つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

間に合うことあり

2011-08-31 | Weblog
一秒がずーっと変わらずに一秒であるのに、
一分がずーっと変わらずに一分であるのに、
十分が三十分が一時間が早く過ぎる。
一日が一週間が一月が一年が早過ぎる。
十年一昔という十年は長いようで短く、短いようでまた長く、ずーっと変わらずそう思う。
季節があれば、季節はめまぐるしく移り行き、
愛でる暇も無く過ぎ去ってしまう。
今度の春には、花々を眺め、萌える命の息吹に感嘆し、
今度の夏には、額に汗して、海風に冷やし、忘れた青春に思いを馳せる。
今度の秋には、無理して焼かれた肌のほてりを、草木の色合いで癒して、
今度の冬には、純白の景色に、凍えながら薪に戯れる。
きっとそうしようと、また朧いで
年月が早々と過ぎ去る。いつしか、いつになく、時はただ過ぎ去るのみと知る。
自分の杜撰さを生きて、あわてるばかりの年寄りとなっていく。
何にあわてるのかと問い、心経にたずねていま少し答えを得る。
命尽き果てようというに
有り難い事だと深く頭をたれる。
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元の気

2011-08-30 | Weblog
肉体は、他の生物の命を頂いて維持されていく。
命を頂く為に命はつながれている。
肉体というのは、他の犠牲によって成されているために、
感謝を持って「いただきます」と敬意を示す。
悲しい性であるために、その都度うつむき、報いて生かされるのである。
生命は、その肉体に頼って、生命エネルギーの完成を求めて活動している。
疲れは、肉体からくるのではなく、単に生命エネルギーの不足によるもので、
死人のように、じっと動かず眠ることによって満たされていく。
動かないことによって回復していくのである。
疲れというのは、エネルギー不足のことである。真に疲れてしまえば、
回復することは無く、肉体を取り替えなければ直らないものである。
つまり、肉体には疲れというのは無いものである。
肉体は、食することによって維持されていき、エネルギーは動かないことによって満たされていく。
だから、人は、毎日食し、眠り、朝には元気になっている。
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慢の報い

2011-08-29 | Weblog
ほんの四、五十年前は
まだ井戸が多かった。
キコキコと手押しポンプで汲み上げたり、釣瓶でよいしょよいしょと汲み上げていたものだ。
なかなか容易ではなかった。
それでも近くに井戸があれば幸いであった。
有難いものだった。
もちろん、電話もほとんどなく、白黒のテレビでさえみなかった。車なんてものもまず見なかった。
田舎へいけばいくほど科学的なものは無かった。純朴な世界だったような気がする。
それを知り、今を思えば有り難い限りの世の中である。
その有り難さを、当たりまえと捉えて暮らしてしまう人の慣れというのは
恐ろしいものだ。
有り難さを有り難いとも思わず、あって当たり前と思ってしまう。
特に日本では水道の整備が行き届いていて、ごくごく普通にそこらじゅうに蛇口がある。
飲料水、洗濯、食器洗い、風呂等々、綺麗な水があっての、あまりにも便利と言う守りに守られて生きていられる。
水はあれど、飲み水としてあるのはごく僅かであるのに、
ふんだんにあるが如くに扱い、有り難さを忘れ、あって当たりまえと言う慢に浸り生きる。

いつの頃か、有り難い事であることに嫌と言うほど気づかされる。
感謝の気持ちを忘れた人に、運命共同体として、誰彼と無く悲劇は訪れるものである。
道理はいつも原始的である。
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私訳、般若心経の要点

