つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

悔しかったら偉くなれってか・・・なんともはぁ・

2016-03-28 | Weblog
税金で食べている人達、金融に与り食べている人達、
鼻高々にして傲慢、他人の金として、自分たちの取り分多くして、
とりとめなく適当に使う。使い方下手で無駄使い、足りなくなれば税金値上げ。
もっともらしい言い訳をしながら・・。
物価は上がり、年金は下げられる。
働けなくなった年寄りは、厄介者として早く死ねと言わんばかりの弱者いじめ。
60を過ぎたころから生活保護者は増えるばかり、そりゃそうだ、
税金は上がり、物価は上がり、取れるものはとりっぱくれのないよう仕組みを作り、与えなければならないものは下げるのだから当たり前。
生活保護に金がかかると政府は嘆くが、年金制度が破たんしている状態だもの、
それもこれも税金で食べている人達のむちゃくちゃぶりから起こったことではないのだろうか・・。
親の七光りやらで、金銭感覚もなく、自分の損得には長けていて、
国民の為として誤魔化し多くして職につき、、
さながら下品な行為が日常の報道を賑わす始末。
あぁ、世も末世も末と、いつの世も人の世というのは嘆かわしいものだ。
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いつの世も腑に落ちない世の中

2016-03-28 | Weblog
物の値がじわりじわりと上がりだした。
スーパーでの買い物は、割引を始める夕刻にいくようにしている。
小生、賞味期限などあまり気にしない。消費期限も
鼻を利かせ目を利かせて、勘を持って判断している。
だから、期限が過ぎたものでも食あたりしたことはない。
昭和三十年代はそれこそ、賞味期限とか消費期限なる記載はなく、
五感に頼って判断していたものだ。子供ながらに、野山に遊びに行っては
その辺に生えている草や木々の実を食していたものだ。
だから、キノコとかわらび、ぜんまい、たけのこ等々、山菜などは、
毒の有無など自然にわかったものだ。もっとも、
親とか、近所の大人たちや、年上の友達などと、近くの山によく取りに行ったものである。
だから、これは駄目とかよいとかという選別を、
自然と教わったものである。
当時の子供たちは、それとなく食卓のおかずに貢献していたものである。
皆貧しいという時代であったために、魚にしても肉にしても近場の山に取りに行ってたものである。
今思えば、自然なもので新鮮なもの、貴重なものが案外豊富に食べていたのである。
鶏の卵一つとっても、よく庭に5・6羽放し飼いで遊んでいて、生みたての卵を食していたものだ。
それを、今の時代、自然なものは特に、
スーパーなどで買えば、目が飛び出るほど高い値段で売られていたりする。
技術がそれほどなく、皆貧しかったころは、逆に自然的なものを自分たちで調達して、今で言えば贅沢なもの
を食していたような気がする。
昔がよかったという事ではないが、時代が進むにつれて、
人工的産物が当たり前で、便利というものが作られ、お金のやり取りで便利という楽を買う時代になった。
お金さえあれば、楽して便利に暮らせる。そのために、お金お金と、躍起になって金を稼ぐ金の亡者が増えていった。
金をたくさん持っていれば信用され、金が無ければ信用も無い。
人格は無視され、野蛮な者でも金があれば信用されてしまう。
金が独り歩きしていき、
金が信用で、人は信用ならないという、何やら、腑に落ちない状態になっている。

正当に見えて、騙し騙されあいながら
狐と狸の世の中である。人の群れという社会は、人の為という秩序をつくり、
法律として束縛する。人の為と言いながら、社会が生き苦しいのは、はて?はて?と・

生き苦しい世の中に、考えるのも嫌になり、忘れたくて痴呆になって、さて、
人はボケていくことで、死の恐怖から逃れられていく。

現に、金持ちが支配している世の中である。
貧しき者は騙されて、従順なる労働者として、彼らの為にひたすら働く。
あなたが豊かになるためだ、と、金持ちなる政治家がいつもながら選挙時に言うように、
そして、税金は上げられて生活は楽にならず、金持ちは優遇されて・、

「働けど働けど我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」有能な人の有名な詩である。
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且つ

2016-03-27 | Weblog
不動明王、その姿は憤怒の形相である。
これは獅子にも似た顔で、とても大きく勇ましいものである。
智恵があり肉体的力も絶大である。
金剛力士なるものを従えている。
地球上において支配的存在である。
彼らはそれぞれに神々であるが、その上に慈悲深き神々がいて、更に、
優れた神々がいる。

この世界は対称的であり、よって、この世界と相俟って反する世界がある。
頭脳明晰にして智恵を駆使し、対する世界より現れしものというものがいる。
神々は、その対称性に於いて互いに取り持つことを覚えるが、一瞬ではあるが、
対立して修復を図るものである。

「~淀みに浮かぶ泡沫は且つ消え且つ結びて久しく留まりたるためしなし~」
と方丈記に謳われているように、その動きは、ある波動となって伝わりかえってくる。
取り込まれては放たれてと繰り返して永遠にやまない。
且つ消え且つ結ぶのである。

