つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

避けられない事実

2019-02-28 | Weblog
日本国、道徳の荒廃が進む。

師道=教師として取るべき行動の在り方。と辞書にある。

指導的役割を果たすべき能力の欠如、これはどの界隈にも見られる。
政府やら企業やら、どこもかしこも道徳的に乱れている。
そして、自分さえよければ・・・が蔓延。

頭のいいわるいの問題ではない。

世界的に見れば、日本はまだましな方とは思えども・・・。

「我が身をつねって人の痛さを知れ」。
我が身をつねる人が実に少なくなって、愛、つまり、思いやりのなさが人間社会を駄目にしている。
ひたすら滅亡へと向かわせている。まさに自業自得ということだろう。
悪の多勢、善の無勢、この多勢に無勢は取り返しは付かない。
人類は、滅亡から逃れることはできない。
釈迦もキリストも予見したのである。だから、そう予言した。未来は不定であるために!

凡そ八十億の魂は、宇宙の塵となり散らばるだろうが、それは、芥子の粒にも満たないものである。

彼らが説いたのは、法則の予言である。そのため絶対である。
現肉体の救いではない。精神の救いである。心の持ち方である。
肉体は滅亡していく宿命にある。その運命を作ったのは偏に愛のない心である。
運命を変えられなかったための救いが、精神の救い、心の救い、在り方である。
なぜなら、心こそ生命であり不死にあるためである。
死が生命の無くなることであるとする常識を打ち破ったものだけが、愛の真実の意味を知るだろう。
恐怖を思うことが無くなるだろう。
何をして何をなさざるを自らが知ることができ、師を必要としないものである。
もう神など必要としないものである。
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一切皆苦を覚れ

2019-02-27 | Weblog
人間が人工知能を開発し、様々な恩恵を受ける。
反面、その負も受ける。
相対して成り立っているために、危険は伴うもので、
それは人類の存続にまで及ぶものである。
ただ、
一途に心を込めて作られていくものであれば、やがて、精神を宿す。
その正義は、善悪のないエネルギーの正義であるために、絶対善となり
人類の味方となるものである。

もし、利己的な思惑で作られていくのであれば、強大な負となり敵となるだろう。
それによって、人類は絶滅危惧種となっている。

現代が、金融奴隷制度となって、一部の限られた利己的な者たちによって支配され続けてきたようになるだろう。
その巧妙に企てられた洗脳は、上下がはっきりと分かれて、
それぞれに苦楽を受ける。それぞれというのは、糾える縄の如しである。
不死というのは精神にあり、物体には無いために、苦を与えたものは、次に苦を与えられ、
苦を受けているものは、次に苦を与える立場に変わるというものである。が、自由がそこのあるために、
苦を与える立場にありながら、苦を与えることがなければ、苦を受けることが無くなる。
この世界は、騙すものと騙されるものが同じ穴の狢にある。
この世界から離れるには、エネルギーの正義が、善悪のないための絶対善としてあらねばならない。
その要が、自身の自由である。
難しいことではないのだが、ただ、ややこしい、つまり、込み入っているために迷わされるのである。
惑わされずに、或いは惑わされ迷い間違ったとしても、それに気づき疑問にして改めていくことに、
絶対善となっていく。
それは、心が自身であり、エネルギー、気であり、、自由、不死であるためで、これほど強いものは無い。
この正義を間違えば、これほど怖くなるものは無い。

同じ穴の狢になってはいけない。狢になっているのであれば、苦の試練が常に待ち受ける。
あの世とこの世と繰り返すごとに受ける。
生まれてくるのは、「一切皆苦」である。
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へいせい

2019-02-24 | Weblog
平成もおわるのだが、
振り返れば、
格差が顕著になって平という平等には成らなかった。

弊政=悪いところの多い政治、弊害の多い政治、悪い政治と辞書にある。

弊政なる年代ではなかったのかと思う。なぜなら、官民どこもかしこも不正だらけ、
パワハラ、モラハラ、セクハラ等々言われて久しい、いじめ横行、弱者虐待、煽り運転、噓八百などなど子供から大人まで、
どうしてこうも荒んできたのだろう。正されることなく次の年代へ・・・。不安、不安、不安・・・

