つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

‘無‘常’住’

2009-12-31 | Weblog
「時はただただ過ぎ去るものである。それゆえに怠ることなく精進努力
しなさい。」とかの人は言う。
区切りがあるかのように時をつくる人に、
区切りがあるかのように時はめぐるが、ただただ過ぎ去るだけである。
黙して何も示さ無い中に、示す何かを見い出し
過ぎ去る時に意味を作る。
足を広げ片手を突き出し手を広げ構え、過ぎ去る時の前に立つ。
怠ることなく。

ただ過ぎ行くだけである時は、ただ過ぎ行くだけである。
区切りを見い出す人にも途切れなく時は過ぎ去るだけである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

格も然々

2009-12-30 | Weblog
弱肉強食に生きる獣たちの世界に善悪は無い。
そのために彼らに死後、地獄という世界は無い。
ただ本能で、自分が生きていくために身を保つ手段として
獲物を獲るに過ぎない。そこに
憎しみやら損得などという思いは無い。
そのために、苦しむ罰を受けることは無い。

悪いことだと知りながら
そのことを為すならば、その行為の報いは必ず受けるが、
やましい事をしたという思いの無い心には、悔い悩む苦しみなど無い。
知らないということは幸いでもあるが、災いの中に生きて、災いと思わないでいるのはただただ地獄。
苦しみが当たり前として生きる世界は悲そのもの、地獄である。
苦しむことが苦しみと捉えられないで生きる世界。その世界で生きるものとなるのが善悪の知らない生き物。地獄と知らず地獄に生きるものは、
悪を為すものと悪を知らないものたちである。

腐ったものにたかる虫、湧く虫、汚物を好んで群がり食すいきもの、
彼らはその有様を悲とは思わないで生きるもの。地獄が無い。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

心の反映

2009-12-29 | Weblog
邪なことを思わず、利益を求めず、ただ善いと思われることを行って暮らしていけば、哀しく辛い日常でも少しずつ改善されていく。
心にやましさ卑しさがあれば、出会う事柄もそのようなものになる。
やましい人に巡り会い、卑しい人に巡り会う。
不条理なものだと世を儚まず、我が心のうちを省みて、損得の心を捨てたとたんに疲れることがなくなって、小さなことだが快い事にあう。
心がほっとすることに出会う。
あまりに傷ついていてボロボロだった心は、ささやかなうれしさに涙する。
一滴の目薬が疲れた目を覆い潤していくように、こぼれた涙は心に落ちて癒す。
苦しみの中に生きるうちでも、生あることに感謝すれば
今までの苦も報われるものになっていく。
生きていることは、変えられる条件を持たされている。
苦しいものには楽への変化だけが残されているのだから。
ずるいことを思ってもしないで、ささやかでいい、善いことをしていけば
不条理なことには出会わなくなる。
これは、よく道理が守ってくれるからである。

雨がやまない日が無いように、また、時々の雨は為となっているように、
生きるのに利があるようにつくられているのだから。
正しく生きた命には、せまりくる死は恐怖とならないものとなってる
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

生きることが問題

2009-12-27 | Weblog
生きていくことは様々な問題がやまず起こる。
問題こそ人生。
生きることが問題。なぜ生きる?問われて
死ぬ為に生きる。
死は肉体の消滅にほかならない。
死後の世界こそ生命の真実の世界。
その世界を正しくつくる為に肉体をもって
この世という仮の世界に生じる。期限を持って。
肉体はこの世を渡る一時の船。乗り移る生命こそ自分。
試行錯誤、操って安住の地に赴くためのもの。
助け舟となって問題は無くなる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

善いものとの出会い

2009-12-27 | Weblog
正しい道を示されて、行くも行かぬもその人しだい。
信じるものは救われていくのだが、あまりに偽善の多い世の中、
信じて馬鹿を見ることが多い為に迷ってしまう。
何が正しいか間違っているかの判断を養わなければならない。
なるべく道理に従うとよい。
‘甘い言葉に暗い道’は世の常。‘妙薬口に苦し’というように、
楽と苦、苦と楽は一対にしてある。
よいものは厳しさ辛さが伴ってあらわれて、
わるいものは易しく快いように装って現れる。後に善し悪しが現れる。
この理でつくられている。この目を持って判断すれば騙されることも少なくなる。あわせて我欲をできるだけ無くせば、道を誤ることもなくなるが、
欲の覆いは簡単にはずせるものでない為に、少なからず騙されて苦い思いをする。
最初の苦い思いはそれほど大事に至らないものだから、その経験を智慧として
忘れず後に活かせばよい。‘なるべく’から‘絶対’に道理にしたがうように
する。
智慧は自分の経験である。知識ではない。知識は他人の経験を正しいと学んでいく為に忘れてしまうが、智慧で得たものは忘れない。
智慧の判断が道理の判断である為に、誤る事の無い判断となっていく。
経験が自分を育てる。よく自然(道理)に学んでいくことである。
子供は経験が少ない為に言われたことをよく信じる。
信じて従う為にその通りになっていく。
教えられたことが正しいことであれば救われていく。最初の経験が大事になってくる。善いことに出会うことである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

処違えば思いも異なる

2009-12-26 | Weblog
生まれ育った環境が違えば
同じ事を聞いても違って受け取る。
同時にその場で聞いていたとしてもである。
また、ある事柄を伝えても
伝え渡っていく間に少しずつ異なって伝わっていく。最後には
円いものが四角三角となってしまう。

