つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

明暗の顕著

2016-12-31 | Weblog
除夜の鐘の音がうるさいという人がいる。
何と荒んだ心の持ち主だろうか。
そんな人が増えている。
さすがに世も末だと感じるものである。
だから、年をおう毎に風情も無くなり、
一途に人類滅亡へとひた走っていることを感じ受ける。
ただただ人々は、商業主義になり、金勘定で生きている。
愛だの恋だのと騒いでいても、金の絡んだ恋愛物語で、
「献」の字のぬけた醜い物語に終始する。
本音と建て前はきたないものである。
私が感じ受ける夢の世界は、’そして誰もいなくなった‘世界である。
特に最近、2050年までもつどころか2030年前後と滅亡の危機が切迫しているのである。
物凄い速さで進み始めている。ここ数年、
多大な災害被害が及んでいるように、兆しは顕著となっている。
驕り高ぶりを捨てて、謙虚にあるものの内から希望の光が充てられている。
選択の域に入っていると示されている。
生命エネルギーの明暗の別れ際にすっぽりと包まれた。
天空は、その自由をつぶさに見始めた。
そらに浮かぶ巨大な船を、見る人と見えない人と見れない人と、
すでに萌されてきた。
今年は去年より、もっと早く過ぎ去ると感じられるはずである。
それだけ混沌が多くなるために・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一月一日・正月、環、切無いもの、節・接である

2016-12-30 | Weblog
区切りがある。節(ふし・せつ)などと言い表された
ある幅を持ち記し憶された時の間である。
関節、間接、環節、間・節、接・節、
関わりあう間、環のようにして接する区分。
その時々の節々を大事として大切にして特に別する。
特別だから祭事として奉る時を設ける。
自然の変化は緻密である。物の理の
計算によっても明確に示される。
終には、ゼロを持って明かされるが、そこには、
ある思惑を要する。その思惑が無ければ、
永遠にゼロに帰すことはない。
だから、自然は、自ら然り(みずからしかあり)となっている。
自由(自らに由る)であるための事柄である。

此の事柄の日時を、祭事として奉るのを怠っていけば、
やがて歪が起こる。災事となって現れてくる。
特別として記される日を
何ら変わらず日常として通り過ぎれば、礼儀を忘れた者となり、
疎まれ淘汰となる。礼儀を欠いてろくなことがないことを、
人は良く知っているはずである。
祝祭日は守るべくしてある日時である。
仕事をせずに祝いなさいという事の日。

「雨やんで人傘を忘れる」
理不尽にあっては、滅亡を余儀なくされるのである。

エネルギーは切ないものとなっている。
切ないものは、切れないものと書いていることを知ることである。
人はエネルギーで作られている。だから、人はせつないものとなっている。
時が経つごとに、だんだん大事なことが忘れ去られ薄れていく。


一月一日、
♪年のはじめのためしとて、終わりなき世のめでたさを、松竹立てて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ♪である。

先ず、切ないものと知ることが大切である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静寂に帰す

2016-12-29 | Weblog
巷は、
さながら年の瀬賑わい。
忙しくもあり忙しくもなしという中で、
人知れず賑わいを離れて
ひっそりと消え失せる命がある。
どんな命にしても、いつか通る場面である。
独り一人づつである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

せつないものだ

2016-12-28 | Weblog
命がいつか終わるように・・・。
どんな命にしても消え去るのは悲しいものである。
切ないものである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無知にして、怖いもの知らず・

2016-12-26 | Weblog
人類、八十億の魂に達した時、
この地上より消え去る。
おそらく、二千二十五年頃から二千四十年頃と思われる。
その発端は人類の再度の核の使用にある。これは、他の惑星間に於いても、
驚異となるため、致し方なしの神々による方便で滅ぶものである。
神々が言う。
手に余るものをもてあそぶには、気違いに刃物という裁断である。
二度あれば三度ありと、重なっていくものである為に、
致し方無きことである。
「ゼロに帰して、法の慈悲をよくよく覚ることである」と。
宇宙は、孤独ではなく共存である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢現・ゆめうつつ、仮想空間

