つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

珍分感分の頓珍勘

2024-04-14 | Weblog
1~9までの数字の組み合わせですべての数字が表れてくる。
最初の1と最後の9の組み合わせで0。すべてがこの0に帰す。
それ以上は存在しない。1~9を超えると存在でなくなる。存在とならない物事をいくら考えたところで無意味である。
1~9を超えたところで0、何もないとなる。この「何もない」とする0がある。
この0が「無い」と認識してしまえば、すべての存在が誤りとなってしまう。
所謂、「ある」のに「ない」として矛盾が生じる。
これが現仏教の誤りである。つまり、「ある」という実体・実態を否定してしまうために、何が何だか分からなくなってしまう。自分があるのに自分はないとして、事実たる現実を否定していることになる。現実が虚であるとすれば、虚が本物となってしまう。嘘が本物であれば現実は本物となる。空虚ではなくなる。
「無」というのも同じくして、「ない」として認識するために変になる。
「無」は「ない」ではなく、「無くならない」として認識すれば、矛盾は無くなる。エネルギーの法則通り、無くなることの無い法則となってすべてが辻褄があっていく。変化しているだけであるとして理解すれば解ける。それはまた、
木が燃えて灰になれば、貴方は木が無くなったと思うだろうが、木は灰になっただけである。それは、ビデオ撮影していれば如実に灰になったことが目に見えてわかるだろう。だから、時間を戻せば灰はもとの木に戻ることが分かる。
映された時間はもとに戻せるが、現実の時間は過ぎてしまえば戻せない。過ぎたるは及ばざるがごとしなのである。だが、ビデオの中では時間を戻すことができて現実にはできないが、それはあなた方の科学がまだそこまで追い付いていないだけである。やがて追い越していくだろうが、その時初めて、「変化」という事の意味を理解するだろう。「無」という意味を、深遠さを解いて行けるだろう。それは、時間にあなた方は縛られているために「未だ」来ないとして理解できない。だから、ゼロ(0)という数字がある事は知ったが、知っただけである。「ある」とすることに理解が及んでいない。ゼロ(0)は無ではない。無くならないとするところに帰すことである。
コメント
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