2011-08-28 | Weblog
「この世とあの世は少しも変わる事の無い世界である。
あの世とこの世も同じ世界である。」「人が死ねば、この世は即あの世となり、
あの世も即この世となる。それは、法則によるものである。」「生前の行い、思いもまた同じである。
法則によって輪廻していく。」
「法則がすべての諸々の法則であるために、
あの世は
不生不滅で、綺麗も穢いもない感情が無く、増えたり減ったりということの無い世界である。」
「法則であるが故に、あの世は色(この世)の無くなることがなく、受想行識も無くなることが無い。そのため、
目、耳、鼻、舌、身、意で感じたことも無くなることが無い。だから、色も声も香りも味も感触も、
身体も心も無くなることが無い。眼で見た世界がなくならなず、意識が無くならないために、
心の現象の世界となっている。」
「無明(地獄)の世界が無くなることが無く、また、無明(地獄)の世界が尽きてなくなることも無いし、
老いて死ぬ恐怖も無くなることが無く、また、老いて死ぬ恐怖が尽きて無くなることも無い。」
「苦を集滅する道も無くならず、智慧も、智慧で得たことも、その蓄積も無くなることが無い故に、
悩める多くの人々の悟りの道が開かれている。」
「故に、心は文字に礙げられず、無が無いではなく無くならないとしていき、
無くならないとしていけば恐怖も無くならないとなっていくが故に、
無くならないものは無いとして、顛倒した判断をして、夢のような想いから
恐怖を無くしていくことで、悩める多くの人々の究竟涅槃となり、三世も佛となることのできる
悟りである。」
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正しい判断

2011-08-27 | Weblog
人は、死後の世界の為に生きていくものであることがわかれば、
善悪も、その業も因果の中にはっきりと知れてくるものである。
原因があるからその果がある。「なぜ」という中枢がみえてくるのである。

自分の為として人は生きているものである。
自分の為である為に、わざわざ自分を苦しみに陥れていく人はいない。
みんな自分が大切で生きている。
そのための損得であるのだろうが、損得が自分の為にならないことが
はっきりと知れてくるなら、欲深くなることも無い。だけども、この世では、
曖昧に満ちていて、惑う、迷う、過つ。
一時の、刹那の快楽こそ、
その意図した悪意に沿って得られても、当てはめられた字の如く刹那である。
泡沫と言わても縋りつく欲望の浅ましさは哀しい限りであるが、それは、
絶対と言うことへの無知と、永遠と言うことの無知からくる軽々しくもと言う
普段の惑いからくる。

無常ということに不滅が矛盾となってくる。一時一時移り行く無常が常住であること。
常住不滅がエネルギーである。エネルギーの法則のためのすべての存在である。
人も、なにもかも。
不滅である。
姿を変えて移り行くだけで、思いも変化しながら、その思いの統一されたものが今の自分の心となって、
判断となっている。気(エネルギー)である。正しく進化していけばいいのだが。

涅槃寂静である。変化の無い世界である。完成された世界であるために永遠であり、絶対である。
何者にも犯されることの無い世界である。浄化された世界である。
心(エネルギー)の求める世界である。
その心の完成をかなえるために、今を生きているものである。肉体という船を作り変えながら。
死後の世界こそ心の世界、心の現象の世界、エネルギーの世界、法則の絶対世界である。
それを理解することができていけば、業の善し悪しを理解し、誰に言われることもなく善行に
進んでいくものとなる。
損得勘定は損となり、我が身に置き換えて、生きとし生けるものに哀れみを持ち、
欲の執着を離れていくことこそ、
徳(恩恵)を得るものであると知る。
正しい判断である。
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もちつもたれて

2011-08-25 | Weblog
使うだけ使い何もケアしなければ、
ものというのはさまざまにくさる。ぶつくさ語る。
便利を受け恩恵に与るなら、
少なからず感謝を表す為に、意をこめて慰めなければならない。
その都度、あるいは少しの間を置きながらも、
必ず何かしの手当ては必要である。
日頃の杜撰さのフォローは大切で、その気配りは必ず功を奏す。
何事も無く、思いよることもない普段通りということに。
ぶつぶつと愚痴が聞こえるなら、我を省み、そこに未来が開かれている。
そいうものだから、誰をも悔やまない。
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質素