2016-12-24 | Weblog
巨額の資産があるとすれば、お金で支配されている社会は、
凡そ牛耳ることができるものである。
とするなら、その資産家の考えによって社会は動かされていく。
資産家の思い描いたとおりに現象となっていく。
大衆の善悪は、その資産家の意向によって決められてしまう。
あまりに多くの人がこの地上を占めると、統率することは難しくなっていく。
そこで、統率しやすいような考えが生じてくる。
この星が住みやすくなるよう、且つ将来的に存続していけるよう操作されてくるものである。
それが、自然淘汰という範疇にあるのか否かはさだかにはないが、人工的に
無理矢理調整しようとする考えを持つものが現れることが、自然淘汰の範疇にあるとはならない。
何故なら、自然は善悪を持たないための絶対善の動きとなっているからである。
そういうことをしようとする主観によって、客観が動かされることはない。

自然に淘汰されていくものというのは、恐怖を感じることなく滅びていくものであるから。
客観以外に調整されるというのは、恐怖の何ものでもない。
客観に逆らう主観というのは存在とならないために、その主観によって主観であるものが滅びるのである。
つまり、相手を狙って放ったつもりの矢は、自分に放たれた矢となるのである。
悪事というのはそういうことである。
客観に逆らう主観によって悪事がなされて、その悪事に巻き込まれ亡くなったとしても、
亡くなった瞬間、ゼロに帰すものとなり、生命エネルギーである魂は清浄のものとなるために、地獄が
開かれることはない。
悪事はいつか必ずどこかで清算されるのである。その悪事を為した本人がすでにいなくても、
生命エネルギーである魂に報いるのである。
地獄というのは、悪事を為したための報いの場である。魂が見る世界である。
もともとそこにあるという世界ではなく、魂自体が創る現象の世界である。
だから、生命エネルギーである魂が、エネルギーの法則を悟ることがなければ、
決して抜け出すことのできない世界である。

神々は、一人ひとりの夢の世界に入り込み、悪事を為した人の世界と、
正しく生きた人の世界とを見せてくれる。バーチャルリアリティー、仮想空間の世界であり、
パラレルワールドと呼ばれる場が展開する。
エネルギーの世界というのは、心の世界である。
肉体を持った世界から作られていき、その五官によって作られた世界がエネルギーの自由な世界である。
自らに由るというエネルギーの世界である。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地上の運命共同体

2016-12-23 | Weblog
政治家は、政治家の為の政治をやる人達で、
民は二の次である。だから、
議員の生活ぶりは豊かである。
税金で食べている人達は、貧困ってどこの国の話?って
思っているのだろう。こんな豊かな国にいながら、と。
しかしながら、貧困と富裕の格差は増すばかりである。
物資豊かな国にいながら、生き苦しくて、自殺者が多い国、
過労といじめと老いと痴呆と少子化と三大疾病と・・に悩まされる国である。


庶民の暮らしが苦しいものであるか否かは大衆が一番よく知っていることである。
幸福度を見ても日本国は各国と比べても下部にある。
それでも、我が国日本は幸いにあると民の大半は思っている。
政治家たち、それも、更にトップにある少数は、そのとにほくそ笑む。
日夜のからくり操作の方便に満足している。
しかしながら、大衆も馬鹿ばかりではない。
じわりじわりしのびよる景気の悪化に不満が募る。
民の生活改善ではなく改悪策に辟易する。それも、貧しきものをさらにいじめる策ばかりである。

大企業では不正の数々が発覚し、過去にも現在にも改まる術を持たず、
その場限りの平身低頭に終わらせる。
そのために、巷のどこもかしこもギクシャクとしてぎこちない動きとなり、
当たり前のような感覚が蔓延、またかと特に驚きもしなくなってきた。
官民の安全地帯にいる者達の不正は、留まるところを知らない。

