、ここはひとつ哲学書でも読むか、ということになったりするかもしれないわけですが、その哲学書がまた無図開始わけですね。
それぞれ哲学をした人が、思考を明晰化して、それを言語化するとしますと、既存の常識的な言語表現では、足りない、つまり正確ではないことになるのが、まあ、普通でしょうと。
正確に表現しようとすると、一般的ではない、つまりわかりにくい言葉を使って、表現せざるを得ないわけで、それゆえ大抵哲学書は難しいということになります。
哲学をするにあたって、準備をしようと思ったら、それがまた難しいぞと、そういうことになったと。

難しいから、それならというので、そこをもう少しわかりやすくした解説書というものがあるんですね。
哲学する準備の仕方についての説明、ってなことになりますか。
まあ、これはわかりやすくした分、正確ではないかもしれないわけです。
ですからその点を踏まえて読まなければならないでしょう。

しかし、実際のところ、哲カテなんぞ見ますと、この解説書の解釈をめぐって議論が展開されるなどという不思議な世界まであるわけで、これはもやは何が目的なのかわからないのであります。

ちょっくらあるスポーツを始めようと思ったけど、
いきなり自分一人ではできないのでコーチをしてくれる人を探そうと思ったけど、
どんなコーチがいるのか(いいのか)わからないので、いろんなコーチを紹介してくれるサイトを探してみたけど、
いろいろあってどのサイトで探したらいいかわからないので、どのサイトがいいか友達に聞いてみたけど、
結局、揉めている、みたいな。
まあ、何を言っているかわかりませんが、とにかくめんどくさい。

自省録に「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。」というのがあります。
ははは
まあ、別に哲学書を読まんでも哲学はできますからね。

と、ここまで特に新しいことは書いていません。

つづく

ブリューゲルとバッハとタルコフスキー。
Bach - BWV639
たぶん3回目ぐらいですけど。

ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )