つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無所有

2010-10-31 | Weblog
私のものという所有を持たなければ楽である。この世限りのものに執着したところで
得られるものは何も無い。私というものでさえ
自由になるところなど何一つ無いのだから。まして、他に意のままにできるものなどありもしない。
そんな単純な事にさえ惑わされて人は生きている。
生きるための一瞬を取り入れたら、後は捨て去って、手にも足にも背にも頭にも
ものを抱えて歩まない。
何もないことは楽である。この意味を知るなら孤独と退屈などありはしない。
愚直なだけに、時間がないことにあせってしまうだけである。
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円くなる

2010-10-30 | Weblog
光もまっすぐに進むことは無く曲線を描いて進む。
生物も直線に進むことは無く円を描く。無意識にたどるその円の大きさが行動範囲、いわゆるその生物のテリトリーである。
無意識に、人の行動範囲は狭いものである。平らであるという意識を持ってこそ直線的に進んでいるだけで、
無意識に直線的行動はできないものとなっている。それは、創造をつかさどる法則が円となっているからである。

胸を張り、手を伸ばし、目を見据えて手を握り合うよりも、
腰を曲げ、腕を曲げ、深々と頭を下げてこそ誠意が伝わっていき、事がうまく図られていくものだ。

道理は、曲にあり、直にして事を仕損じてしまう。一直線に突っ走ればつまずくものである。
拒むものにあたり、それに教えられ、よろけながらも回り道して進んでいくと目的にたどり着く。
曲がりくねりながら進んでいくことは道理に合うことである。いそがばまわれと・・・
年老いて、人は円くなるというが
それは理にかなうことである。どうか円くなりますように・・・それは穏やかであること。
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幾度と読んで

2010-10-29 | Weblog
百遍読み返して
初めて意味を解する。
云わんとしていることは
そうたやすく伝わらない。
求めるものだけに道は与えられていくものだ。
今まで何気に通り過ぎていた言葉は、
答えを出していることにきがつかない。
時を過ぎて理解する。そのとき目からうろこのように思うだろう。じきに
もとめるものに雲は離れる。
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相対して

2010-10-27 | Weblog
山が高ければ谷も深い。
夏、酷暑であれば冬もまた極めて寒い。
春が暑さに向かうように、秋は寒さに向かう。
始まりと終わりの時の移り変わりは、同じようなしぐさながら、
すべて均等を保つように計らう。相対しての侘び寂を持ち合わせる。
天気に左右されて人はうろたえて。
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ため息

2010-10-25 | Weblog
例外なく人は誰でも死ぬ。
生前、大それた悪事をすることなく、生きていくうえでの穢れはあったにせよ、
それらは悔い改めるこころを持ち、懐かしく過ぎ去りし日々を眺められたならば、そこそこの人生として、
ただ、死に行く身をわずかに案じるだけだろう。いつかは誰でも死ぬんだからというふうにして。
悪事というのは先行きの不安を恐怖に変えて、
善事というのは安心に変えて、迫りくる死に添う。
知らないというのは怖いもの知らず、おそろしいことだ。
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時勢

2010-10-23 | Weblog
社会全体が歪んできている。私は善人と思っている人でも、時と場合によっては悪事をなすものである。
なぜあの人が?と驚くことも多くなった。
自然災害も多大になり、思いもよらないことが日を追うごとに多くなる。
なにやら物が壊れ始めるときは、いろいろきしみだし、歪みはじけるものだ。

自然は美しいものである。それは絶えず浄化されている姿である。
古く朽ち果てるものは乱雑を経て整然となっていく。
洗われているときはかきみだされて、見えなくなるまで粉々になるために、
少しの間だ整うが、なくなってしまったわけではない。分散された力は思うように発揮されないように、
またより集まって姿を現してくる。繰り返して成り立っている。
建設と破壊を繰り返して世の中は容となっている。

この星の全体を滅ぼすだけの力を人は持っている。
それが行き着くところの始まりでもある。
どんなかたちであれ、法則は浄化の法則である。
美しい姿で存在するのが道理となっている。
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生きて学ぶ

2010-10-21 | Weblog
死ぬために生まれてくる。それは、
死後の世界が生命の真実の世界だからである。
生命の世界は意識の現象の世界である。
その世界が幸せな世界となるために、肉体を持って経験を積む。
肉体経験が誤った経験となれば、生命世界が誤った世界となり、苦しむ世界、つまり地獄となる。
生命には死がない。だから、肉体を持って何度も生まれ変わる。宿った肉体が朽ち果てたとき、生前の記憶が現象となってあの世となっていく。
あの世は生前の記憶の現象世界であるために、記憶のいかんによって世界が作られていく。
そのために、この世と少しも変わることの無い世界となっている。自分がこの世に生まれてきたときに、この世だ
などと思うことも無く生まれてきたように、あの世においても同じである。
なぜこのような環境にと思うこともわからない。
すべては縁によって存在を受ける。生前のおろかな行為によっておろかな縁となる。
生まれ生きていく過程で、生命世界の住処を決められる機会が与えられている。
おろかな行為の宿命で受けた人生でも、運命によって変えられるものとなっているが、およそ連なる生命のあり方を知らないために、
何度も苦しみの生まれ変わりを繰り返す。
先人に学び、彼らは言う。世界を作っている法則に善悪は無い。そのために、絶対善の世界となっている。
法則は回る運動である。すべてが浄化されていくものとなっている。浄化された姿が自然である。だから、自然は美しい。
自ら然りである。
法に沿い悪をなさないことである。悪をなさないことが法に適い、道理によく守られていくものとなっている。
生命の求める幸せな世界がつくられていく。輪廻も無く永遠な世界となっていく。
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2010-10-19 | Weblog
健康であれば健康に死ねる。
病に犯されてしまうと苦しみながら死んでしまう。
精神も肉体も健康であることは、思い煩うことが無く死んでいけるものである。
心配することも無く、不安になることがなく、未練なく死を受けるものである。
心身ともに健康であることは、終を感じることも無い。
健康に死ねるために、日々人生、気をつけるのである。
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ゼロとい有

2010-10-18 | Weblog
自然というのは計り知れないものだ。
‘突然’という振りで驚愕な事態を現す。いや、
それなりの兆候はあったのだが、人の本能の鈍りだろうか感じ取ることができない。
安全という意識をいったん持ってしまうと、常識として同化してしまうために、
無防備を恐怖と思わなくなる。明日も普通どうりに?・・・
人の科学では地震の予知すらわからない。自然は単純にしてはなはだ複雑だ。
なぞは、自分の心を見るように「わからない」と結論付ける。
わかったようで、どこまでいってもわからないこころの中、世の中。
まるでうそのように、常識化した世界が無くなるときもある。
ゼロから始まりゼロに帰す。その法則の下生きている存在である。
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すべて罪びと

2010-10-17 | Weblog
この世の人は誰彼無く罪な存在。どんなに学識豊かでも、
家柄がよくても、罪作りな存在に変わりは無い。
動物愛護を唱えても、家畜なる肉を食べ、海に魚を追い、野に鳥や獣を追い、草木を摘み、商いをして
今一度の命を蓄える。総じて人は悲しい性の罪悪人。自分は悪くないと自分は棚に上げて悪を断じるけれど、求める自分があるから
あたえようとする者があらわれ、商いが成り立つ。人は、命の大切さを唱えても、他の命を奪い生きる罪ある性である。
血筋がよいからとて他を批判しても同じ穴の狢、この世の人に変わりなく、批判するに値しない人であるものを知る由も無い恥知らず。
この世の人は誰も彼も罪作り。
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