つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

般若心経を訳していく・・・

2005-09-30 | Weblog
  日が正しいと書いて‘是’としている。‘これ’と訳すのではない。
太陽が東より昇り、西に沈むんで行く仕組みがかわることがなく、絶対正しいとして、‘是’と表しているのである。「是諸法」として、この‘是’がもろもろの法則の基であると述べている。「是諸法空相」とは、「‘是’がもろもろの法則であるために、空の実相は」と訳す。「空」とは、‘あの世’のことで「空相」は、「あの世の実体」は、となる。「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とは、「生まれたり死んだり、きれいとか、汚いとか、増えたり減ったり」で、つまり、「是がすべての法則である為に、死後の世界の実体は生まれたり死んだりすることがなく、きれいだとか汚いだとか思う、一切感情の動かない世界で、記憶の現象が増えたり減ったりしない世界である」と説明しているのである。
感情の動かないというのは、汚い所にいても、それがあたりまえとなってしまい、汚いと思わず、きれいなところにいても、きれいと思わなくなることである。
死後の世界は記憶の現象の世界である為、生きていたときの記憶が、増えたり減ったりすることがないため、不増不減としているのである。
 「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」・・・
「ゆえにあの世の世界では・・・」・・・つづきはまた
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聴く

2005-09-29 | Weblog
  昨日も今日も同じように時間が流れて、少しも変わらない。明日も同じく変わらなく、おなじことを繰り返して生きていく。すこしも変わらないが、変わらない中に、諸行無常を含んでいる。昨日の自分は今日の自分より年老いている。見えない変化だが変化している。赤ん坊は、成長と言う変化である。共に死に向かう変化であるが違う変化である。変わらない中に変化を含み、変わらない変化となっている。
 人は、生きていくことによっていろいろと知る。
子供は、生きていく経験が浅い為に知らないことが多い。そのために、心の思うままに行動しようとする。 ‘我がまま’ に行動していくのである。
経験を重ねていくことによって、つまり、年数が経つことによって、いろいろとしてはいけないこと、良いことなどを知るようになる。
大人となっていくのである。心のおとなである。 ところが、身体は大人となっていても、心が子供のままでいる人がいる。子供のままでいるというのは、‘純粋な’と言う良い意味ではない。 つまり、何も知らないための 我がまま である。自分勝手な人である。ただ単に年老いただけの人で、悲しい人である。
悲がつくために、苦しみの人であり、地獄の人となる。
  先人の悟りを開いた仏たちは、悟りを開いた経験から、してはいけないこと、良いことをさまざまと説き教えた。その仏たちの言葉に、耳を傾け、聞くことである。ただ聞くのではなく、聴くのである。
ただ聞くのは、良いことを聞いた、良かったなと思うだけで身についていかない。
よく気を身につけて、‘聴いていく’ことである。
気が身についていると、聞いたことが、耳が徳するとなって‘聴いた’となって行為となっていき、自分のためとなっていく。・・・つづきはまた
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まちがって訳されている・・・

2005-09-28 | Weblog
 最近とくに時間の流れが早い。若さがなくなってきて、動作がとろくなってきたのだろうか?ん~っ、そうなんだろう。同じように動いているつもりなんだが・・・。

さて、人はよく、前世は他の動物だったとか、あるいは貝だったとか、石ころだったとか、わけの分からないことを言ったりする。これは、縁起を知らないためにそんなことを言うのだろう。
この世は縁であるために、人は人としての縁でなっているために、他の生き物や鉱物となることはない。人は人として転生する。縁であるために、行為によって縁がつくられ、場が決まる。
釈迦はこの縁起の法を説いた。釈迦が説いたから正しいのではなく、釈迦の説いたことが、釈迦の没した後、何百年もたってから、菩薩たちの啓示によって証明されたために、釈迦の説いたことが正しかったとなっているのである。

