つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

分別の理、縁

2018-07-28 | Weblog
ただ日々という日常に流されて過ぎていくだけで、
道理を見ていてもみていない。
自然の摂理は、明らかに不思議として現れ、
見せられても見れないでいる。
見ようともしない。
だから、
兆候があっても何ひとつ満足な手立てはできない。

悪事をして難を逃れることは無い。
辻褄は合うようになっている。
これから起こる災いは、自業自得で現れている。
どんなに逃げ隠れしても、それぞれに相応報う。
自然は、意識をもって分別している。
闇雲ではない、人間の都合で考えては情けないものである。
安心は神に問うのではなく、自分に聞くことである。
そうすればほぼ不安ばかりで、ただ神の裁量に委ねられる。

自然を愛しなさい。
守護、
善の神でありますように。
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この宇宙

2018-07-26 | Weblog
善なる神はこう言った。
「この道を行きなさい!ただ子供のように
私の言ったことを素直に聴くなら、
安心はいつもあなたに付くでしょう」

なのに、あなたがたは疑って、違う道を行くのだもの、
どうすることもできません。
そうして、あなたは又私に問います。
「どうぞ助けてください!、私達をお守りください、神様
どうかお導きを、お願いします、お願いします。」と。


エネルギーなる法則は、自由が根本原理で動いています。
もって、それが道理であるために、、如何なる力においても、
変えることはできません。神々とて同じです。エネルギーの法則は、
円運動、故に、永遠となっていて、始まりが終わりとなっています。
当然、終わりは始まりでもあるのです。そのために、
これが絶対となり善となっています。宇宙のあらゆるものがこの法則の下、
存在であります。だから、法則を超えることは存在とならないために、
是が非となることはありません。
自由には、自由であるためになぜそうなのかという疑問は付きません。
自由であるからです。エネルギーの自由だったからです。

生命もこのエネルギーから作られているために、すべてが円運動となっています。
円運動の変化が無常を作り、もって、変化に対応する形となっています。
生命はエネルギーであるために、無くなることはありません。
生命が変化という刺激に対応し、様々な姿形を作り現れています。
様々が自由です。姿形は無常であるために、形を変えていきます。
これが姿形の死という言い方をされますが、姿形が変化していっただけで、
生命というエネルギーそのものが無くなったわけではありません。
姿形の経験エネルギーが生命エネルギーの強弱、つまり、輝き、生命の存在そのものとなっていきます。
経験のエネルギーが記憶となるために、所謂、記憶がエネルギーとなるために、
エネルギーの根本性質、自由という絶対善に沿った経験となっていれば、
存在そのものがありありとしていきます。
ありありとする生命エネルギーは、光り輝き見るからに大きな玉となっていきます。
それはまさに生命エネルギーの幸福そのものを示しています。
そうして、生命エネルギーは輪廻転生という円運動によって、
永遠に繋がっていきます。経験のエネルギーが記憶のエネルギーでありますから、
記憶が心のエネルギーでもあります。
つまり、自分の意思が生命エネルギーそのものなのです。
言い換えれば、意思がエネルギーであり、エネルギーの自由そのものなのです。
だから、宇宙は意思をもって存在していることになります。
秩序があるのは、また、無秩序として見せるのも、自由であるエネルギーの意思なのです。

エネルギーの法則の存在は、自由であり、その意思の下、作られているすべてです。

だから、数式で成り立ち説明はできてはいくが、円がその自由の姿形であるために、
割り切れることはありません。ゼロ・0なのです。永遠唯一であるのです。
それが、意思というエネルギーそのもの、自由。






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信じるものは・・・と神は問う

2018-07-25 | Weblog
生かさず殺さずで神々は動いているが、
少しづつでも、世相が悪なる心のエネルギーに傾いてきているために、
自然をもってして変動を現して、心の傾きの修正を理性に問う。
あなた方は、もともと善性にあるもので、このエネルギーの法則を
理解し沿うことを諭す。少なからず目覚めるために痛みは伴うが、
今のうちに利他にあれば、黙示録に謳われたことは避けられる。
もうすでにここかしこで、これまでにない事柄でもって犠牲が払われているのを
見ているはずである。世界中のあちこちでといった方がしっくりくるだろう。が、
それでも、傲慢な心の悪を起因としていることに気づくことなく、ただうろたえるだけであるなら、
事態は更に悲惨を要していく。
人間の姑息な対策など自然には及ばないものだ。
早急に愛ある心の動きが求められる。そうすれば、ちまちまとした出来事もおさまりを為すが、
エネルギーは蓄えられつつある。腐敗して膨らんだものは敗れていく様がものの道理である。
人間、自業自得となる前に、清浄たる思いを発し、即行動に移れ。些細なことでもみんなが動けば、
偉大な力となりすぐさま動いていくのだから。