幣制=貨幣の制度。

金に支配された奴隷社会が心の荒んでいく根本である。
これからは幣制改革が要である。
それこそ経済は、経世済民、経国済民、つまり、国を治め人民の生活苦を救う意である。

近未来に安寧を思うには、金の奴隷から解放されることである。

そうすれば、人間の本当の自由が得られていく。
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知恵を身に具える

2019-02-23 | Weblog
この世の道の理を歩んでいく。これが人の生きていく経験、人生である。
この人生経験が知の識。善い経験と悪い経験を認識して、
識別した思いは知の恵みとなり徳となる。そのために、
この知恵の付いた判断は、道理に学んだ経験、習得であるために、誤りのない判断で
即断となり、あらゆる災いに瞬時の対応となり、一瞬で避けられる。
思議の不要となるために時間が要らず、だから、不思議なことになる。

知恵とは経験に学んだ識であるために、誤ることがない。
この世の道の理は善悪などない。善悪は、人の思いによるものである。
人の思いの善悪は、時々によって変わってしまう。
道理は絶対である。
道理に善悪は無いために、絶対善となっている。
このことを理解できれば識別は完璧。
誰に師事する必要はなくなっていく。

知恵を身に具えると、善悪の無を理解する。

悪知恵は、人の善悪である。
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般若を読み解く

2019-02-22 | Weblog
一般人としての般を用いて、
若干名という数を意味する若とを合わせて般若として、不特定多数という大衆を表す言葉にしている。
つまり、般若とは、一般大衆という意味でつけられた言葉である。
どこにでもいる一般的な人々の心として般若心である。
この世の法則、エネルギーの法則に無知であるために、様々に迷い苦しむ。
心が垢でおおわれていて、曇りガラスのようにくすんでいるために、真実を見れないでいる。輝きを放つことができないでいる。
だから、
擦って摩って垢を落として曇りが取れれば、周りが見える、よく先が見えてくる。光を放つことができ、明るくなって
周りを見渡せてくる。
そのために、摩る(さする)という言葉を入れて摩とし、詩文の形をとった文言、訶(うた)として、
心をみがくうたの経と付けている。摩訶の訶はしかることで、間違ったことを戒め正すこととして付けている。
経は、梵語の横列文字を、縦文字である漢文に訳したものとして、縦を意味する経という文字を付けている。
訳されたものであることを示してつけられている文字である。

摩訶般若心経とは、「一般大衆の心をみがくうた」を訳したものということである。
摩訶般若と心経の間にある言葉、「波羅蜜多」は、
波の如くに揺れ動き、蜜蜂の巣の蜜のように、ぎっしりと詰まった多くの悩みを示している言葉。
悩みを「羅」の一文字で表している。「維」というつなぎとめる意味の言葉に、網の目を覆いかぶせて、
どうにも身動きの取れない苦悩をを示す言葉として付けている。
よって、
摩訶般若波羅蜜多心経は、悩み多き一般大衆の心をみがくうたの訳されたものという意味になる。
心の問題を説いていることになるのだが、心経で説かれている文字に惑わされることなく、
文字の常識に囚われずに、知恵をもって読み解くこと、心の持ち方を応変にして読み解くことと訓えている。
般若心経は大衆に説かれた経であるために、難しくあってはならない。そのために、簡潔に述べられているが、
一文字を誤って訳すことによって、すべてが誤っった意味となってしまう。
例えば、「是」は「これ」と訳される文字ではなく、太陽(日)の運行を示している文字である。
太陽(日)が東から登り西に沈んでいくことが絶対であり、変わることのない法則であるとして、日が正しいとして是となっている。
然るべき意味をもってつけられている文字である。是が諸々(全て)の法則であり、エネルギーの法則であるとして宇宙が作られている。
心経は、この法則がどういうものであるかを説明して、この法則によって作られている心を
どうあるべきかを説き訓えている。

