つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

カウントダウン

2011-07-31 | Weblog
年々自然災害が強大化していく。
生まれてこの方、このような荒くれにあったことが無いと
年老いた人が驚きを隠さず嘆く。
何をせずとも、そんなに長くは無い命、急いで絶たれるとは思いもよらないものである。
世の中は、茨の道がたくさんあって、その中には
真逆(まさか)という坂がある。ないようでそこらじゅうにある。
よいしょ好い処と上り詰めたと思ったら真逆、真底谷底。あっけなく人生を終える。

現代社会の輝かしさも、ちょいと無邪気な悪ガキに
見初められた蟻んこの巣のように、見るも無残にかき乱されて、瀕死の有り様。
地球を我がもの顔で歩いた恐竜たちのように、突然滅ぶ。
あたかも、頭脳明晰支配者のごとき振る舞う、驕り高ぶりが、地球の気にかかり、
一掃の目となっている。
あの国もこの国もとぎこちなくなっているのは、人類の滅び行く兆候である。
人間が生んだ邪悪なエネルギーが発端となっている。

自然の力、浄化作用によって地球上は一掃される。地球は滅びることは無く、
やがて、緑豊かな地球となってよみがえり、きれいな明日がやってくる。
何万年?何百万年?何億年?後
再び、地球の人となって人類は誕生する。同じ誤りを繰り返さないよう、
進化して。
さて、救いとは死後の為の救いである。死後の為に、今
生きている。善行こそ救いの方便である。浄化の生き方である。
再び誕生したとき、苦しむことが無いためにである。
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骨抜き

2011-07-30 | Weblog
お金を出せばある程度ものがそろえられる時代である。
便利を金で買える時代である。
日々、三度の食事も金で賄える。
いちいち手間をかけなくとも美味しいものが食べられる。
さまざまに売られている惣菜。ありがたいことである。が、
自分では何もできない人になってしまう。
お金さえあれば、なんでもしてもらえるその便利は、他への
依存心の強さを増して、命さえも委ねていることとなる。
自分の命でありながら、他人から命を金で買っているようなものである。
金の切れ目はの切れ目ともなる。
金というのは恐ろしい。

道理は自灯明である。
他によりどころを求めてはならない。他をよりどころとしてはならない。
自らをよりどころにして道理に適い安心となる。
便利は、いざというときの役立たずにさせてしまい、
何もできない人にしてしまう。人は、
便利が高じてくれば進化は止まり退化に転じる。
お金を稼ぐことだけに神経を使い、真実の愛を無くして
心も身体もぼろぼろとなる。金に使われて、金に振り回されて・・・、
お金で便利を買ってはいけない。
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ブーメラン

2011-07-30 | Weblog
騙す人と騙される人がいる。
もちろん騙す人が悪い。
騙される側にも落ち度があると指摘する人もあるが、
騙される側にはなんら落ち度は無い。

騙す側は、騙した側の悲しみをすべて背負う羽目になるが、
その道理を知らない。
もしもその道理を知るなら、損なことを誰もしないだろう。
悪いことと善いことは、為す過程、為した過程に逆もどきがつくために、
よく惑わされてしまう。
悪いことは為し易く、善いことは為し難く、
甘い言葉に暗い道、良薬口に苦しと言うように、
裏腹にくっついている。

人は、何も「知らない」で生きている。
まして、完璧な人というのはいない。
だから過ちながら生きている。
どこかで報いを受けながら、いつか報われることもある。
善悪の報いをどこかで常に受けながら生きている。
報いには善いと悪いとが重なっているのである。
悲しい目に会ったとき、無くて七癖のように、
いたらなさに報いたものとして無知を覚る。

利己的なためのふしだらで
人を傷つけて、後に善い目に合う人は、ただの一人もいないのである。
それが道理である。
後とは、魂の世界のことである。
必ず逝く世界である。その時を遠い世界のことと思っているなら、
あまりに間違いである。

魂の世界は時間の無い世界である。そのために変化が無く、
一度つくられてしまうと、永遠に変わらないものとなっている。
その世界が地獄であるなら、信じ難い苦しみが毎日続くものとなっている。
人は、肉体があっての生命ではない。
生命あっての人生である。その人生は、
死後の世界、魂の世界を正しい世界とするために生きている。
悪いことをして生きる勇気?(狂気)を持ち続けますか?自分にかえって来る道理の世界なのですよ。
今ある自分がいなくなっても、いつかの自分に必ず報う。
苦しみでありませんように!それは、いまいる自分にかかっている。
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育てること

2011-07-29 | Weblog
朝食をとる。
炊き立てのご飯に
鮭の塩焼きと生卵、あるいは納豆、
イカの塩辛に海苔、きゅうりまたはナスのお新香と
わかめと豆腐の熱めの味噌汁。
昼食をとる。
熱々のカツ丼とぬか漬けのよく冷えたナスのお新香。
熱めのシジミの味噌汁。
夕食をとる。
温かいご飯に
脂ののったさばの塩焼きともずく酢、
よく冷えたきゅうりのお新香。
なめこと豆腐の熱い味噌汁。