知的途上にあるものの行動に期待する。
愛ある道を行けば、前途洋々と訓えているものを・・・。
この道を行きなさい!と訓えてきたものを・・・。
信じるものは云々、云々にどんな言葉を思うのかは自分次第。
すでに、
救われるものとそうでないものとの答えがそこに見えている。
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文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経

2018-07-22 | Weblog
人には4種ある。
一つに、ものを見る人。
二つに、ものを見せられてから見る人。
三つに、ものを見ない人。
四つに、ものを見せられても見ない人。

劫の時を経て、地球よりはるかに進んだ節理(筋道)を得て、
彼等神々は、光年の過去にある星の運命を見る。
ほぼ、四つにある者は侮りに埋没して、生滅を担う。
一つにある者だけが僅かを与り、神に並ぶ。
二つと三つは、善悪を分ける日和見にある。
取るに足らないものではあるが、侮れないものである。
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般若菩薩

2018-07-20 | Weblog
需要と供給の世の中である。
経済制度の確立された社会構造であるために、私たちの生活は
商売で成り立ち、互いに持っているものの交換、悪い言葉で言えば、
奪い合いで生きている。どうしようもない隷属社会構造が確立されているために
経世済民という言い方のなかの虚構で操られていては、商売という方便でしか生活は成り立たない。
だから、その中でも薄利多売が商売繫盛の基本となる。
本来、経済というものは存在させてはいけないシステムである。
宇宙広しと言えども、互いのものを奪い合い生きている知的生命体は、地球という星だけである。
他の惑星には、その惑星上の種にして、互いを害いあうこと、
奪い合うという生き方は初歩にして本能で超えている。

自由がエネルギーの本質であり、その自由が正義であり、善悪などないための絶対善での
道理となっているために、そこから生じている生命エネルギーは、
本能としてそれを理解でき、それに沿っての存在であることを必然得る。
これが純粋な生命エネルギーの現れ(誕生)なのであるが、エネルギーは動きであるために、
安定という静の状態へ向かう。-
{安定という静にして円満となる存在である。それがエネルギーの自由、
つまり、エネルギーは自由が本体である。動いているのだが、完璧な円、
円満であるために動いていることすらないに等しい状態の存在である。}
ーだから、安定するまで動くことによる変化に対応しているもので、その対応が
正しく行われるのが本来であるが、自由であるために、無知にある間は、
間違った対応となるエネルギーがある。それが悪という存在エネルギーである。
本質とは違った対応エネルギーであるために、円滑にいかず、常にざらついて、これが苦という
感覚となるエネルギーである。間違った対応エネルギーのまま正義となるために、
誤った方法をもって他の生命への対応となる。奪い合い害いあい、自分だけが、自分たちだけがよければとして
生きていく。これが回るために、一生その回り(場)から離れられなくなっていく。
すべてにおいて無知であるために、知的にしても徳を得らなければ、
「知」だけが進み、彼らの善となり完成されたエネルギーとなってしまう。
徳を持たないエネルギー、その知だけが進んだエネルギー生命体が、私達から見て悪神である。
頭脳明晰であるが、エネルギーの本質である自由を、徳をなくして理解した生命エネルギー体。
私たちはエイリアンと呼び、神とも呼ぶ。
遠い遠い昔の時間に地球を偶然発見し、その技術において探索し、有効なる鉱物資源があることを知る。
地球の未だ低能にある生物を遺伝子改良、自分たちに似せて「人」という生物を作り、資源発掘の労働力として
操った。
宇宙は、ご存知のように相対的にあり、すべての生命にも同様である。神と呼ばれる生命エネルギーも同様である。
だから、地上の生命体から見て、悪玉とする神的生命体と、善玉とする神的生命体がいるもので、
善は、エネルギーの法則に添って善を為し、悪は、反して善からぬことをする。
ただ、エネルギーの自由は如何なる力をもってしても変えることはできないのが道理であるために、
知的生命体エネルギーは、地球人の自由を損なわないように操りながら、
互いに善悪の対立でしのぎを削っている。
いま、世界的天候不順、異常に見るのは、これから起こる兆候と思える人は、
多少なりとも安心を得るが、驕りにある人は無理である。
地上の悪なる心のエネルギーが78%とを超えていったとき、天変地異が起こされ、
ほとんどは死に絶える。悪なる心のエネルギーは、地獄という心のイメージの中に葬られる。
僅かな心の善なるものだけが、次元の上昇を迎える。
その数、地上にして80億ほどの人口となった時と重なると、エネルギーの道理は訓える。
感受は縁である。般若の・。

