つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ふしめ

2010-12-31 | Weblog
人が時間を数え始めてからの一月一日。
新旧の移り変わりなどあやふやなものである。
季節の移り変わりを重んじて、春を祭り、夏を祭り、秋を祭り、冬を祭る。
それぞれの始まりと終わりを尊び、あげ奉るものである。ただひれ伏して
感謝の念を、いずれこの身も大気に捧げ還りますことを。
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大雑把に

2010-12-30 | Weblog
死が人の経験とならないために、
人は死が何なのかわからず、わからないがために恐怖となっている。そのために、
死が人の恐怖の源となって、総ての恐怖は死からきている。
死を理解できたなら、恐怖も克服できる。

宇宙はエネルギーである。その動きは円となって
激しく回転し、渦を巻きゼロの容の空間を作る。
ちょうど台風の目のような静かな空間であるが、異空間である。
プラスも無くマイナスも無いつりあった状態で、虚ろな世界であるがとても澄んでいる。
何も無いというのはこういう想いなのだろうとする間である。

エネルギーは回転の変化によるさまざまに対応して、さまざまを創る。
右があれば左を、上があれば下をと、円いために相対して作られる。
どちらがというものではないが、方向性があるために決まってしまう。
それは狂いの無いものであるために、絶対となっている。そのために、
夜が作られ昼が作られ、その変化に女がつくられ男が作られる。
性質の別が作られる。

回る道理で創られているために、円くて終わりの無いものとなっていく。
常に元に戻る運動となっているためにゼロとなり、浄化となっている。
浄化が善となって作られている。その
道理に善悪はない。そのため絶対善となっている。だから恐怖も無い。

道理を知って、道理に沿うよう善行為に勉めて生きていくことである。
人生はすべて浄化の行為となっていて、誤った浄化の行為とならないよう生きていくことである。
人は死んでも、生命はなくなるものでなく、命は生きているものであるために、決して死が恐怖となるものではない。
誤った思いが苦しみをつくり、誤った浄化の行為となっていき、その縁によって苦しみの形相となった他人の死を見て、
死が恐怖となって記憶されてしまう。
正しく生きていけば、死が恐怖となることはないものである。
エネルギーに老化はなく、永遠である。
人は死ねば、その気はどんどん若返り、美しい男女となってあの世で生きていく。
性交を繰り返し、やがて亦この世の人になる。
この世の人になれば、子供の動きとなって無知として生きる。
また悩める人となり、人生浄化のために生きるが・・・。正しい浄化として生き、生じることの無いように覚るべきである。
無知なる者に生死は苦しみに他ならないのである。
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終に向かって

2010-12-29 | Weblog
瞬く間という感じで時が過ぎていく。
一時間が、一日が、一週間が、一月が、一年が、
年老いたからということでもなく、早いと感じる。日常の
時の流れは不変であるのにもかかわらず。

五感をこえて六感に覚える。生物の未知なる感覚は、
未知なる気を察する。
確かに時は変化をしていて、ある計らいの力の一点に吸い込まれるように、
その変化は微妙にして加速している。
が、その変化を機械的に捉えることはできない。
日常的に不変を示すだけである。未知なる感覚だけが捉えている。

消えうせるローソクの灯りが、一瞬
勢いを増して終わるように、
何かの終焉には、時は急ぎ足になるものだ。

高速で走る車の中にいれば、止まっているのと同じ感覚となってしまう。
それは、同化しているためである。
同化していれば、その速さに気づかなくなるものだ。

老いも若きも、時の流れの速さを同時に感じるのは、異常事態である。
同化していても、六感で受けながら、危機としては捉えられないでいる。
形あるものは壊れるものである。
時の加速は、それを示す。
人のドラマは閉じられる時期に来ていることを。





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気の狂い

2010-12-27 | Weblog
この世限りなら
人生好き勝手、死んでしまえばなにもなし、何の報いとなることも無い。
赴くままに生きて幸せではないか。
それなのに、
人生、努力
苦しい思いをして正義を生きるのはなぜ?
先人たちが口をそろえて言うには、悪を為すなということ。それはなぜ?

死というものをあまりよく知らない。
命とは何か、肉体とは何か、それに宿るものがあるのか、
私とは何か、と、私は私自身をよく知らない。それはなぜか?

何も知らない事だらけで生きている。

悪いものを食べて、どうなりますか?その道理に答えはある。
単純に、総ての理が見えるはずである。
今日が終わってどうなりますか?時計が円く作られているのを見て、
はっっと
気がつく!