わかめ、こんぶ、めかぶ、もずく、ひじき等
海藻類はよく食べて、畑のものは、
ほうれん草、小松菜、ごぼう、オクラ、長いもなどをよく食べる。
何かとよくゴマをまぶして食べる。
大根おろしは辛目で、おろしたてが特に好い。
丸大豆の醤油を少々でいただく。
あ~、それから、キャベツなどを少々の砂糖醤油の味付けで、
強めでさっと炒めて食べる。

おいしく食べられるというのは幸せである。
四季折々、食欲があるということは幸せである。
暑さにめげず、寒さにめげず
美味しくいただけるということは有難いことである。
常に感謝をして暮らしていれば、物事はやさしい振舞いをしてくれる。
ほんの少しそこに感謝をこめて、
朝の食後と晩の寝る前にだけ歯磨きをする。
昼食後にはしない。昼寝をするとしても、その前にもしない。
ケアするのは、朝と晩だけでよい。
なぜなら、自然治癒力を無くさぬ為に、
その物事の機会を的確に捉えて、有難いことを保つのである。
始まりと終わりをしめくくっていれば、途中
流れはそのまま保たれていくものである。
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求めず

2011-07-28 | Weblog
愛することも愛されることも難しい。
人嫌いすることはいけないことであるが、
人好き好き、合う合わないはあるものである。
それでも、毛嫌いはせずその場を繕い
合わせて、敬うものである。
愛することを心がけていれば、愛されることは易しい。
愛されることを心がけても、嫌らしいだけである。
愛することができる人に、嫌気はさしてはこない。
内からも外からも。
どうりでうまくいくのである。

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援助

2011-07-27 | Weblog
何の為に生まれ生きているのか知らない。
ほとんどはそんなもんだよ、人間なんて。
ただ得意に一つのことに専念をして、その道の人となっても、
人格の養われることが無ければ、凡人と変わらない。
ただ一徹、頑固だったに過ぎないものだ。興味惹かれたものに
よい意味での意地が通されただけである。

品性に優れて、あらゆる格がつき、
否応なしにも威厳が現れるが、親しみにくいということは無く、
むしろ、なんら普通と変わらない。
おっちょこちょいなところも多々ある。
特に他より勝れるところも無く、これといって見当たらないが、
道の理をよく知り得て、智慧を身につけたれば、他のどんな強者よりも優れてしまう。
聖人といえども頭を下げる。
教わることさえ必要としない。
智慧を得た人は法を見ている人である。
何の為に生まれ、生きていくのかを知る人である。
わきまえて、実に質素である。
意に心経を唱え、身に行って、案ずることがなくなっていく。
盾であり、矛ともなっているために
この上ない援助となっている。
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・・・ん~

2011-07-26 | Weblog
急いでいるときには、
急ぐほどまったがかかる。
いつもならスムースにいけるはずの信号でさえ止まれと指示する。
いつもなら混むはずも無い道が混む。
いつもなら、いつもなら・・・。
あの信号ではいつも止められる。よし、あの信号待ちでボトルのお茶を飲もう。
その信号その時は進めである。
会いたくないと思う人には遇い、よからぬ順番にはジャストミート。

危うい心の隙を見透かされているように、ちょっと待てとまったがかかる。
早く着くより無事に着けとたしなめられて、
一つ一つを順番に急がずに急いだ。・・
時は事無き暮れた。
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・・・苦しみの中から

2011-07-25 | Weblog
・・・前世と来世を行き来する間の時の間(実際には時間空間が無い)があの世である。
時の間とはいえ、時間と空間を持たない世界であるために、前世と来世もまた一瞬でつながっていることになる。
色即是空、空即是色と謳われているように現世と来世は瞬時繋がっている。肉体が滅してすぐあの世となるが、
あの世には時間も空間も無い為に、どんなに長い間そこに存在していたとしても、時間が動くということは無い。
そのために、飽きるということもない。
縁あって亦
誰かの母胎に宿ったとしても、あの世の記憶などない。あるとすれば、前世あるいは、何世にも渡って続いてきた記憶である。
あの世が記憶とならないのは、あの世が想いの世界であるために、生前の記憶が現象されて創られている世界であるからである。
記憶がとどまるところがないのである。そのために、あの世の記憶は一切持たなく、前世あるいは何世も前の記憶が
魂の質となって思い出されるだけである。だから、あの世は一切の反応を示すことが無い。知ることのできない世界となっている。
この世の人の誰もが、あの世を知ることはできないものである。それゆえ、あの世は魂の空白の世界であるとして、空と表している。