私たちは、日和見にあるのがほとんどで、その分配は、これからの一人一人の心に寄り添う。
急務と伝わってくる。
今の安心は、自分は「愛する者」であるかにある。
誰にでもよろしからず心はあれども、取るに足らないものであれば、
それより、
恕にあるなら、案ずるより産むが易しである。
自分を信じられるか??
自分が一番知ることであり、人に嘘はつけても、
自分に嘘はつけないものである。


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寛恕

2018-07-19 | Weblog
「恕」にして、救われる方便である。
誰もが持つ徳ではない。だから、いっそのこと
寛を付して恕に徹して生きることが「愛する者」である。

私は、「自分を愛する」というに、
「愛する者」というに、
     愛する者が愛する者に為す行為を
          自らに為すことになるからである事を理解していなければならない。
円が法則の運動性である。
「かえる、返る・還る・帰る」のである。
人生、徳を得るに、恕にして暮らす、である。

人、皆自分を愛しているのだから。
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今は歪にある

2018-07-17 | Weblog
経済に縛られている社会である。
本来は、経世済民と言って、世の中の人々の救いとならねばならない
のだが、逆に苦の根源となっている。
苦のあらゆるもとは自由の無いことである。
すべての隷属は苦であると仏が言うように、
金融制度化された社会は、鎖につながれた犬の幸福のように、
錯覚、錯誤である。
洗脳は隈なくいきわたり、
悪のエネルギーは、苦の産物は
至福への道のりであるとして称える。
私たち民は、悪意の奴隷として金に従えている。
その束縛は成功しているかに見えている。

エネルギーの道理は、浄化、その根源は自由である。
その姿形は、円満。だから世界は円い。
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知る人はいたし、今もいる

2018-07-16 | Weblog
格差社会のままでのオリンピックの開催は難しい。
すべては、愛のある社会になることの自由を試されている。

神々とて未来は不定にあるために、確定することはできない。

自らの力で、愛ある社会を創り上げていく自由を得てほしいと、
切に思っているが、人間は、
自由ということを知らないであるために、
間違った方向性にある。
その数、78%は死に絶え、22%は生き残っていく結末を迎えるが、
今日この頃という人間時間で、選別の時を迎えている。

生きとし生けるもの、幸せになりたいというのは同じであることを知るなら、
あなたは幸せな世界に誘われるだろう。
簡単なことであるが、難しくするのもいる。
単純に考えれば、未来は開かれていくことを知ることである。
単純は難を打ち砕くものである。

今のままでは、少なからず痛みは伴いながら過ぎていくが、
学習は大事であり助けるものである。
そのために、時は可逆をせず、作り事の中に見せびらかすが、
秩序がただ一つのルールによってなされることを知れば、
無秩序という多くの方向性を生んでしまう間違いがわかるだろう。
真実は一つである。架空を正当化してはならない。
自分が何であるか迷妄の中に同化してしまうと、
永遠が、永く遠いと同じような意味合いをかさねるように、
仮想が真実のごとくなっていく。
自然は現実として、生と死を突然の中に作り私達に訓えているが、
諸行無常の常住を見れるなら、「何のために」という疑問は解けていくものである。

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謙虚に

2018-07-15 | Weblog
謙虚たること。謙虚たること。
救われる理である。
今一度
心に刻め。
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赤色の行きかう景色は

2018-07-14 | Weblog
異常気象、
世界中で現れているにもかかわらず、
ただ異常気象というだけで日常過ぎていく。
どんなことをしても、自然に対しての対策など
無意味なものであるが、戦きと謙虚さは助けるものを助ける。
自然を敬って暮らすことは正しいことである。
今、世間を見て、
赤色が流行りだすのは、何気ないことではない。
黄金色に行き過ぎて、もはやレッドカードを示されている。

いつ来てもおかしくは無いと災害を予知するが、
この世の地獄を見せられても、あの世の地獄は絶句。
地上の変化は神話にあれども、今日があるように、
地球に明日はやってくる。
いつものように、
何事かあるとかないとかを問わずに、ただ淡々と。

自分は「愛する者」であることを自覚するなら、
死王もあなたを見ることは無いだろう。
この世の有様を見て嘆くも嘆かないも、
自分次第であると自然は諭す。

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