つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

我が身になるとできないから愚人

2006-07-30 | Weblog
感興の言葉のなかに・「実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以ってせば、ついに怨みの息むことがない。
耐え忍ぶことによって、怨みは息む。これは永遠の真理である。」・とある。

いつかは死ぬんだと分かっていても、死とは何なのかわからない人たちには
理解されることは無い言葉。
自分の愛する者に起こる悲劇であればなおさらのこと。
その なおさらのこと とする心を知り尽くして、言葉は語られている。
耐え忍べと仏は教えている。
それが幸福を得られることだと。それが法であるために。
100万人いたら100万人が理解できないほど難しい。
だから、理解でき忍べば神ともなる人である。
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ゼロになる

2006-07-28 | Weblog
仏も神も 世の先を予言した。
共に、世の法則を悟った人の予言であるために、
法の予言となっている。
だから、100パーセント狂いが無い。

歴史を見ても分かる。
地球は地球として昔も今も在る。
ただその中は変化をしてきた。
栄枯盛衰を繰り返し、進化はすれど、元に戻る。
知的生物として進化し、知能は高くても、法則を超えることは無い。
法則あっての存在だから。そして、その法則は元に戻るものだから。

まして、人の歴史はわずかなもので、その中身は戦争の軌跡。
殺しあうこと。悪の歴史。誤りの歴史。

人の体も、悪いものは排除するように作られていて、そして自然治癒力として、
元に戻すようになっている。本来。
そして、悪いものがつよければ、その悪いものによって滅ぶ。

地球は悪いものに滅ぼされないよう、悪を浄化する。
人の体の中と同じようなことをするだけのこと。

共に、法則の存在であるために、法則にしたがって・・。
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水に滅ぶ

2006-07-21 | Weblog
理を知り、理に沿い、理を身に付けて智慧となる。
智慧を得た目で見つめると、行く先々が見えてくる。

この世の先の100年足らずで、水に没する。
地球は、天災によって浄化をしていく。
年々、諸々の自然災害が強大化しているのは、
人の誤った進化によるもので、悪のエネルギーの増大に対する浄化のためとなっている。
人も自然でありながら、自然に反して、沿うことなく、自らに合う環境に作り変えて、対していくために、滅んでいくものとなっている。
自然の法則にもとずくものであるために、絶対となっていて、
避けることはできなくなっている。

歪みは顕著になりはじめている。

律することのできなかった人の心の悪によって、
人災は起こり、天災は起こる。
悪の浄化のため、地球の浄化となっている。
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魂という自分

2006-07-19 | Weblog
自分は何者?
自分はどこからきて、どこへいく?
自分は自分でありながら、自分を知らない。
どうして自分を自分は知らない?
まるで運転手のように、
自分という空の肉体に、魂というかたちのエネルぎーがはいって
動かされている。
それを、そのように感じる自分と、魂という者の自分。
客観視しようとする自分は主観の自分。
その自分は魂という生命エネルギー。
生命エネルギーという魂は客観視できる主観の自分。
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愛しなさい と 愛するな と

2006-07-18 | Weblog
キリストは愛することを説いた。あなたの隣人を愛せよと。
その行為が天国をつくるとして・・。

釈迦は愛するなと教えた。愛する者をつくるなと。
愛する者がなければ、何の憂いとなるだろうかと。
それが、涅槃となるとして・・。

ふたりは、まったく反対のことを言っているように見えるが、
共に、同じ事を説いている。

答えが二つあるのではない。答えは一つであり、キリストも釈迦も正しい。
真理は一つであり、その一つを同じ意味合いで教えている。

目(まなこ)ある人であるなら分かるはずだけど・・・。
分からない人が多いとすれば、この世は地獄の様相となってきているはず・・・。
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愛は悪の浄化

2006-07-16 | Weblog
人を愛するという行為は、悪をきれいにしていく行為。
きたないものをきれいにしていく行為。
浄化という行為。
好きだから大事にしたい。愛しているからいい思いをしてもらいたい。
辛い思いはさせたくない、哀しい思いはしてほしくない。
そのように、相手を愛しみ慈しむ。そこに悪意は微塵も無い。
悪を思わないから悪の無い世界となって、幸せな世界となっていく。
行為は縁となって、幸せがめぐる。

もし、愛されたいと思っても、思いはままならず、ままならないからといって
疑念を抱き、迷い戸惑うことは悲しみをつくる。
悲は辛いもの。辛いものは苦しい。苦しみは地獄。
地獄は悪の世界。
愛されたいと思うことは誰でもそうだけど、思いは得てして裏腹になるから、
そう思うなら、愛することのみに専念する。
自分を勘定にいれずにということ。
愛されたいと思うことは間違いではないけれど、その‘我’が迷いを生み、悪をつくる。
悪が兆しを見せると、やがて大きくなる。縁となって悪から離れられない世界となってしまう。
「どうしてこうなってしまうの」と思うのは、我が強く出ているから。