さて、時間も空間もないということはどんな世界かといえば、たとえて、夢の世界である。
夢には時間と空間が無い。だから、どんなところにでも瞬時現れ、飛べるはずも無い空を飛び、見たことも行ったこともないところにもいける。
場面が瞬時変わる。死んだ人にも会えるし、現在の友、父母兄弟にも会える。しかし、それは現在の人であるにせよ、過去の人であるにせよ夢の中の人達である。
つまり、想いの人達である。その意味で本物の今の人ではない、過去の人でもない。が、夢の世界は今と少しも変わらない世界で映る。
だから、色の世界(この世)と空の世界(あの世)は少しも変わる事の無い世界としている。
その夢想の世界が、死後の世界と同じ現象の世界であるから、夢を見れば、自分の死後の世界が幸せなのか不幸せなのかある程度知ることができる。
怖い夢ばかりでは、死後は地獄の世界となっていることが窺い知るものである。今、辛い苦しいからといって自害してしまっても、あの世もまた、そのまま辛苦の世界となってしまう。
可哀想な人とこの世で憐れまれても、あの世に慈悲は無い。

夢想に恐怖を抱かないことである。

何かその人が、知らなければならないことを知るために縁を持って生まれてくる。
今ある環境がよい環境であるのは、過去の行いによるものでもない。もし、そうだとすれば、
裕福である人は過去の行いがよいことになり、貧乏である人は過去の行いがよくなかったということになる。そんなことは無い。
裕福であっても、死ぬほどの悩みもある。貧乏であっても、この上なく幸せと感じる人もある。
端整に生まれた人は不細工な人より有利である。でも、端整に生まれたが故の心のあり方、不細工に生まれたがための心の持ち方、
心の運び方によって、美も醜も変わるものを知る。美しくあるには努力も要る。それは、苦しみの中から生まれる。
この世というのはである・・・
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色不異空、空不異色

2011-07-24 | Weblog
死後の世界は想いの世界である。
この世と少しも変わらないものであるという。
なぜなら、生前の記憶が現象されてつくられていく世界であるからと。
エネルギーである生命には死というものがない。死してなくなってしまうということがないものであるために、
ずうっーと続いているものである。それは、法則がエネルギーで、なくなることの無いものとなっている為である。
すべてがエネルギーで創られているものである為に、エネルギーあっての世界の物語となっている。そのエネルギーが
宇宙そのものである。その容は円となっている。だから、有限であり、その外側は無である。存在しないものである為に、
語ることも、考えることも無い、できないものとなっている。

なぜなくならないのかといえば、回転する為に
丸となって、始まりと終わりが無いものとなってしまうためである。ミクロである粒粒が集まって、
回転してしまう。
力であるために、互いの力によって、押し合いへしあうために、
絡めあうからである。これが質となって渦となり、円い容となっていく。永遠に止まることがない動きとなるために、
始まりが生となり、終わりが滅となって繰り返し続くために、始まりも終わりも無いものとなってしまう。それが無常となり常住となる。
永遠という。
始まりと終わりの区切りが、一日の区切り、月の区切り、年の区切りとして知り、
始まりが朝となり、終わりが夜となっていく。その別が性の別となり、さまざまに対応した別となっていく。
これが繰り返されているだけのことである為に、不増不減となっている。有限であるエネルギーの容の中での事柄であるためである。

想いもエネルギーである。だから、無くなることがない。
その時々に綴られた記憶が統一されて一つの性質となっていく。それが今いる私の心となっている。
連綿となっている生命の記憶が総合されて、まとめられたものが心の判断となっていく。今ある自分が
突き動かされていくのは、過去の生命の記憶によってである。思うようにならない自分があるのも
そのためである。
自分が自分を知らないのも、統一された記憶の判断である為に、これといって確定されないからである。
みれば朧な自分がいるだけである。・・・
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苦の先取り

2011-07-23 | Weblog
苦楽は一対である。いつもいっしょで
かわりばんこに現れる。
織り成す縄の如しというように、そして、めくるめく。
どんなに細い糸でも螺旋状に綴られていて、
それが人の歩む道でもあるために、楽あれば苦が来る。その次はまた楽がくる。
楽だけということは無く、だから、苦だけということも無い。これは正確に順次である。
必ずこなしていかなければならない苦楽なのだから、苦を先取りして、
できる(耐えられる)苦を選び行っていくとよい。
そうすれば、極苦の償却が行われて苦が和らいでいく。やがて、
苦は苦であっても、苦とは感じられなくなっていく。
すれば、苦の次は楽が来るのであるから、楽楽となって感じられていく。
苦を滅していく方便である。苦は苦をもって滅して、楽だけのように感じさせていくのである。
たとえば、難でもないが煩わしいと思うことは苦。その難でもない煩わしいと思うことを先にこなしていくことである。
進んで行ってしまえば、苦の消却となっていき、受けたくない苦は受けないで済んでしまうのである。
たとえて、毎日の掃除、毎日の笑顔つくり、一日一善等々限りないほど・・・毎日行ってこその事の煩いである。
それも、為になるんだと思うようにして笑顔で(進んで)行うのである。
必ず、為になるから。
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