それぞれには性質があり性能がある。優劣があるように思われるが、全く同等にしてあるもので、
衆縁和合というかたちにあるだけである。

一点は中心的にして縁でもある。
その様は不思議として捉えられ、、その先は不可思議である。

円にはどこがどうという差が無い。
上下という高低差が無く、前後という差が無く、左右という差が無い。
優劣という差も無い。
確かに特異点はあるが、且つ動き且つ止まるものであるために、
それを
ここだと定かに見極めることはできない。

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偏にという自由な偏り

2016-03-26 | Weblog
恐怖が無ければ何に縋ることがあろうか。
恐れるものが無ければ、神も仏も必要としないものである。
怖いものがある為に、また、その怖さには、
自分ではどうすることもできないという直感が働き、故に、他に超常的な力の救いを求めるものである。
その超常的力なるものに対しても、まったくの無知にある為に、ただひたすらひれ伏して縋るものである。
「無知」が恐怖の根本である。そのために、無知が全知全能の存在を作り上げているものである。

何に対して無知か?といえば、存在を与えているもの、つまり、創造主ということだろう?
全知全能なるものとはなんなのであろう?と、偏に無知というものから来るもので、無知をなくせば、
神も仏も必要としなくなるものである。
恐怖が無いということは苦も無いということで、全てに明白を見てとれるのである。

何も知らないという様に深く疑問が起こり、その疑問が果てしなく続くもので、
答えの見出せない難問となるためであろう?一つを調べて答えが見いだされれば、その答えの
先に一つまた一つと疑問が起こる。無知がすべての恐怖の元凶である為に、
必死にになってその無知の克服に全力を注ぐも、未だ答えは見出すことができない。ただ、
だから、
他力本願というもので、私たちは生かされているのだろうと知るのである。
どうすることもできない力に於いて、私たちの存在というものが培われているのだろう。
その力というものは‘自由’という抽象的言い方でしか表せないものである。
でも、
その自由が、全ての明確な答えなのである。
もっと単純に言い表せば、曖昧と言いあてられる。
右があり左があり、そのどちらでもなく、
上があり下があり、そのどちらでもなく、という
これらが、ありとあらゆる様を表して、その現象は一重に(偏に)自由を持ってして成り立つ。
そのために、自由を束縛することは、どんな力においてもできないものとなっている。
自由である為に、その自由において不自由を作り上げれば道理に合わず、
道理に合わないことは存在とならなくなるものである。
道理に合わないことは苦を生み、苦が恐怖となる。それは、存在とならなくなるための苦しみである。
つまり、死が恐怖の基となってくる。

さて、生きとし生けるものには、道理に合って存在となっている。
その存在の理由は‘反応’である。
道理にどのように反応したかの存在での姿形を持つ。
それは、見える、見えない、に関わらずの姿形である。
反応は‘業’ともいえる。業は縁となり、縁は自由にして成っている。
縁によって現れた命(存在)は、また、自由意思によって活動する。その活動の果が業となって縁が作られていく。
そうして、繋がっていくのである。つまり、円運動となっている。それが自由の姿形である。
だから、無知を克服するには円思考でしかない。自由が円となっているためである。
直線的ものの見方在り方をすれば、始まりと終わりの解決ができず、すべてが矛盾となっていく。

自由は、自らに由るとして‘しかあり’つまり、‘然り’である。
それが、自然法則である。円運動、エネルギーの法則である。

円の姿形はゼロである。
あるともないともという姿形である。だから、その姿形は有形であるも
無形として捉えられる。
感覚は、不増不減であり、不垢不浄であり、不生不滅である。
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鏡面

2016-03-24 | Weblog
右螺旋、
左螺旋、
立場を違えて同じ螺旋。
違いを持つようにして違いはない。
縦も横も前も後ろも・。
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常常

2016-03-21 | Weblog
自然が作り出すものは永続的である。
人工的に作り出されるものには永続性はない。
人間は、
自然によってつくりだされたものである。
人間の思いにある神々もそうである。

人間が人間をまねて知能ロボットを作るように、
神々も自分たちに似せて生命を改ざんする。

無常であるという常住。
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智能

2016-03-20 | Weblog
私達はまだ惑星間を行き来できない。
私達よりはるかに進化した生命体は、
科学技術も優れていて、この宇宙空間を自在に飛び回っている。
もはや、宇宙に人間の様な生命体がいるのだろうかと、生命探査することは、
時代遅れという感である。

