つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

・・・身のゆくえ

2009-05-31 | Weblog
・・・まばゆいばかりの光の束は、
放射状にこの身を包み、地も無く、天も無く、恐怖もなく。
白い靄のようでなにもみあたらない。やがて身はゆるやかに
どこかに進み始めた。光の差し込む一点に向かっているように感じられる。
にわかに早さが加わり、白く輝きが増し、まったく何も見えなくなったとき、
景色が現れた。それは見たことのある風景だった。
今と少しも変わらない風景だが、時間が色あせていると
なぜか認識される。
とても広い草原で、たくさんの花が咲いていた。この身は風のように
そして心地よく、広い草原の端から端まで自由きままに、行き来している。
とてもこころよい。とそのとき、眼下に人がいるのに気がついた。
おおっ、あれは初恋の人。この身はすぐさま彼女のもとへ。そして
手をにぎり、ハリーポッタの映画のように空を飛んだ。
彼女は微笑んでいた。と、その瞬間、景色は変わった・・・
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この身の終わりに

2009-05-29 | Weblog
いよいよこの身が終わる時、
立ち向かえるか、怖気付くか、
広大な宇宙のごとき暗夜の壁がこの身に迫る。
その時、まばゆいばかりの白さとなって、
一点の光が身を包む。
瞬時に放射状になった光の矢に覆われた身は、
地も無く天も無く恐怖も無く、白い靄の空間でもない空間にいるように感じられて
どことなく移動している。徐々に速さが加わわるのを感じているが、
ただまばゆいばかりの白い空間が流れるように感じる。
心地よさを覚えながら、一点の光が見て取れる。
嗚呼、そうだったのかと悟ったのも束の間に、身は
光に包まれた。記憶は現象となって風景が現れた・・・


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自然淘汰

2009-05-27 | Weblog
人というのは哀しいものだ!

高層ビルから見下ろす町並みは、コンクリートで塗りつぶされて作られていて、
ざわめいて熱を帯びているように見えた。丸い地平線の果てまで、
ぎっしりと固められていて、
硬く、とけこみがたい風景。
何もかもが不自然に見える。何を恐れてのことだか、
ただ恐怖から
我が身を守るために、鎧に身を固めながら生きている
一種の小さな生命体たち。哀しくも、さ迷いうろたえる泡沫のあつまりながら、
そこから産み出されるものは、この地球という完成された生命体を蝕んでいるようだ。細菌のように増殖し、青く澄んだ空を汚し、清らかな水を汚し、
自分たちのためだけの創造と破壊を繰り返し、自然を汚して生きる不完全な生命、人類。人類は悪のエネルギーとなってしまったために、
この地球は必然にそれを排除しようとする。
至極当然の行為で、自然の法則の行為である。浄化の法則であるために。
今度生まれてくるときは・・・。


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2009-05-26 | Weblog
悪にいそしまず、悪を刈り取ることを刹という。
善い行いをして、よく哀れみ、我が身に置き換えて
思案し、慈愛注ぎ、できる限り多く善いことに心がけて
人生すごすなら、その身に観世音菩薩が現れて、語りかけるだろう。
でも、
刹の無いところには、けっして現れることは無い。
それが
「無刹不現身」。刹が縁となって、啓示となるが、
それを拒むのが羅刹である。
外からも、自のなかにもある無知なる行為。
刹を覆い隠す行為であるために羅刹としている。
音写とされているが、意味を持ってその文字を当てている。
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ばかげたことと・・

2009-05-25 | Weblog
この世の身を色身という。ただし悟った身ではない
衆生の身である。
この色身は法によって確実に滅ぼされる。一世紀かからないという早さである。
地獄の黙示録であり、末法説である。
現、およそ67億の人類が80億ほどになるころ、人の歴史は一旦閉じられる。
悪のエネルギーと化した人類は、浄化の法によって、一掃されると予言する。
法の予言は絶対であるために、避けることはできない。
もはやこの世の身は救われることは無い。
身は滅ぶ。
生命はエネルギーである。エネルギーの法則によって作られたもので、
このエネルギーの法則が無くなることが無いために、
生命も無くなることが無い。色身はなくなっても
生命エネルギーは無くならないために、
生命は記憶のエネルギー、つまり、意識の現象の世界となって生きている。
その意識の現象の世界のための救いを説いているのが、経であり、
聖書なのだが・・・。この世の身はもう、間に合わないものとなってしまった。