般若心経は、あの世から語られているのである。
人は経験を正しいとしていくために、人の経験とならないことは、理解できないのである。あの世は人の経験とならず、理解できない。その世界から語られたものであるために、理解することができず、間違って解釈してしまった。梵語で般若を智慧と訳すから、智慧であるとして、大いなる智慧の完成などと訳してしまい、わけがわからないものとなってしまっている。大いなる智慧とは何?
仏はすぐれた人だから、仏智であるとして、凡人には分からなくて当たり前であるとなっている。とくに最後に述べている「羯諦羯諦・・・」は理解できず、「いこう、いこう・・・」などとなって、真言であるとなって、無理に解釈することなくただ唱えていれば、ご利益があるとなってしまっている。
「ぎゃていぎゃてい・・・」は人々の感動の声を表している。
悩み多き人々の、悩み多き僧たちの最高の喜びの叫びを表しているのである。
「般若」の「般」は一般人の「般」で、普通の人を表していて、「若」は、人数を表している。若干名などと言う使い方をする「若」である。そのため、「般若」は、一般の人々を指しているのである。
「波羅蜜多」は、波のように揺れていて、蜜蜂の巣の蜜のようにびっしりと詰まった多くの苦悩を表していてる。「摩訶」は「みがくうた」と訳す。文字そのままである。そのために「摩訶般若波羅蜜多心経」は、「悩み多き人々の心を摩く訶の経」と訳せる。このように訳すことで、理解できていく。
文字を誤り無く理解してくれるようにと、般若心経の前に序文がつけられているのは、誤って説かれると、般若心経では、悟りが開かれなくなってしまい、啓示として語られているすべての経典が誤って解釈されてしまうためである。
つづきはまた・・・
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死後の世界の救い

2005-09-27 | Weblog
  人は死を絶対条件として生まれてくる。
絶対であるため、死ぬために生まれてくると言える。
なぜ死ぬために生まれてくる必要があるだろうか?
それは、生命の真実の世界を完成させるために、人は生まれてくる。
生命の真実の世界とは、死後の世界である。 死後の世界を完成させるとはどういうことか?
死後の世界が生命の真実の世界である為に、この世界を、幸せな世界とするのが生命の目的である。絶対世界なため、なにものにも犯されることのない世界となっている。 「不生不滅で不垢不浄で不増不減」となっていて、絶対0の世界である。永遠の世界である。そのため、幸せな世界として完成されると、永遠にその世界で自由に生きていられる世界なのである。
この世界が完成されるまで、何度も輪廻転生してくるのである。
この輪廻からの解脱である。転生することから、解放されることである。
この解脱が完成である。そして幸せで自由な世界で永遠に生きていくのである。
 転生してきて、なお悟ることなく、勝手気ままなことをして、悪に縁を結んだ生き方をすれば、死後、悪いところに赴く。苦しみの世界、地獄である。
そして、転生するまで長い長い間、その世界で生きていく。それがあたりまえとなって、苦しみから抜け出せない世界となっていく。
気の遠くなるほどの長い間、永遠ともいえる間のいつか、転生してきても、苦しむ世界が続くのである。
生命が肉体を持って生きているときに、悟り、正していけば、正しい浄化の行為となり、苦しみより抜け出て、救われていくのである。
これが円の仕組みの‘慈悲’である。慈は極楽であり、悲は地獄である。縁でなるものである。 仏の救いでもなく、神の救いでもない。円の動きの仕組みで救われるのである。死後の世界の救いである。・・・つづきはまた
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般若心経を正しく訳すには・・・

2005-09-26 | Weblog
  般若心経は啓示として説かれている。観自在菩薩からの啓示となっているために、「観自在菩薩行深・・・」と説かれている。このことが正しく理解されていないために、釈迦が語っているとして、「舎利子よ・・・」と舎利子に呼びかけている説明となっている。 これはまちがいである。
釈迦の説いた教えを、忠実に守り修行して観音となり、悟りを開いて観自在菩薩と呼ばれるようになった人のあの世からの啓示である。同じく釈迦の教えを修行している弟子である舎利子に、修行が縁となって舎利子の意識の中に現れて、舎利子の口から直接語られているのが本当の訳である。そのために、あの世の証明となって、釈迦の説いたことが正しかったことが分かり、嘘のないものであるとしている。  心経はすべてが啓示で語られているのではない。啓示とされているのは、「舎利子」として、舎利子が語りはじめたところから、再び「舎利子」として、舎利子が説明している「・・・無苦集滅道 無知 亦無得 以無所得。」までで、他の詩文は心経が説かれた経緯と、どういうふうに解釈していったらいいのか、そしてどのような形で説かれていったか、また説かれたときの多くの人々の反応はどうであったかを述べていて、作った舎利子たちがつけくわえたものである。
般若心経は、エネルギーである生命の仕組みを語り、生命の真実の世界の実体を説明したものである。人の経験とならない世界から説かれている為に、人の知識では判断できなくなって、誤って説かれてしまい、何の力も無いものとなってしまっている。円の仕組みを理解して、この判断を身につけて、これを智慧として、智慧で見ていけば、正しく解釈できていき、悟られていく。救われていくのである。・・・つづきはまた
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心無罣礙とは・・