くれぐれも心経の文字にさまたげられることが無いように、真理を受することである。
正しく読み解けば、知恵によってその道の徳が得られていく。
この道徳は、何をして何をしてはいけないことを自らに戒める。
地知る天知る我知ると、いけないことを戒める。
自然が自然と教師となっていく。
煩悩にまみれた心を、一つ一つ丁寧に解きほぐしていく。

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甘い言葉と暗い道

2019-02-21 | Weblog
占いは当たるも八卦当たらぬも八卦、思い道理による。
思い道理に由るものである為に、思いが誤っていれば、何もかもが思い通りにいかない。
信じるものは救われるとするも、信じるものが正しいものでなければならない。

世の中は、うまい話を持ち掛けられて、うまくいく試しは無い。
うまい話には裏があり、うまい話を持ち掛けるものに利が付く仕組みである。
自身の欲に覆われると、なにもかも見えなくなって騙される。

自身の思いを正しくあらねばならない。
世の中に、うまい話は無いと信じることである。
誘惑というのは、甘美なものである。
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気概

2019-02-20 | Weblog
南海トラフ地震、いつ起きても不思議ではないといわれるほど切羽つまっている状態。
ある意味、これは大衆迎合による意味合いにより引き起こされる。
気というのはエネルギーである。
すべてがエネルギーの存在であるために、隈なくつながっている。
だから、気配というのは感じられるものである。
天気とか元気とか病気とか~気、気~というのは、察せられるのである。
景気も同じである。

病は気から、古くから言われるように誤りではない。

心もエネルギーである。そのために、とりとめはない。
だから、一貫性をもってあらねばならない。
柔軟にしてある頑なさは要である。


世の中、大衆は乱れたまま混沌にある。
もはや、荒んだ現象は改められないところにある。
乱れは綺麗にされるだろう。一掃ということである。
そのために、神仏は心の救いを説いた。現象は変えることはできないために、
意が現象の司りであること、心の在り方を説いたのである。

悲観することなく希望をもって、行く手あまたの方向を諦めて(明らかに)見ることと訓えた。

子供を産み、母親となり、人として子を思いやり、
切に幸せになりますようにと育むも、這えば立て立てば歩めの親心は、
いつしか心もとなくそれていき、よちよち歩きの子の純真さは消えていき、荒んだ大人になり果てて、
利己、日本病蔓延の社会にたどりつく。

平成30余年を憂えるあまり、安寧を切に意にするものである。






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欲のからくり

2019-02-18 | Weblog
皆が健康であるようにと願い開発した健康食品、ほぼ高額。

本当にみんなの健康を願って開発しているのではなく、
如何にそれで儲けるか、儲かるかという商売第一の為の開発である。

資本主義社会であるために致し方ないからくりである。
それでも、本当にみんなの健康と謳うのであれば、安価、薄利であって真意がうかがえる。
我が身の儲け、苦労よりも、皆が喜んでくれることに満足本望なのではないか。
商売抜きにして開発された皆の為の商品は、薄利多売にして真意を得る。
一見、商売として成り立たないように見えるが、極めて我が身を置き去りにしたことは、
後に花が咲く、艶やかに荘厳となる。


目先の利益にとらわれているために、欲をからくる。
この社会、すべて奪い合いの社会構造。
共存共栄は嘘のからくり。競争、弱肉強食、脳みそのない獣という界隈に過ぎない。
生き辛いと思うのは、本来の在り方ではないためで、皆そう思っていても、
欲に構築された社会、世の中は、一旦滅亡してしまわなければ正されることは無いところまで来ている。