悪を為す狂気をそれでも持てますか?無知というものは恐ろしい。
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目が点

2010-12-26 | Weblog
非凡であれ、平凡であれ
一人の老いていく人には違いない。
会社のお偉いさんといっても、いたらない面はたくさんある。
むしろ、そんな人の方が徳に欠けることが多くある。
一途に歩み続けた努力の賜物はある反面、傲慢を生み、
情けの無さを植えつけてしまう。私がこうだからと
視野の狭い見方をする。世間知らずというものである。
生き物には、ある程度の常識というのはあるかもしれないが、その範囲ばかりとは限らず生きているものもいるのである。

素の品がいまだ出来上がらずに、格がついていき粗な質があらわれてくる。
磨かれること無く取り残された性は、一見成功して幸福そうだが、荒れた野のように荒涼たるものである。
地位、名誉、金に必ずしも人格は伴わない。
真の強さは無敗にはなく、七転び八起きにある。志にもかかわらず幾度と無く打ちひしがれ、しかし、
這い上がってくるものに敗北は無い。驕りも消える。
失敗を知らずして勝利を得ることは無い。省みてよく改めて女神は微笑む。優しさが与えられる。
人が憂いて優しいと書き、優れるとも読む。総ていおいて優しいことは勝ることである。
それを優勝とあてて、人生優勝のために、心を配り、憂いて、人は優れる。そう信じる。
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優勝

2010-12-25 | Weblog
悲しい思いをして辛さがわかるものである。
苦しい思いをして痛みがわかるものである
みんな切ない思いをして優しさを知るものである。

人の一生、好きだの嫌いだの、美味いの不味いのといって過ぎていく。
痛いの痛くないのと、体の調子を感じて生きていく。若いうちは、
怖いもの知らずで、無謀にも自らを損ねて生きていく。
美しくありたいといいながらタバコを吸い、健康でありたいといいながら不摂生、
心の安易なものに取り付いて生きる。言うは易し、行うは難しで生きていく。
好き勝手使い、やがて生身の体は壊れて、後の祭りに他人に助けを求めて生きる。
杜撰さを嘆くことも無く。五体満足の計らいもむなしい。人というのは愚かな者だ。

白髪になりながら、それでも円くなり、優しさに勝るものは無いと知り得たなら、
顔に刻まれた深い皺もたおやかなものである。
終わりよければすべてよしと言うように、有終の美、敢て優しさに愁いてとして、優愁の美
に生きる。ガラス細工のようなその優しさを、だから大事に手に持って。

切ない、遣る瀬無いも心の肥やしとして、無駄にあるものではない。
優愛の義を知らなければならないものとして与えられた悲と苦とみて。
来世(いつか)は足るを知る。
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他力

2010-12-23 | Weblog
生かされて生きている。人それぞれの性に添い。
知らなければならないことをあてがわれ。
粗末にするものは命について、驕れるものは愛について、と、
生かされて生きている。
不足なことを補うための寿命、償いにも似て受けて、
あなたは、私は、いつまで生かされ生きられる?
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信心

2010-12-22 | Weblog
心は常に変化して新旧をさまたげない。今の心、
その一念を貫き通すのは無理がある。無理を通せば無理矢理となり、
念いの現象となってくる。神が現れたとなって、その現象に振り回されていく。
念じてはならない。
空想の世界に真実は無い。

信じる。一心に信じる。信じるものは救われるというように、
自分を信じ、神仏を信じる。信じる者は現象に振り回されることは無い。
常に真実を見るために。

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過ぎるだけ

2010-12-21 | Weblog
冬の朝は
何かと辛い。
暗闇が不安をかきたてる。
今日一日が無事に過ぎますように、
ただ、虚空に按ずる。
昨日も明日もまた次の日も、
そうして、一日が瞬く。
若さを奪われながら、時が瞬く。
うろたえながら
一年が過ぎた。思い出となることも無く。
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般若心経の功徳

2010-12-20 | Weblog
般若心経の功徳は、無を正しく解して得られていく。
無を心の自由でもって、臨機応変に対処(顛倒)していくことで
難解と思われていることの鍵があけられていく。
無は否定の無ではなく、肯定のための無として捉え、
なくなら無いものとしての無、なくなら無いものは無いとしての無としていくことである。
心のありかたである。
想いの世界に悪なるものを抱かないこと、気にしないことである。
実に簡単なことで悟りが開かれていくものとなっている。そのために、般若(大衆)のためとしての心の経典となっている。
心経は、心が心経の文字にさまたがられるものではなく、さまたげられないようにと語られ、
また、序文の開経偈には、くれぐれもよく解してくださるよう心配りがされている。
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