過った人類の歴史は白紙となるが、やがて、
人類は再び地球の人として甦る。それは、宇宙的時間の長さを要するが、
死後の世界には時間がないために、生命は時間を感じることが無い。
浄化されたエネルギーが、
誤った進化をくりかえさないようにと、生命が
色身をもって今、浄化の法を修行するのである。
生命は連綿だから。
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対岸の火事のように

2009-05-24 | Weblog
近年、自然災害が多発している。
雨が降れば洪水となり、地はうねり、風は天に巻き上げ、火は野山を焼き尽くす。
暴れる威力は強大となって、時が経つごとに頻繁となる。
南では異常に暑く、北では季節外れの雪が降る。
植物は時節にあわず花が咲き、動物は集団発生し集団自決し、
居場所を失い狂い始める。
こんなところにとか、こんなところでとか、思いの遭わないことが起こりはじめて、
経験しなかった病がしのびより、こころ病むことしきり、
自分だけはと、そうでないふりをして自分を囲いこみ、
わが身の執着の浅ましさ、だれかれなく起こり、秩序乱れ初めて、
崩壊の傷、瞬く間に広がる。
世も末と嘆くことばかり。
人は自分が正しいと生きている。間違っているのは自分ではないとして生きている。そのために、他を悪として見、悪が絶対となって意識となり、
忘れられないものとなって、悪からはなれられない世界となっている。
そのための浄化となって、誤った浄化の行為となって、争いとなっていく。
この悪のエネルギーが滅亡となっている。
人類の誤った行為のエネルギーが、天災を生み人災を生み
破滅へと導いている。たとえて、
今日もおいしいお肉を食べようと思う自分がいるから、
牛を殺し、豚を殺し、鳥を殺し、魚を獲って商売が成り立つ。
私はそんな残酷なことはできない、していないと思うだろうが、買って食す自分が
そもそもの原因であることを、知っていて実は知らない。
人というのはそういうものだ。私は悪ではないと。

自分を省みて、自分をよく意識して、自分の浄化としていけば、
法に沿い、生命の浄化となって、よく道理に守られていくのだが・・。

人は、ただまっしぐら滅亡へと急速に進んでいるようだ。
あと百年満たないと、その頻度は兆しを示しはじめている。


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・・・お経から

2009-05-23 | Weblog
いちいち考えはかることがいらないとして不思議として、
智慧の身についた人生は、不思議な力となり、
病気も事故からも避けられ、災いの無い人生となっていく。
法に適った人生となるためである。
法は回る動きである。繰り返しの動きである。だから始まりも終わりも無いとなって、永遠の変わらぬ動きとなっている。ゼロからゼロにかえるものとなっているために、すべて浄化されていく動きとなっている。
エネルギーの性質で成り立っている。エネルギーの法則である。
これを「是」として表し、「是諸法」として世は創られている。
「是諸法」を正しく説いているのがお経である。
簡単明瞭な「般若心経」である。
実に人々の助けとなるものであるのだが・・・

文字はそれぞれ意味を持って創られている。
横文字を経て文字に訳す時に、発音が似ているからとして音写で文字をあてがうのは、間違いとなる。
意味があって適当と思われる文字で正しく訳されているのが経文であるが、
経て文字である漢文から、さらに訳される時に、間違って訳されているために、
何がなんだか理解に苦しむものとなってしまっているのがお経と呼ばれるものである。
音写として理解してしまったために、意味不明となり、意味不明なのは悟った人のことばであるから、
悟った人にしかわからない言葉として、真言であるとなり、
正しく訳されなくなってしまった。
ただの読経のためのというものになっている。