愛されることよりも愛することに専念すれば、愛される。
思いは叶う。
悪はなくなる。
あらゆることに応用して、思いを調える。

ちなみに、慈悲の慈は、愛の世界であり天国を指し、
悲は、悲しみの世界であり地獄を指す。
慈は善、悲は悪として、道理の慈悲をいう。



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へんてこりん

2006-07-12 | Weblog
小さな穴からのぞいた景色は、驚くほどの広さをもつ。
小さなものの中にけっして入らないであろう大きさが、その小さな空間に収まる。
空間はあるが無いといえる。???
それは、夢を思えば分かると思う。
夢には空間が無い。時間も無い。そのために、様々な処に様々な大きさで現れる。そして、瞬時に変わる。 それを変とは思わない。夢だから。でも、
夢を見ているときは、夢を見ているとは思っていない。
夢の中にいるあなたは、現実と思っている。なのに変とは感じない。
夢から覚めて、はじめて夢と理解して‘変な’と思う。
夢の中にいるときは、夢だとは思わない。
ありえないこととして思っている現実は、現実ではない現実なのかも・・・
共に現象の出来事。
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変化

2006-07-11 | Weblog
今日はもう火曜日かぁ。 あるいは、まだ火曜日かぁ。と言いながら、
亦一日が過ぎた。そして、一週間が過ぎて、ひと月が過ぎる。
同じように火曜日はめぐってくるが、
毎週めぐってくる曜日が何の意味があるのか、
いまさらながら考える。
どの曜日であっても一日に変化はあるわけではなく、ただの昼と夜になるだけ。
人に関係なくめぐるのみ。
一日の火曜日は過ぎ、一週間の火曜日がめぐり、ひと月目の火曜日となって、
一年の火曜日となる。季候の変化の火曜日となって、めぐるだけ。
もう、或いはまだという変化は無い。
自分自身、変化の意味が無くなれば、今生の人生完成となって、肉体の必要がなくなっていく。
輪廻転生してくる意味を理解できた者は、変化の繰り返しを離れる。
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丸い考え方

2006-07-09 | Weblog
いつもと変わらず、いつもと同じ、いつもながらの・・・と時間は訪れては過ぎていく。
特に変化もなく、平凡で、明日のこともおおよそ見える。
そこに不満を抱いて何の得となろうか。
落ち着いた、穏やかな時の流れがどれほどいいことなのか、
なんでもない日々のことが幸せと思う。その今は実に束の間のこと。

変化は連続している。これが「是」(ぜ)といい、「法」という。
法がすべての生みの親。
変化が常で、なくなる事が無いのは法が無くならないためで、法が無くならないのは、円運動となっているために、はじめと終わりが無いものとなっているから。
くるくる回る動きが変化を創り、変化の在るところには時間が作られる。
変化の無いところには時間も空間も無い。
変化に対応して、エネルギーはそれぞれのエネルギーとなって作られていく。
だから、その場に在るものはその場に応じたものとなって、適応した姿形をもつ。
「是」を理解しなければ、すべてがちんぷんかんぷんとなって、
わけが分からない。わからない為に神や仏をつくり、超越的ものによって解決してしまう。
神や仏を四次元の世界として、次元の違いによって理解の差をつくる。
三次元からは見えないが、四次元からは見えるという直線的思考をするために、
どんどん高次元となって矛盾となっていき、答えが見出せない。

「法」は円運動。これを「是」として、
是なるがゆえに、円思考としていくことで物事は見えてくる。
光のおかげで私たちはものを見ているが、その光も直線的に進むことは無い。
法の存在であるために円を描く。
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丸いから転がる。

2006-07-06 | Weblog
不幸せになりたいなんて思う人はいない。誰でも
「幸せになりたい」として日々生きている。
だから、自分のためとして、人の為社会のためとして生きていく。

第一に人の為にとしていくと、自分は生きていけなくなる。
自分あっての世の中だから、自分をよく勘定に入れて、
幸せになりたいのは誰でも同じだから、だから、
先ず人の為、世の為として生きている。
それが自分の為となっている。

自分の為としての先ず人の為となっていかなければ、自分は死んでしまい、
幸せには成らない。
根本は、自分のための他人の為。
他人の為として生きているのではない。

この順番がポイントとなる。

無我を我は無しとしてしまうと、自分という実体がありながら、実体を否定していることになり、自分は何?とわからなくなってしまう。

在るがままを見て、自分がいるのだから、自分の為の幸せとして、他人の幸せを切に願う。

丸い世の中だから、めぐりめぐってとなっている。
これが、規(きまり)。

「人の為」と書いて「偽り」と読む。それは、
めぐりめぐって自分の為となるためで、人の為にとしているものでないから・・。

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