つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

蔓のように

2014-09-29 | Weblog
いよいよ富士山だ。
となりまで来た兆候は前兆と捉えて、
近々となる。
静まるには心謙虚に構えてこそにある。
忘れたころにと見てとれる。
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~こしたことはない

2014-09-28 | Weblog
技を競うにして
争うものでなく、
争うにして
ついに敗れるものである。
対抗するに捉われず、調いは我にありと競うものである。
過不足にして満足によらず足るを知る。
ただただ補うにある。
こうするにはこうあらねばと探り、こうするものである。
こうしてそうなるものである。
功して奏するものとなる。

対するものと抗しても仕方がないものである。
悲しみと喜びは涙に流れて同じものである。
ながさぬにこしたことはない。
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つかわされたいのち

2014-09-28 | Weblog
この世の中は虚無にしてあるものではなく、歩んできた道すがらは
影響多大にして自分自身を作り上げている。
苦楽はいかにもその通りにしてあり、自己の無知により与えられるものである。
我が怪しいと書くように、怪我は自身の不甲斐なさから起こるものである。
その様にして、無知にしてありながら、不平不満にて自分の所為にはせず、他に当たるも
無智であるためである。
‘知恵を宿せ’と、道すがらに学べ。
この世の中は無駄にしてあるものではなく、幻などでもない。
闇夜にして怪我をするものであるが、怪我の功名としてあらねばならない。
取り返しがつかなくなる前に、その兆候にして学ばねばならない。
戒めて改めることで大事に至らず、知恵にして瞬時避けられていくものである。
いっときはむなしくして過ぎ去りはしても、虚無にしてあるものではない。
ただ、そう為るも為らぬも自己にある。
虚無の様を呈していると見てしまうだけである。

自分がいながら、あるものに隠れているのは悲しい哀しいことである。
どうか、その顔と声と体を尊んで、堂々歩むことである。
謙虚は最善であるけれど、度を弁え、誇りをなくしてはならない。
その魂を敬い、最善に導かなければならない。
死ぬ命である、死命にして使命である。
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この世は「受」の世界

2014-09-27 | Weblog
近頃、老いも若きも時の経つのが早いという。
子供の頃は、時の経つのが緩やかに過ぎていくものと感じられるのがふつうであるが、
何やら近年はそうでもないらしい。
子供にして、日々過ぎ去ることの早さを感じているらしい。

昔も今も時の流れには寸分の狂いも無いものだ。
人の文明が進むにつれて、時間の短縮というものは何かにつけて成されるわけだが、
それに相まって行動の範囲が広がるために、更に時の経つのが早く感じられてしまうものである。
数値では、行動の速さに連れて時はゼロになっていく。それは、瞬時になればなるほど時は無くなっていき、
過去と未来の界が消えてしまう。
自分の行為が緩慢になれば、時に置いてけぼりになり、瞬く間にという受け答えになるのだが、
自分の行為が、
文明の機器に任せて瞬く間を得ても、時を置いてけぼりにするために、受け答えは無くなる。
それは、現実としてありえない状態になるのだが、事実として受け答えてしまう。
この世の数値として現されないが、現実として時の境界を行き来してしまうために、齢は取らない。
数値はゼロを指したままにある。
それが、エネルギーそのものの世界である。それをどのような様子と見れば、
夢であり、肉体の無い死後の世界の様である。
夢も死後の世界もエネルギーの自由の世界であるために、生前のような世界観であるが、
感は飲食のいらない世界である。自由に甘んじる世界である。
なぜ?という疑問の呈しない世界である。それが、自由である。
自らに由るもの、自らに然り、自然という自由である。

心はエナルギーであり、受想行識で作られていくものである。
その記憶が大きく心を左右する。
右か左か二つに一つである。それがエネルギーの絶対世界であり、
その選択が、曖昧という起伏の過程にして到達していくものである。
それも自由にしてあるものである。エネルギーであるためである。
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思議のいらないこと