2011-08-24 | Weblog
シンプルであること。
ここに帰着した。
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心経の功徳

2011-08-23 | Weblog
般若心経より学び、
般若心経を口に、心に、身に唱え、
人に知られる事をせず、人に知らせる事をせず、ただ心経に沿う。
どれほどの偉い人にでも、隔てることも無く臆する色も無くなる。
彼もまた微塵の人と思えるだけである。
学も無く貧に扮していても、真理を見られ、
これほど強いものは無く、安心できるものである。
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死ぬために生きる

2011-08-22 | Weblog
知識というのは、他人の行為の証であるために、
自分の経験としなければ、教えられても忘れてしまう。
経験とならないものは知識とならず、知識とならないもは
わからない。わからないものは怖いものとなってしまう。
死が人の経験とならないために、死が恐怖となって、
すべての恐怖のもととなっている。
死は、誰彼かまわずに訪れる絶対なものである為に、
死が人の矛盾となって、人の行為がすべて矛盾となっている。
すべてが矛盾の行為となる為に、どんなに解明しようとしても、矛盾は解かれない。
死は人の経験とならないのに、人は絶対死ぬ。この矛盾がわかれば、
死というものが恐怖とならなくなる。

生命というのは、エネルギーの法則によって創られたもので、
神や仏が作ったものではない。
法則も生命も同じエネルギーである。法則が無くなることの無い性質となっているために、
生命も無くなることの無いものとなっている。だから、生命には死が無い。
その性質が円となっているためである。ぐるぐるとまわり終始がないためである。
回る変化によって浄化となり、それぞれに対応してエネルギーが形つくられている。
エネルギーは永遠という変化の無い唯一のものである。その永遠という自由をもって
生命は肉体を持ち変化に対応している。
そのために、人の一生はすべて浄化の行為となっている。
常に変化している為に無常となり肉体の生滅を繰り返すが、生命そのものがなくならないものであるために、
肉体の消滅後が生命の真実の世界である。法則の絶対世界である。変わることの無い世界となる為に、
その世界を天国とするため、今肉体を持って生きているのである。努力という力を持って人生浄化して生きているのである。
つまり、すべて死後の世界の為に、人は努力して生きているのである。
死後の世界こそが生命の真実の世界である。
人は、死ぬ為に生まれるのである。矛盾とならないものである。
この真実が理解できれば、死が矛盾の無いものであり、法則によるものであり、恐怖とならないものであることがわかってくる。

何度も生まれ変わるのは苦しみである。
この世が幸せであっても、病にもかかるときもある、よからぬ目にも会う、悲しい別れがある。好いことのほうが少ない世界である。
一切皆苦の世界なのである。この苦から抜け出す為に、
未完であるがゆえに生じた人生を、正しく努力浄化して、
二度と生まれることを無くし、永遠である天国をつくるために生きているのである。
救いというのは、今生の救いではない。死後の世界の為の救いである。
天国を作るも地獄を作るも人の自由である。生命の自由である。法則の自由である。
その自由が法則の慈悲である。
慈は天国であり、悲は地獄である。
その自由を持って人は生きている。
がその自由を左右する。
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人知を超えた知的生命達

2011-08-21 | Weblog
そう遠くない未来、このままいけばという時間線に、
思いがけない非情事態が生じることあり。
知らないだけにただ過ぎ去っているだけだが、いままでも
あれこれ重大な局面は回避されているから
何事もないように存続している。
一寸先は闇である為に、不確定にある未来の出来事に、
少しでも悲しみの時間が存在しないように勘をきかせみているが、
法則との摩擦で熱を持ち、浄化しきれないエネルギーが弾かれんばかりとなっている。
はたして、どれだけの正義が、
ため込まれた摩擦熱を冷ませるのだろうか。
人知をはるかに凌ぐ知的生命は、非情な時間線を消し去るのに思いを馳せて現れる。
事頻繁に!
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