2005-09-25 | Weblog
般若心経に「故心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒夢想・・・」と説かれている。心のありかたを述べている。
「無」を「ない」と訳している為にこだわりがないとなり、執着がすることが無いとなって悟りがひらかれていくとなっている。もともと無いことにこだわるから、苦しむとしている。一見正しいように思う。が、まちがいである。
無として否定することは、有としているものを否定することで、もともと無いものは無いと否定することはできないはずである。あの世が実体としてなければ、無いものを否定することはできない。実体があるとして無いことを否定すれば、実体はあることになる。「無」が無いとなって判断してしまうとすべてが否定されて、死んだあとの世界が否定されてしまう。これがまちがいである。般若心経の無を否定の無としている為に、死後の世界の実体が否定されてしまっている。まちがいである。仏教は無を無いと判断しているために、すべての否定となって善悪の顛倒したものとなっている。無いとしていながら霊の世界であるとして霊を供養する為に祈ることを正しいとしている。矛盾である。
般若心経の無は否定の無ではない。無は無いではなくて、無くなら無いとしているのである。
心の判断は自由である。経験を正しいとして記憶となり判断となっているために、経験がまちがっていると、善と悪が顛倒して判断されてしまう。
「無罣礙」としているのは、罣はたてをさしていて、縦文字をさしている。経と同じである。だから「縦文字にさまたげられない」と訳す。「故心無罣礙」は「ゆえに心は経文の文字にさまたげられない。」としている。無が無くならないとしているために、ゆえにとなっている。
無くならないとしていけば「無有恐怖」として、恐怖が無くならないとなってしまい、救われなくなってしまう。恐怖とは、老いて死んでいく恐怖である。すべての基となっている恐怖である。これが尽きてなくなることが無いとしている。
そのために、くるくる回る円の仕組みで成っているエネルギーの世界であることを知り、これを智慧として、智慧の判断としていけば、智慧で得たことがなくなることが無く、苦集滅道もなくならないために、悟りとなって、救われていくとしている。無くならないとする判断を、顛倒して無くならないものは無いとしていくことであると説いているのである。「夢想」としているのは夢の世界となっている想念で、夢の世界は想念の世界である為に、想念を恐怖としないことである。夢の世界を楽しい世界としていくことである。夢の世界と死後の世界は同じ想念の世界である。現象の世界となっている。このつづきはまた・・・
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心の自由な判断で・・・

2005-09-24 | Weblog
人は誰も自分が大事である。それが分かるのであれば、人をきずつけることはできない。  人はこの簡単なことが分からなかった。その証明として、戦争の歴史が作られてきた。   ‘知らなかった’のである。
生きているときに、悪いことをしないように、気をつけて生きていくのが、修行していることになる。 誰のためでもない、自分の為なのである。
修行である為に、人生は苦しいものとなっている。その苦しいものと思うのは心の自由である、自分の自由である、生命の自由である。
苦しいと思う心の自由が、苦しみを絶対苦しみとしてしまい、苦しむ為の人生となってしまって、苦しみより解放されなくなってしまう。
良いことをしていくことが、なぜ苦しみとなることだろうか?
良いことを思い、良いことを語り、良いことをしていくことを修行と思わず、あたりまえとして、自分のためであるとしていくことを、心の自由な判断として、
その縁で死後、良いところに赴くことは自分のためではないか。
その自分のためがどうして苦しみと思う必要があるだろうか。
苦しみと思うこと自体が、知っているつもりでも本当はまだ知り得ていないことなのである。悪が意識されているためである。
つらいと思うことなく、楽しいことだとあたりまえに思えたら、苦しみより解放されて、極楽の世界となっていくのである。
つらいと思う日々を、心の自由な判断で変えていくことである。 つづきはまた
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死んでからでは、おそい・・・

