つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

カッコウいいは、善い行為にある

2007-02-28 | Weblog
理の義、(ことわりのいみ)義理。
是が非でも、いいか悪いかにかかわらず、そうしなければならないとする
筋の道。そうする事がいいとする、哀しいかな、うれしいかな、性を持つ。
道の理をよく知って義を果たす。
「義をみてせざるは勇無きなり」
善いことができる人は実に格好いい。
カッコウいいことには垢がない。
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順に死すものであるために、そのときから・・・

2007-02-26 | Weblog
「萱草でもとらえ方を誤ると
手のひらを切るように、修行者の行も誤って行うと
地獄にひきずりおろす」・・と仏は言う。
悪に身を結べば何よりも自身が傷つく。
他を惑わすものは、ほかならぬ自分を害う。
遅かれ早かれ人は順に死すものであるために、
他を害するものは、その間際になって戦く。
道理であるために、これは絶対である。
心に悪を抱くものは、死の順番が来る頃から、
長い長い苦しみが始まる。逃れられる事がない。(ーー;)
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死後の事

2007-02-25 | Weblog
仏は現世の救いを説いているのではなく、
死後の救いを説いている。
人はこの世に於いて救われる事は無いと
仏は知っている。
悟りを開いた者は、極めて、神通力が備わる。
判断できない事がなくなるために、予めなるものを見ることができる。
その力によって未来世を見た。
その未来世は法によって起こるものであるために、避ける事ができない。
誰一人生き残るものは無く、100%滅ぶものとなっている。

人は肉体を持って生きているが、その肉体を司る根本は、
‘思い’というエネルギーである。生命エネルギーである。
エネルギーは法であり、無くなる事がない。無くなる事がないために死が無く、
生命エネルギーとして永遠に生きていく。その思いのエネルギーが幸せに生きていくための方法が説かれているのが経である。
様々な事柄を述べて、様々に対処した果を教えて、正しく歩んだものと、誤って歩んだものと違いを教え、どう歩み進むべきかを訓えている。
生命そのものの救いを説いたものが経である。いまある
肉体という物の救いなどではない。
仏の訓えは、死後の世界の救いである。
永遠の生命の生きていく世界であるために、地獄とならないようにと。


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三つ巴

2007-02-24 | Weblog
陰と陽、二つの対極でつくられているように見えて、
そのどちらでもあり、どちらでもないとする
曖昧なものが関与している。
陰陽の巴は曖昧を持って三つ巴となっている。
目に見えて相反、相対しているが
曖昧を持って成り立っている。真に
三つ巴として太極である。
真の相(すがた)である。
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感謝を表す

2007-02-23 | Weblog
日頃、人に善くされているなら、善くされた分
感謝をして、自分もまた善いことをしてあげること。
善い思いによく反応して、好い思いを返すこと。
それも、出来るだけ素早く。

回る性質が法であるために、‘返る’ものとなっているから、よく
法に添って、法と摩擦とならないようによく反応を示す事である。
善いものには善く反応を示す事によって、
良い縁が廻る。終には善い処にたどり着く。
「禍福は糾える縄の如し」ということにはならない。
福のみの処にたどり着く。
よく道理を見て、よく道理を実践したものだけがたどり着く処。
極めた処。実に単純に、善いことに善く反応していくだけであるが、
これが真に難しい。
幼子の青く澄んだ瞳の頃には、実に簡単な事なのだが・・・。(^.^)
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慈悲をもつために

2007-02-22 | Weblog
肉食獣、彼らに地獄は存在しない。
なぜなら、彼らは生きていく本能の性質でのみで他を食しているだけだから。
憎しみとか恨みとかを持たなく、恐怖となる悪を抱いていないからである。
傍から見ればむごいものであるが、彼らにその思いは無い。
無いが故に自問自答する事がなく、悩む事がない。
悩む事がないために苦しむ事が無く悪が無い。
汚いとか綺麗とかの感情は無く、ただ生きていこうとする性質だけで食す。
慈悲の慈はあっても悲は無い。そのために、
慈悲となることがなく、その種の域をでない。永遠に種を繰り返す。
獣としての哀しい性を繰り返す。