2014-09-26 | Weblog
夢の世界と死後の世界は同じ世界である。
同じ心の記憶の現象世界である。それは、
時空のない世界であるために、過去と現在が混在している。
瞬時場が変わる。
もし、
死後がどうなるのか知りたければ、
現在の夢を分析すればよい。
怖い夢が頻繁であれば死後の世界は地獄である。
楽しい夢であれば天国となっている。

現在というのは進行形であるために、想いを変えさへすれば夢の形も変えられるものであるために、
死後の状態も変えられる。

その要点、想いに恐怖というものを抱かないことである。
想いに恐怖がなければ怖い夢を見ることもなく、死後の世界も地獄となることはない。
それは、不思議なことである。
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般若心経の説くところの意

2014-09-24 | Weblog
般若心経で説かれる「空」とは、
死後の世界のこと。
つまり、輪廻する生命の空白の間である。

この世に生れ落ちて死ぬまでを一人生。その業により縁あって
再びこの世に生れ落ちるまでの間を
生命は死後の世界で生きている。生命には死が無いためである。
それは、法則が、いわゆる是が無くなることのない円運動となっているためである。
是はエネルギーである。生命もエネルギーである。是による変化の刺激を受けて、
それぞれの生命エネルギーとなって現象、存在となっている。
死後の世界は、
肉体の持たない世界であるが、記憶の現象であるために、
生前の記憶がそのままあの世となっている。だから、
記憶の肉体となって存在しているものである。そのため、今まで(生前)と
少しも変わらない世界となっている。
心の現象の世界が死後の世界であるために、
一切反応を示さないものとなっている。そのため、
決して知ることのできない世界となっている。それは、
夢を見ている人の夢を知ることができないのと同じである。
どんなに達観して悟りを開いても、
死後の世界は知ることができないのである。それゆえ、死後の世界を一切反応を示さない世界として、
生命の空白の間であるとして、「空」と説いているのが心経である。
「空」とは、死後の世界のことである。それは、是によって、
「色即是空 空即是色」と輪廻していくと説いているものである。
「この世は是によって即あの世となり、あの世も是によって即この世となる」と、
輪廻の法則となっていることを説明しているのである。つまり、円運動となっているための永遠である。
円運動となっているのは、エネルギーの自由である。

恐怖を抱いて死んでいけば、恐怖のなくなることがなく、
つまり、
地獄の世界となっている。
苦しみに耐えきれずに自ら死を選んで、
この世からおさらばしたとしても、
あの世もそのまま苦しみの世界となってしまうのである。

肉体は心の向上のための媒体である。
使い方によっては悪くもなるものである。
だから、
是を覚り無知を破らなければならない。
すべてが無くならないためにということを覚らなければならないのである。
無くならないものであるために、心して生きなければならないのである。
無くならないものであるために、苦が作られると苦がなくなることがないために、
永遠に苦しむ羽目になってしまう。往々にして人は無知であるために、
苦しむ羽目になるのであるが、
そこから救われるのは一つ、心の問題である。つまり、心の在り方にある。
心にどう思うかということが要となる。
臨機応変というように、心の都合によって無の解釈を変えることである。
「無くならないものは無い」として思うことである。それが、絶対という世界からの抜け出せる方便である。
法則(是)の慈悲である。
慈悲の慈は天国であり、悲は地獄である。どちらを選ぶかは本人の自由である。
どうか、心して般若心経の説くところの意を正しく解釈して、
行為としていくことである。それが生命の幸せへの道である。
般若心経こそ、我々娑婆の人の悟りへの導きである。

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般若心経の無を解く

2014-09-23 | Weblog
般若心経で説く「無」は「ない」ではなく、
「無くならない」と訳していかなければ正しく解することができない。
すべてが無くならないと訳されていけば、正しく真実が知れてくる、見えてくる。
そうすれば、
心経によって悟りは開かれていく。

