つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

スーパーゴッド

2017-07-31 | Weblog
神社仏閣に祀られているのは、極太の綱であらわされた大蛇である。
蛇と龍。
神々の姿である。
龍神様として崇められているのは、人間の創造神でもあるためで、
荒唐無稽ではないのである。

神話は、人間にとっては信じ難いものであるが、
神話こそ地上の真実の歴史である。
知的生命体というのは、人間にとって神々である。
その中でも、神の中の神とされる生命エネルギー体は、
知的がゆえに挙止端正である。
人型にしてとても端整である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

正しく、ということ

2017-07-30 | Weblog
生命の浄化の行為が「刹」である。
悪を刈り取るという意味の文字である。
だから、この行為を覆い隠すのが羅刹。

清浄である神は、無刹不現身として、
「刹」のないところ、いわゆる、浄化の行為がされないところには
現れることは無いとしている。
不浄な心の者には、どんなに願ったところで
決して現れることがないのである。

人の行為は、すべて生命エネルギーの浄化の行為となっている。
間違った浄化の行為となっていれば、地獄の世界となってしまう。
だから、正しい浄化の行為として生きていかなければならない。
エネルギーの法則を悟れば、自然と法則の身についた行為となって、
正しい浄化の行為となっていく。これが経験から知り得る知恵である。
この知恵の判断は、迷うことを必要とせず、即断できていく。
だから、瞬時何事にも対応できていくものとなる。
エネルギーの法則というのは、円運動の法則である。
円運動であるために、無くなることのない運動となっている。
始まりが終わりであり、終わりが始まりであるために、永遠とつながっていき、
無くならない運動となっているのである。この「無」が般若心経で説かれている「無」である。
だから、般若心経の「無」は「ない」と訳すのではなく、「無くならない」と訳しての「無」であり、
正しく無の解釈となっていく。つまり、般若心経の「無」は否定のための「無」ではないのである。
この「無」の解釈が間違っているために、般若心経が否定の経典とされて、
現実がありながら幻であるとされ、この幻である現象に執着して生きるために、
苦が生まれるのであり、だから、無我になり生きていくことであるとし、無我になるためには、
肉体をいじめ精神修行をして、難行苦行に耐えてこそ極楽往生となるのであると教えられる。
これではとても常人にはできないことであるし、仏の言うあまねく衆生救済には程遠く、ごくごくわずかな精神卓越した達人でなければ、
救われないことになってしまう。矛盾が生じる。
般若心経は、エネルギーの法則を説き訓えているものである。
「色即是空 空即是色・・」と説かれているのは、
エネルギーの法則が円運動であることを言っているのである。

一日が零時から始まり零時に終わる。これが疑いもない現実であることを誰もが知っていることである。
終わったらまた始まるのである。これがエネルギーの法則であり、
生命もエネルギーの法則で生じている。
私たちも生命エネルギーであり、生死を繰り返しているのである。
一日が一旦として区切られ、また新たな別の一日が始まっていくように、
人もまた同じである。繋がっていくのである。
肉体は消滅しても心は連綿なのである。エネルギーそのものであるために。
だから、円運動であり縁となって繋がっていくのであることを知り、
悪を為すなと神仏は教え諭すのである。
エネルギーの法則を理解し、身に着けていくことである。
そうすれば、自然と正しい浄化の行為となって、誰でも悟りを開けていくと
般若心経は訓えているのである。難行苦行など必要ないものである、と。
このことを証明したのが、観音と呼ばれるようになった修行僧達である。
観自在菩薩と呼ばれた修行僧は、死後、般若心経を、観世音菩薩と呼ばれるようになった
修行僧は妙法蓮華経を、同じく釈迦の説き訓えた修行が縁となって、行じていた舎利子と呼ばれた修行僧達に
啓示となったのである。
死後の世界があることの証明となったのである。
これは、釈迦の説き訓えたことが正しかった証明ともなっているのである。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

空模様

2017-07-29 | Weblog
神社仏閣がある。これはいろいろな形でもって世界中に散らばってある。
宗教の場であり、神聖な場である。
「宗」,ウ冠に示すと書かれてある。
宇宙という唯一無二のエネルギーの場、
天、つまり、宙空の模様、その示しである。
宇宙に点在する生命エネルギー、その進化の最たるところにあるエネルギーからの
示し申す処の場である。
鳥居という囲いをもって社を設けて外部との区切りを作り、神聖なエネルギーを保っている。
ある意味、縄張りという場を設けてあるといえる。
それには、神々の場所、諸仏たる場所として種々を分けている。
憤怒の形相と癒しの姿形とを持ちながら、不自由と自由を選択する宗を示している。

宙の中の事柄である。だから、由と書かれている。

その宙(そら)の中は、対立関係を持ち成り立ちながら、両性具有にして中立というゼロ(🈳)で
存在している。前後も左右も高低も、立場によりどちらでもあるために、
善悪などない。善悪は人の善悪であり自由にある。
その自由を正しく理解すれば、エネルギーの法則が善悪のない由の絶対善であることを知る。
だから、神々にも善悪を見るのは臨機応変の場にして理解する。
ただ、その時という傷つけるものからは、応戦しながら離れなければならない。
守護という立場をもってである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

あとのまつりかな?