世界をつくる法(ダルマ)に本来、善悪は無く、恐怖も無い。
善悪は人の思いで創られる。恐怖もまた同じ。
その思いを法にそって正していけば、
人もまた地獄を創ることはない。
慈があり、悲があるのが人である。慈悲があるために方便をもって
人は輪廻を絶つことができる。
輪廻はただ苦しみである。
輪廻は無知からおこる。無知は智慧でのみ滅せられる。


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思いの方便で救われる

2007-02-21 | Weblog
人は死んでも自分の世界は変わらない。
死の世界は、人の記憶の現象である。
記憶が現象となるというのは、ちょうど夢を見るのと同じもの。
夢が記憶の現象であるために、夢の世界は今の世界と何も変わらない。
見たこともない処とか、行ったこともない処が現れるのは、
悠久の昔より続いている生命の経験の記憶。
或いは、鳥でもないのに飛んでいる様を見るとか、
とても好きな異性と抱き合っているとか、現実に無い様を見るのは、
その時のとても強い思いに依るもので、
強く気にかけたための現れである。
記憶の現象であるために、すべて過去の経験である。思いである。
今と何も変わりなく、色も形も香りも味も触れることもできる。
現実の世界と少しも変わらない。
人が夢を見るときは、死んだ状態と同じ形である。
其の眠っている姿のときに見ている現象が夢、あの世も
同じ現象でつくられている。

あの世は夢と同じ現象の世界。記憶の世界。
悪を記憶としてしまうと、悪の現象の世界がつくられていく。
悪の現象としてつくられてしまうという事は、地獄となるということである。
悪を記憶としなければ、悪が存在とならず
地獄がつくられる事はない。想いの世界から悪を一切遠ざけて、
なくならないものは無いと顛倒して思うことである。
それが救われていく思いの方便である。
地獄がなくなるとなれば、極楽である。
すべてが清浄の世界となっていく。それが、
「遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」と説いているのである。
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自分は善い人か?

2007-02-20 | Weblog
覚ろうとする心がなければ
なにも善く変化はしない。
菩提心、ここから変化は始まる。不思議にも
善い人に出会い、善いことに出会う。
よく前が見えて、予め事の成り行きを読める。
悪い事は避けられて禍となることが無い。
義が見えて迷う事がない。
覚ろうとする心からそれらに出逢い始める。

先ず、自分の心に聞いてみる。
自分は善い人か?と。
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善いことをしていれば

2007-02-16 | Weblog
もし、善い事の何か一つでも施す事ができたなら、
そのおかげで一日でも永らえることができるものがいる。
それも喜んで。
終わりがよければすべてが好い。
顧みて、たとい途中が好ましからずとも、
うれし涙にふるえて一つの人生を絶えるなら、
無駄ではない一生である。
かの世でも、また来世でも
しあわせの絆はつくられた。
まかれた種は好い種で、やがて好い芽がでる。善い処に生えて
善く育ち、善い実がなって善い種ができ、大気に吹かれて
どこか汚れたところに蒔かれたとしても、
穢れることなく善く育ち、綺麗な花が咲く。
それも、目を奪われるほど大輪の美しい花。

悲しい事にあっても、苦しいことにあっても、
善いことをしていれば、希望は芽生える。けっして失う事はなく、
明らかなものとなって現れてくる。しかも、
自分の手で叶えられるようになっている。
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善は急げ

2007-02-15 | Weblog
善は急げ。
繰り返し繰り返し善いことをしていけば、
不思議な事が起こる。
知らない事が自然と見えてきて、
判断できない事がなくなっていく。
何事にも
思いを相談することなく、即断できる。
そして、その判断は誤る事がない。
好いほうへ好いほうへと事は動いていく。
迷いが無く、分からない事が無く、
思議の不(いらない)ものとなっていくために、苦が無い。
善いことを何度も何度も繰り返し為していく事で、
善いことが興り始める。不思議な事だけとなる。
苦が無いために、幸せだけとなる。
だから、善は急げ。躊躇してはいけない。
幸せに成るのに足踏みはいらない。
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