過ちは無知であるが故に起こり、だから、
無知をなくしていくことが
過ちをなくしていくことにつながっていくことがわかる。

日々過ぎていくことによって経験を積み、その経験によって分別がついてくる。
良いとか悪いとか、損とか得とか、自分に好ましいもの快いものが選ばれてく。
これを為すことによってどのようなことになるのか、その過程と果がどのようにもつれ合って
最終の果となるのか、気配りが左右する。
気遣いというのは心配である。
いかに思いが遣られて快くするかである。
それは、日々の繰り返される同じような物事に学ぶ。
同じ様なというのは、その意味合いを理解しなければならない。
それは、あなたと私は同じ人間である。でも、全く別人であるという事。
あなたと私は同じ仕草で生きているが、あなたと私は違った仕草で暮らしているという事。

他に様々が絡み合い繋がりあっているものであるために、
自他共に一様であると知れば、ただ己をもってして他を見れるものである。

日々過ぎていくその経験は、無駄にしてあるものではなく、
毎日同じことを繰り返していくことが何の意味のあることなのか、
無くならないものであると知れれば理解できてくるものである。
移り変わっていくものであることから常住を知ることができるなら、
善も悪も無記にして、善にあることの自由を知ることができるものである。
誰に教わるものでもなく、ただ自然が師となり訓えられるものである。
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ひとりぼっちは独り法師

2014-09-21 | Weblog
人は群れて生活していくものだ。
だから、
混雑しているところは苦手と言いながら、
淋しい
つまり、閑古鳥が鳴いているようなところへは行きたがらない。
どこへ行くにも渋滞にはまりながら行き返りするのを好むのが日本人という人種。
それでいてブーブー文句を垂れながら、自分だけは達観している人のようにして、
滞りの無い事物やら場を好むのだが、寂しいところには殊更行きたがらないものだ。
そこいらのという
ごくごく普通の、いや、それ以下の(嫌らしい)という心で生きているものだ。

何事にも興味を抱き、見てみたい、してみたいというのは前向きでいいように思われるが、
場当たり的にそそられるのは卑しいものであると戒めなければならないものである。

生き様に大切なことは、時経るごとに達観にあらねばならないことである。
ただ生きているというのであれば死人に等しい。

時追うごとに知識を得て、経験の値を高めることである。
その知恵は、是をもって浄化と為すに沿えば、あらゆる立場で守護神となるものであるが、
悪智恵として働かせれば、終には身を崩す羽目となるものである。
いかなる場合にも、是をもってして理解し、無常に生きる故、かたちを円く治めて
守護されるものである。
指し以て、悪智恵を効かせて角を立て回るも円となり、それを地獄の沙汰という。

どうか正しく理解して、善悪顚倒せぬように日々巡らすことである。
是に、善悪は無いものであるから。

独り、法の師に学ぶ!
師は、是である。
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過ぎてしまえばという色合い

2014-09-19 | Weblog
人は年老いると凡そ仏に近づいていくものだ。
にもかかわらずいまだ浅ましく生き、邪心にして暮らしているのなら、
何だ苦しみの流転の中に浸るものである。
とみに最近は年寄りが多い時代である。事、日本に関してのであるが、
子供のままの大人が随分といるものだ、口悪くして餓鬼のような大人、年寄である。

さて、もう人生も終盤、いつお迎えが来てもよい年に入った人達は、
すべからく執着を離れ、ただ静かに佇み、静かにして微笑、分け与えるのみである。
小さくなって、円くなり、その瞳、子供の色合いにして明日を見ている。
知り尽くした人生の起伏は、その峠の茶屋の穏やかな黄昏時に似ていて、
切なくして癒されて、ただ美しいばかりである。

仏心になる人の老いて日々は何事も無く、手に持たず、足に枷せず、背に負わず、
腹に無くて、頭抱えることも無く楽である。終にして恐れなく。
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神通

2014-09-18 | Weblog
学歴なんかどうでもよい。
知識というものは、
経験としなければ確かな識とはならない。
つまり、体で覚えるということを為さなければ
曖昧の範疇である。体験は貴重な経験であり、
一体験が関連する未体験を克服する。
つまり、未経験に於いても程度が知れてくるのである。
一を知ることにより十を知ることが叶うのである。
不思議という事を人は得られるのである。
事、それは当然としてあり自然(じねん)にある。
思念即然りである。
智慧という賜物である。
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