2005-09-23 | Weblog
  人は誰でも死をまぬがれない。
死が生の絶対条件となっているからで、この死が人の真実の世界となっている。
生はこの真実の世界を作る為を目的としている。
この世界は、エネルギーの存在で成っている。衆縁和合して回る動きとなってつくられている。回る動きであるために、丸い形で、円となって始まりも終わりも無い動きとなっている。
この始まりも終わりも無い形となって動いているために、生命そのものは滅することがなくなっている。この滅することが無い世界が生命の真実である。
生命は人としての肉体を持ってこの世に生まれてくるが、肉体は一切の自由を持たない。生命の自由としての肉体である。
肉体が老いて死となっても、、生命はなくなることが無い為に、死後の世界で生きていくこととなる。この死後の世界こそが生命の真実の生きていく世界である。
その真実の世界を作るのが、肉体を持っての人としての経験である。
正しい経験をして、正しい真実の世界を作るのが目的となっている。
生命はエネルギーであるために、人として肉体経験したものが記憶のエネルギーとなっていき、死後の世界のエネルギーとなって、生命の真実の世界となっていく。記憶が現象されていく世界である。この経験の記憶が天国と地獄をわけるのである。 経験は同じことを繰り返し繰り返し、していくことで絶対となり、正しいとなって、記憶のエネルギーとなって絶対現象となる。
そのために、経験が誤った経験となると、すべてが誤って絶対となり、絶対現象の世界となってしまう。 これが地獄である。
誤りの経験を正して、正しい経験としていけば、それが絶対となり絶対現象の世界となり、天国となる。
死は人の経験とならないために、死んでからでは誤りを正すことはできない。
死んでからでは、どんなに供養しても、誤りを正してやることはできない。
だから、肉体を持って生きているときの経験が絶対重要であるとして、
悪に縁を結ぶことなく、正しい行為をしていくことが大事だと説かれているのである。
このことを知らない為に、この知らないことを無明であるとして、無明をなくしていけば、すべてが分かり、けっして誤りをすることがなくなるとして、縁を説いたのである。 縁によってつぎつぎと苦が滅せられていき、苦しみの無い世界が作られていく。  無明をなくしていく十二の縁である。この方法が八つの正しい行いを説いた八正道なのである。
日が毎日同じくめぐってくるために、同じことを繰り返して生きていく、この繰り返しの経験が生命の真実の世界を作っているのである。 つづきはまた、



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壮大な・・・

2005-09-21 | Weblog
今日もまた、一日一膳、書いてみる。
人の経験の間違いが歴史となって作られてきたために、この間違いが悪のエネルギーとなって、地球上に満たされてきている。
人の歴史は、争いの歴史である。いまだに、地球上のどこかでは、紛争が絶えない。この誤った経験が、悪のエネルギーである。この悪のエネルギーのために、人は滅んでいく。
地球もまた、生命である。くるくる回る動きである為、浄化の動きとなっていて、悪のエネルギーの浄化となっている。この浄化が天災となって、人の作り出した悪のエネルギーの浄化としている。この悪の浄化によって人は滅ぶが、生命は死がないために、生命そのものの世界であるあの世で人は生きていく。このあの世の世界は、前に書いたとうりである。そして、何億年か経ってふたたび地球上に生まれてくる。壮大な物語を生命はもっている。そのために、希望をもつことができ、死が怖いものでないとして、老いていくのも怖いものとならず、人生が明るいものとなっていく。
近年、地震やら洪水やら、災害が頻繁に起きるのはそのためである。地球の悪の浄化の始まりとなっているのである。これがくるくる回る円の動きのエネルギーの仕組みであるために、のがれられないものとなっている。つづきはまた・・・
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未来永劫

2005-09-20 | Weblog
いつも確実に明日がやってくる。変わらずやってくる為に、先々も変わらないことが分かる。円の動きであるために、なくなることのない動きとなっているためである。そのために人は、明日を信じて生きていられる。
魚はただ泳いでいれば、回遊となり、元に戻ってくる。鳥は遠くへ飛んでも、飛んでいれば、また元に戻ってくる。帰巣本能があるのではなく、円の動きで作られている世界であるからで、出発して出発点に戻る仕組みとなっている。人も同様、まっすぐであるとした判断がなければ、つまり、目的を失なって歩くと、同じところをぐるぐるとまわる。すべて、円の動きで成っているためである。 宇宙はこのエネルギーの動きの存在である。すべてがまわっていて、片時もとまることのない動きで、そのために、丸い形となっている。だから宇宙も丸く、有限である。その外側は存在とならない。
人もこの存在である為に、常に動いていて、じっとしていられない。体の中は、意思に関係なく動いている。回る動きである為循環している。
この内臓の動きが止まると、肉体の死となっていくが、生命そのものは、エネルギーであるために死がなく、なくなることがない。死となった肉体より離れて、生命エネルギーそのものの世界である、あの世となっていく。何度も繰り返すが、あの世は、人が肉体をもって生きていたときの何十年かの経験の記憶の現象の世界である。そのために、悪の経験をつんできた人生は、それが縁となり悪がそのままあの世となっていき、悪だらけの世界が作られて、絶対世界となってしまう。悪の現象の世界、これが、地獄である。そうならないために、なくならないことを悟り、死後の世界のことを悟り、何をなすべきかを悟ることである。自ずとわかってくるはずである。すべてが一人一人の自分自身を救くうために、釈迦はその道を説き、キリストは愛を説いたのである。共に同じことを説いたのである。真理は一つであるために。
無くなることが無いとしているのは、回る動きで円となっているためである。
すべてが、回る動きの中の存在で、変わることの無い動きとなっている為、未来永劫となっている。 つづきはまた
 
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