巨視的世界を知ろうとするなら、微視的世界を探求しなければならない。
巨視的世界の不思議な振る舞いが
どうして起こるのか知れてくるものである。

最近、人工知能というのが、かなりの性能を持つようになったと報道されている。
人間が人間を超えるような知能開発ができてきたのである。
人間ですら開発できる能力を持ってきたのであるから、
人類よりはるかに進んだ能力のある生命体はどうだろう?
クローン技術も確立していて、それこそ、危険を伴うところ、未知との遭遇などには、
模造された生命体が活躍するのではないだろうか。
ある程度統率された意志を持たせ、その意思表示の操作・調節を行う。
惑星間を自由に行き来出来て、自分たちが存続するための資源確保、未知なる物質の
探索、住みやすい居場所などを求めて外宇宙へと旅立つ。
温厚、穏健なものと、野蛮、きょうこうなものとがいるもので、それは
相対的にしてあるというものの所以である。
この二つの中にも、日和見的があり、曖昧がある。
対極にして巴であるも、三巴である。それは、いまだ見えずして・とあり、とても影響するものである。
さて、右に巻いて動いているのが我々の世界である。
当然、左に巻いて動いている世界がある。
これはどちらの立場においても、同じ現象が起こる。
鏡面に於いて相俟っている様である。それをどのようにして行き来するのかは、
今ある様にヒントが隠されている。
見つけられるのも知能の問題である。
私達は、常に進行してありながら元に戻るものであり、
だからといって、退行しながら進むという対はない。
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克己心

2016-03-19 | Weblog
煩悩に満ちている世界である。
そのために、
お互い牽制しあって生きている。

心地よく生きようとしているが、
それは単に自分だけを思う為の居心地であるため、
人間社会というもの、生き辛いものとなっている。
[煩悩の犬は追えども去らず]で、どんなに高貴な人でも
具足しているものである。
この世にいるというのはそういうことでもある。
だから、日々精進して克己心を養わなければならない。
淫らなところにありながら淫らにならず、である。

どんな色にも染まらないという布を見た時がある。
それは、水を悉くはじくというもので、
単に、水分というものをまったく受け付けないというものだった。

動く動かないにかかわらず、汚れというのはつくものである。
生きていれば様々な汚れ、垢がついてくる。
汚れの中にありながら、その布のように、汚れに染まらずいたいものだ。
付着した垢を洗い流せるのも生きていればの世の中である。
一切皆苦の世と訓えられ、
降りかかる汚れを、少なくとも振り落としながら生きていたいものである。

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半身半獣の輩

2016-03-17 | Weblog
人の常識というのは、何を基準にして常識非常識としてあるのか???
皆がいて皆が思い皆が行うことで、常なる識となるのだろう?
だから、皆を基準にしてある思いというもので、宇宙の法則、
所謂、エネルギーの法則というのは、念頭にはないと思われる。
だから、人間という自己中的見方で識となっている。
矛盾だらけで、それを解決するために、神というものを作り上げて答えを導いている。
「神というものを作り上げて」と便宜上語るが、‘井の中の蛙大海を知らず’で、たまたま見当もつかないほど
優れたものに出遭い、見て知った時、どう考えてよいのか、とにかくわからない。
それが優れたものなのかどうなのかということさへ判断ができない状態なのだが、
感覚的に太刀打ちできない恐怖を覚える。その太刀打ちできないという思い、恐怖が優劣を分けて、
対するものが桁違いの優であると直感するのである。して神だと畏怖するのである。
神が善として認識しているなら、畏怖するはずなどないものを、
定かに、神という存在を知らないために畏怖の念を持つものである。
単に、出遭ったものが人の常識に無かったために、超と崇めたものである。
確かに、人にできないという常識を超えた様を見せられたのであれば、
ただただひれ伏すだけである。
また、
山の高きに神を見、海の深さに神を思うのである。
想像だにしない自然の美しさに神を見出すのである。
しかしながら、
神の存在というのは、誰一人証明することはできず、証明できないために、
また、否定もできない存在となっているのである。
超自然的というが、自然を超えるということは法則を超えるということであり、
法則を超えてしまったのでは、そもそも存在とならないものである。だから、
超という現象は、自然界にはない。人が便宜上付けた言葉であり、
自然をよく知らないだけなのである。
人の無知からくる不思議である。

神社は、神の祠である。神として祭った小さい社。
そこには、太くて長い綱、しめ縄(注連縄)が祭られてある。
なぜ、太くて長い綱なのか。縄は縒ってつくられている。
まるで大蛇が絡み合っているかのように・・・。
それはまた、生命の遺伝子の‘撚り’にも似る。

人が神として崇めるには、頭脳明晰であることは言うまでも無い。
感情の如何は有情にしても、薄情でもある。
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時節の違い

2016-03-14 | Weblog
私達は少し、いや、
少しどころか大いに勘違いをしているようだ。
子供の頃、学校で学んできた歴史などは、
だいぶ修正が為されたりしている。体育などもそうであるが、
研究が進んでいくうえで、過去の学習が間違っていたというのは、
往々にしてある。
宗教というものに関しても例外ではない。
大いに勘違いして信じ込んでいるものである。
神社仏閣一つをとっても、本当は恐ろしくあるものを、
守り神として信じている。
私達が神と崇めているものは、
私達が思うような慈愛に満ちたものというのではない。
単に、技術、あるいは精神というものの在り方の進歩、進化という範疇にあるだけで、
私達と同様、煩悩具足にして葛藤の中にいるものである。
ただ人に善し悪しがあるように、また、神々にもそのような様があるのである。
いまだ、彼らにコントロールされてあるための痕跡の場である。
地球全土に、それらは点在してあるものである。
まじないの標として・。

未だ来ぬものと、過ぎ去りしものと、途上途中にあるものと・。
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