経文は啓示で語られたものである。
啓示とは、あの世からの言葉である。
もちろん啓示で無い経文もたくさんある。
それを見分けるのが「如是我聞」である。
実際に啓示で語られた経文には必ずこの文字が入る。
「般若心経」は代表する経である。そのため序文がつけられていて、
これが「如是我聞」にあたる。「開経偈」という序文である。

あの世からの言葉であるために、人は
なかなか理解しがたく間違って解釈してしまった。
だから、経文を読んでも何がなんだかさっぱりわからないのが現状ではないだろうか。
人々に簡単にわかりやすくと、できるだけ短い文章で説いて聞かせたのが
「般若心経」なのだが、それすら間違って訳されたために、
ちんぷんかんぷんなものとなって、凡人にはさらにわからないものとなっている。
「啓示」は、間違って解釈しないようにと危惧して、「序文」をつけて
説いているのだが、その序文すらも正しく訳されなかった。
けっして文字に惑わされないようにと願って語ったにもかかわらず・・・。

不思議とされる力のことも、世を作っている現象も、これからのことも、
経文には書かれている。
お釈迦様の語ったものではなく、釈迦の修行を積んで
悟りを開いた菩薩と呼ばれた人たちの語りで、その「世界」は、という啓示である。
そこからの語りかけである。
彼らの予言は法則の予言そのものである。だから、狂いの無い予言で、
避けることのできない予言である。・・・






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・・・方便

2009-05-22 | Weblog
・・・災いから瞬時に避けられるようになるために、不思議なものとなる。
不思議とは、思議のいらない事。あれこれ思い巡らすことのいらない事、
つまり、考え迷う必要がないこととして不思議としている。
あらゆる物事に対して考えることなく、即断できるものとなるために、
不思議となる。
この智慧の判断が法則の判断であるために、誤ること無く常に
正しい判断となる。智慧を身につけることが方便である。


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・・・つづき

2009-05-21 | Weblog
・・・円ることによって変化が生まれ、
変化に対応したエネルギーが作られて、昼と夜の区別となり、
男と女をつくり、相対する区別となっていった。
陽は男で光となり、創造と破壊を、陰は女となって影となり、妨げと癒し。
エネルギーの自由によるものである。その自由が性質である。
法の性質が道理で、それにそれないように戒め守るのが道徳となる。
八つの道によって守られる。その道は、本人の
智慧の身に付いた経験によって叶えられていく。
智慧は自然より学ぶ正しい経験によって得られる。本人の経験である。
智慧の身に付いた経験の判断は、法則の判断となるもので、
すべての物事に即断できるものとなる。
考え悩み迷う必要がなくなる。
瞬時に物事に対応できるものとなるために、突然のよからぬ出来事にも
一瞬に避けることができるようになる。・・・





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・・・理由

2009-05-20 | Weblog
・・・人の行為が間違った行為であれば、
間違った浄化となって、善悪転倒の行為の人生となる。
すべてを司る法則は浄化の法となっているために、間違った人生は、
法にそぐわないものとなって、これ以上肉体を必要としなくなる。
そのために、病にかかったり、不慮の事故にあったりして人生を閉じることとなる。人の常識というのは何の意味も持たない。
生命が、この肉体を持っていても、これ以上正しい浄化がされないと判断するために起こる現象である。
生命は完全に完成された生命となっていないために、肉体を持って
さ迷う。あの人生この人生と肉体を変えて、完成された生命となるために。
さまざまな人生に転生してくることは、苦しみに他ならない。故に、
生命自体が完成されたものとなればもう動くことは必要無くなっていく。
それは、変化の無い永遠の世界、生命の自由な世界に安住するからで、
涅槃といわれる生命の真の目的の世界である。
生命はエネルギーである。エネルギーの法則で作られたものであるために、
この法則を悟ることによって、正しい浄化の行為がなんであるのかがわかってくる。
その法則を知る方法が智慧である。自然より学んだその人の経験が智慧となっていく。知識とはちがうものである。
自然は法則である。エネルギーの法則であり、円る法則である。・・・

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