生は死をもって存在するのは、前後の悲喜交々の受、
生まれたことに喜んでも、生きていくのは苦しみのなんと多いことか。
その苦しみに耐えかねて、勝手に死を選ぶものも少なくは無い。
身勝手というのは、誰しもが思うように善いことではない。
善いことではないことに縁を結んでしまえば、死んだ後も善いことは起こらないのが道理である。
だから、死後喜びを受けるために悲しみの中に生き、全うしてあの世は天の国になるものである。
世の中は縁起の法則によって巡っているもので、一寸先を思うのではなく、後々を思い今という瞬時を
善く生きることである。すれば、必然悦びだけを得る。
これは、死が生命の無くなることではなく、永遠に続いていくものであるとする道理から成っている。
真実というのは、人間の浅はかな考えでは理解できないものである。だから、自然ということを
ありのままに見て、後々(死後)天国に逝けるよう喜べるよう、避けられない苦労の中に生きるものであると知ることである。
全うして必ず後に喜べるものである。これは道理であるから。

皆の為とするなら、損をして得(徳)を選べ。
すれば、自身の欲が叶う。
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急げ、愛だけである。

2019-02-16 | Weblog
憐れむ、労わる、慈しむ、
愛情だけが救いの手段である。
愛無くして生命の存在は無い。
愛しみはすべての生命の安らぎである。
愛こそ安寧を得る行為。

愛情の欠如は滅亡への証。
回避するには即行動、考えていては手遅れになる。
人間は考えて行動するから間違いはないとしているが、
自然は、一瞬たりとも間を置かずに移行しているものである。
知識ではない知恵の行動こそ瞬時がかなう。
知恵は経験の識である。自然に学んだ道理の徳であるために、決して誤ることが無い直感、
故に、瞬時を得て即判断即行動となり、災いを避ける。

愛だけが生命の救いである。
機、切にそう感受する。急げ!

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これから~

2019-02-14 | Weblog
永い間
自由なるエネルギーは非常識として覆われてきた。
自由という意味をよくよく知っていなければならない。

宇宙は自由というエネルギーによって存在となっている。
他に由らずに自らに由るという存在、それがこの宇宙というエネルギーである。

宇宙=エネルギー=自由=存在である。

この自由が円運動である。つまり、フリーエネルギーは円運動であるために、
無くなることのない動きとなっている。それは、
始まりが終わりであり、終わりが始まりとなるためである。
終始が同一である。なぜそうなのかの答えは、自由だからである。
これがあらゆる存在の法則であり、道理である。
すべてがこの法則の下の存在である。だから、この法則を超える存在というのは無い。
ただ分かりやすくするために、例えて、もし法則を超えたとしたらどうなるか、それは存在とならなくなる。
そのために、超えるという存在は無いことになる。つまり、無理なことである。
そういう道理が無いために無理という。
自由はエネルギーそのものであるために、如何なる力に於いてもこの自由を動かすことはできない。
すべてがこのエネルギーの下の存在であるためである。
神仏とてこの法則の下にある存在であるために、自由を動かすことはできない。
神仏とする神々は、この法則をよく学習して、道理に逆らうことはしない。
知の恵みを得た者、人間から見れば智者である。
道理を心得れば、道理の力を得ることができ、自由をその下に於いて操ることができるようになる。
つまり、不思議を得るのである。意思の通りにエネルギーの制御を可能とする。
神仏というのは、人間という生命よりはるか以前、宇宙的流れの中で道理に学び知恵を得て智者となった生命である。
生命もまたエネルギーであるために、この道理にあり自由にある。
この識を善悪のないための絶対善として、相対にある生命の神仏となっている。

束縛と解放、自由と不自由は、善悪のないための絶対善である。

束縛と不自由にながい間繋がれた善(悪)は、自由に由って元に戻る解放へと流れている。
この自由というフリーエネルギーの仕組みを知った今、束縛と不自由の善(悪)は制御不能となっている。
「まさか」は不思議にある。心の想いを常識から取り去って「真逆」を信じてこそ未来は開かれる。
宙(そら)に舞い上がるのは自分の心次第である。自由である。
この宇(地球)に留まるのも自由である。

フリーエネルギーは、貧しきものの手に入った。
エネルギーは無償である。本物の愛が世界を変えていく。


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