神や仏は真理を説く。その真理は一つである。
ひとつの事を説いているにもかかわらず、いくつもの思惑が生まれる。
この人はこう思った、あの人はこう思った、またあの人はこう・・・というふうに
人によって違った受け取りをする。独自に解釈した一人の人の理に同意して、師と崇め、賛同して派となる。
祖師信仰、祖師仏教、宗派仏教となって教えが語られる。
師によっていくつも真理が説かれて、しきたりが異なっていく。
説かれて迷いがつくられて惑い曇る。

仏はこう言う。信仰してはいけません。客観的に確かめられることをもとに、
ただ、このようにしてみたらどうだろう、確かめてみなさいと訓える。
自分の実行するか否かに問題はあると諭す。自分自身である。

少しでも善い心で今を生きていれば
死後など気にすることは無いと訓える。
神も仏もただ気づきをあたえられるだけで、救うことはできない。
祈り拝んで救われていく道理は無い。
正しく訓えられたことを実行するかどうかは自身の問題。
このようにしたらどうだろう、確かめてみなさい。
と気づきを与えるだけである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

えっ

2009-12-25 | Weblog
祈ることをやめて行動すること。行動することで思いにつながる道が開ける。
祈って叶えられるなら努力は要らない。祈って得られるものがあるのなら
何もしないで祈っていればよい。そんな理はどこにも無い。
そもそも祈る行為は判断の停止である。判断の停止は死を意味する。
たとえば、獣に追われて逃げなければ食べられてしまう。
その場を離れて難を逃れるもので、恐怖に震え動かずに助けてくれと祈っても、
それは叶わない。祈ることで判断の停止となり行為の停止となるために、
恐怖の行為となって死となっていく。祈る行為より動く(この場合逃げる)行為によって救われていくものである。
困った時でもそうでなくても、祈りは悪の行為となっている。
道理にそぐわない行為である。この世の道理に静止の道理は無い。
すべて、あらゆるものが動いて存在している。
片時も止まることが無いものとしての存在である。
もし、心臓が止まれば死となる。呼吸が止まれば死となる。地球が止まれば破壊する。
あらゆるものが止まれば存在が崩壊する。
祈りは停止の行為。あえて死を選択する行為。だから悪魔な行為、地獄の行為。
祈る魔に未来は無い。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2009-12-25 | Weblog
夜は闇。暗くて何も見えない。
見えないからなにもかもわからない。わからないから過つ。
わからないから怖いとなる。

女は夜。癒しをもってうっすらと輝く。安らぎをまとって
男を惑わす。
どんなに探してもその実態がわからない。女は闇だから。闇の中で男は誤る。
踊らされ操られ、誘われて交わり淫らな快楽に往く手を妨げられ、
更なる母胎に縁を宿す。

誕生は苦るしみである。人生は苦にほかならない。
この世は苦しみである。
この苦しみを知って、生じる縁を絶て。その方便が
性交である。性交がなくなれば、何を思って生じる縁があるだろうか。
性の欲望を滅して、交わらず人生を終えれば
母胎に宿ることがなくなり、生じることが無くなる。
対を滅して終に生を滅する。

女は魔物という。
修行の妨げになるために、仏の弟子に女はいない。
どんなに優れた賢者でも、傍に対となるものがいたのでは、本能で
気が引かれてしまう。いなければ気が惹かれてしまうことが無い。
そのように心のざわめきを本能から無くしていったのである。
魔の甘美なささやきも、反応する機能をもたなければ、惹かれることも無い。
それが性質となってつくられていき、生じる縁を絶つ。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ものへの依存

2009-12-24 | Weblog
よい人に出会う事は幸せの要。
自分がよい人であれば、他に幸せをもたらす。
自分はよい人になれますようにとささやかにいきる。

悪魔がこう囁く。「妻や子がいるものは
それに喜び、財ある人は財で喜び、自分のものがあることに喜ぶ。ものの
束縛に喜ぶ。」

仏が言う。「妻や子がいる者は妻や子に悩み、
財がある者は財で悩む、束縛はよく人の悩みである。
束縛の無い者には悩みは無い。」

不幸はもの依存より生まれ、幸福はもの依存よりはなれてある。
執着を離れて真の理を得る。それは幸せに満たされている。

世俗の幸福は差別的である。私はあなた方とは違うと慢の心は差別に喜び、
競い、争い、奪い合うことで幸不幸を分け、ものへの依存、いわゆる執着による幸福観である。実に貧しい思い、真実の貧乏といえるのではないか。
心の貧しさこそ悪である。この貧(欲)をなくしてこそ福は来る。
心の安らぎを得ることこそ真実の幸福で、得られればいかなる環境でも変わるものではなく、無くなることの無い幸せである。
ものに恵まれても、死ねばゼロ。
心を養えば徳となる。それは死んでもなくならない。もともと心は形のないものだからゼロにはならない。なくならない心を磨いてこそ平安を得るものである。
そのように、ささやかにいきる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

あげまんのこころ

2009-12-23 | Weblog
「修行者よ、前世の業を受け、女犯の身なれば、
我、その身となってあなたを迎えましょう。あなたの生涯にわたり
その身を飾り共にいきましょう。そして、終には浄土へと導きましょう。」
救世菩薩曰く、女犯の詩。
こんな女に出会えたら、さぞ、駄目男でもふるいたち、敬われる人になれたかも・・・。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加