2017-07-28 | Weblog
サラリーマン的感覚でもって、
地位と名誉それに付く金の為だけに大臣をやりたがる。
だから、挙句の果て男を下げ、或いは、女を下げ、
人格を下げる。
自分の名声だけにに執着しての世の為人の為であるために、
とどのつまりとなる。
これを恥さらしという。
まことに世の中は、見てくれの体裁ばかりをよろしくして、
恥知らずがはびこる。
だから、右往左往の大変が起こる。

人の不祥事、人災は天災を招く。
もうすでに起こっている。
過去に例を見ないほどの記録的な云々、という報道を
耳にしてきているはずである。
その悲惨さと落胆ぶりを見ているはずである。

みんな他人事で終わらせる昨今の愛情の無さは、
更にと、
じりじり驚天動地は迫りくる。

後の祭りとなるようだ!
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

自由が正義

2017-07-27 | Weblog
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」こんなCMがあったような気がする。
権力にある側のやましいことは、こぞって隠そうとするもので、
うやむやにすることに長けている。
良心の呵責などない。
権力は正義ではない。無理矢理のなかにあるものである。
自由が正義である。
善悪は無い。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

眉目秀麗

2017-07-26 | Weblog
人の心、
他人の不幸は蜜の味と
同情にしてほくそ笑み生きているもの。
だもの、
お救い下さいと願ったところで叶わない。

愛情に満ちた人は少なくあり、
欲情に焦がれて生きるもの多く、
まことに浅ましい人の世である。
大衆というのはそういうものにして、
まともにしてはならない。
魑魅魍魎たる様にして醜い。

聴くものにあるのは、
極少数の憂える人である。
彼らは実に優しくてあるために、優秀である。
優れた人といるのは幸せである。
やはり、顔だちも整っているものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

自然淘汰の始まり

2017-07-25 | Weblog
邪悪な人がはびこって、もはや助かる見込みはないと思われる。
天変地異をもたらすのは、人間の悪たるエネルギーによるものである。
地球のここかしこで起こる災害は、人間を見放した地球の判断。
もうこれ以上改善されることがないと判断された果である。

どこもかしこも生き辛くなってきていると感じているはずである。

自己中なる大衆の集いは、ただうわべだけの装いの愛情表現。
金に心を奪われた醜い人たちの集まりは、当然不満だらけの一触即発状態にある。
損得勘定だけで生きているために、
金が正義となって、金の為なら噓八百もなんのその。
だから、つじつまが合わなくても無理やり通す
矛盾だらけ。
人の世は、
金のある者、金を牛耳るものが正義となっている。

自然は、そんな人間を人で無しと判断して、
一掃することを始めた。それを、自然淘汰という。
私たちの日々の人間関係こそがすべてを物語る。
この畜生である。
致し方なしという、自業自得。





コメント
この記事をはてなブックマークに追加

貧乏の徳

2017-07-24 | Weblog
貧乏にあるうちの愛情というのは力がある。
何よりも信頼に足るものである。
貧することにあっての優しさというのは、
まことにまことに頼もしい。
愛するというのは、貧して優れる。
めげずに
その事象、事情を活かせ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2017-07-23 | Weblog
天候異変は、これから先更に多くなる。
これだけふしだらな人間が多くなれば、需要と供給のつり合いもうまくいかなくなってくる。
汚れる度合いが激しい割には、綺麗にすることの行為が不釣り合い。
だから、自然が否応なく汚れをもたらす原因を一掃するのである。

自然が浄化の法でもあるためで、だから、自然は何もしなくても美しい。
無秩序にして見えて、整然となっている。
だから、いつの間にか、汚いものはなくなっていき、
きれいな風景になる。生命は、野に山に川に海に空に神々を思い、
その意志に基づくものとして、自然に畏怖の念と敬意を持つ。
共存共栄というのは、自然と共にあらねばならない。
むやみに人の為だけに開発してはならない。
神々の故郷は、高度な技術の故、自然と調和していて、
まことに素朴にある。高度に進化した科学技術は、進化すればするほど、
わびさびの様を重視して、いや、重視というより、自然の様が最も適した環境ということを知る。
植物の葉の配列、巻貝の巻き方、等々等、黄金律、白銀律と整然とした様が作られるのは、
自然が最も浄化された姿であるために綺麗になるのである。
それを知って、自然を壊すことなく自然に溶け込んでいる。
律しているのは、自由を正しく理解しているためである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

尊重

2017-07-22 | Weblog
対立しているのが世の中でもある。
そのうえでの共存共栄を図らなければならない。
社会主義・共産主義・資本主義、どれにも
自由はない。どれも一見よさそうに思われる主義であるが、
強い束縛の中にある。
歴然たる階級社会なのである。だから、どの主義にも
ブルジョア階級とプロレタリア階級という格差が生じる。
自由などない。所謂、人の為と書く文字、偽りと読まれるその自由である。つまり、不自由なのである。

多寡の開きというのは優劣という関係性を省き、
個性というそれぞれの格付きにあり、臨機に対応してあるものである。
どれも場に応じて優れた性を発揮するものとしてある。
決して軽んじてあるものではない。
頻繁にあることに対応して優劣となれば、
稀において悉く損じてしまう。
世の道理は、辻褄が合うようになっているのである。
その道理を忘れて、或いは、軽んじてしまえば、稀にあることが現れて、
そこで最後となる。
現れたら最後ということであるために、学習することが難しいが、
頻繁と稀を同等なる対立と捉えられるのなら、頻繁を見て知りえる知恵で学習となる。
共存共栄というのには互いを尊重することにある。
自由というのは、尊重にしてある。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加