格差是正は、真実の愛がなければ正されない。
いままでは、嘘も方便で通ってきた政策は、もう通らない。
正されない以上、運命共同体であることを、悉く思い知らされる時が来ている。
2050年という時さへ待つこともなくである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパーゴッド、神の中の神

2016-12-23 | Weblog
クリスマスが今年もやってきた。
街は、そんなほのぼのとした賑わいを感じさせるが、
恋人がいない男女には寂しいものでもあるのだろう。
特に日本人は宗教心があまりなく、神事には疎い。
だから、クリスチャンでもないのだがなぜか盛り上がり、
聖夜の雰囲気に酔いしれる。
冬の静かな夜の星空を眺めることもせず、飲み食いに明け暮れ、
男女の絡みに高じることがほとんどだろう。
ただ商業主義に彩られた祭りごとなのである。

本来、冬至の十二月二十五日ミトラが生まれ、その冬至祭である。
様々にして神々の諍い、いざこざによってキリストの誕生祭となっている。
宗教は宗祖によってさまざまにあるが、元は一つから発せられている。
宇宙いわゆる空から発せられた教えであるために、その真理は一つである。
真理である為に、二つも三つもあることはない。
人間と同じように神々にも進化の程度があり、時間の入り乱れがある。
宇宙が対極であるように、相対をもち互いを理解する。
しのぎを削るのは、そこに反応するエネルギーであり、
対極の大小には関わりは無い。常に同等にしてあるための相対である。
わかりやすくいうなら、油と水が入り乱れてめぐるためのことであり、
乱れて交わるが、決して混じりあう事が無いようなことである。

人が、私は何者で、どこから来てどこへ行くのだろうと、
自分でありながら自分を知らずに探求するように、
神々もおなじであり、ただ進化の度合いが人より著しく進化しているものであるために、
人の知らないことまで知り得ていて、エネルギーの法則の掟のあることを知っている。
それが、自由という本質である。
そのために、抽象的であり、これといった一つの答えは無いと知っている。
この自由だけは神々とて侵すことはできない。
絶対で動いているものであるために。
だから、神々はある程度探求の為に様々に操作をし、下級にあるものの自由を不自由にするが、
自由を束縛することの天罰は受ける。
だから、神の中の神と進化した生命は、決して他の自由を奪うことはしない。
時に、戒め訓え諭すだけである。
共存共栄を真に覚る。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糾うという縁起

2016-12-22 | Weblog
今生に於いては、そこそこ裕福な生活を送る。
来世に於いては、そこそこ貧乏な生活を味わう。
裕福な生活を送っている人生に於いて、貧乏を憐れと思いながらも、
これといって手を差し伸べることもせず一生を終えると、
来世、貧困に身を置く。
貧乏を知るためである。
貧乏な生活となった人生に於いて、
健気にも懸命に生き、分かち合い助け合う精神で生きたなら、
来世、富裕層に生まれる。
それでも、驕り高ぶることが無く、施しに生きたなら、
未来世は幸福に生きる。
幸福に生きた時、驕り高ぶり生きたなら、
あの世は地獄の沙汰となる。

その時々の業、幸不幸を担う。
糾える縄の如しに・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崩壊の原因

2016-12-21 | Weblog
今更ながらであるが、
愛が要である。
愛がなければ救われることはない。
愛がなければ助かることはない。
愛がなければ滅亡の一途である。

格差があるのは愛が無いためである。
争うのは愛が無い為である。
生き苦しいのは愛が無い為である。
矛盾にあるのは愛が無い為である。
貧困と富裕は愛の欠如に起因。

まさに二十一世紀は滅亡の世紀。
偽善に色取られた愛によるものである。
お金では決して得ることのできないのは、本物の愛である。
お金で生かされている社会生活に、
真実の愛を知り得るのは、貧困からである。
裕福にあるものの愛情は、実に脆いものである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする