つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

根本、自由

2014-11-30 | Weblog
エネルギーの法則、その自由(性質)によって生まれた生命である。
そのために、生命も自由である。だから、どう生きるかはその生命の自由な性質による。
たまたまにして触れるものの刺激を受けて反応した行為、良いのか悪いのかは生きていくという存在にしての
反応で知る。
本能において、危険と感じられたものにはしばし距離を置き、
警戒の姿勢をとり、去るか戦うかを瞬時判断する。
自分の存在にしての本能でもってそれが図られるのである。そのために、
生きていくのが善で、そうでないことが悪となって判断されていく。
すべての生命がそうであると解されて、そこに、悲しみと慈しみとが見て取れて、
優劣的能力、或は、生きていくという本能的善悪が生じて反応となる。
優劣的能力というのは、本能的善悪とよく絡んで磨かれていく。
たまたまにして触れている流れのものが良いのか悪いのかわからないうちに、
飲み込まれて、生きるという自由を奪はれても、エネルギー法則の自由(円運動という性質)によって、再びを得る。
そのようにして何度も何度も生死、つまり、生滅を繰り返して運命となる。
その運命はやがて、業によって宿命を作り、その宿命の中での運命として存在となる。
だから、宿命は運命によって変えられるものである。宿した命をどう運んでいく命とするのかなのである。
それゆえ、運ばれた命の業によって宿した命となるために運命といい宿命という。
それもエネルギーの性質、自由というものによるものである。
どのようなことに反応し、どのように対応したかが自由の要である。
それが自業自得なのである。誰の所為でもない。
ただすべてが最初無知にしてあるために、あやまつことがほとんど。
そのために、誤らずに正しく反応したエネルギー(慈しみ)によって、諭されるのである。
「誤った反応をしていると苦しむよ」、「こっちのエネルギーの流れに沿うと楽しいよ」という、
同じエネルギーにしての共存共栄という慈しみの行為の反応である。
特に諭すことをしなくてもよいのであるが、エネルギーは円運動による浄化の質にあるために、
正しい浄化となるよう手を差し伸べるのである。それは、
エネルギーの法則に善悪がないために、それゆえ、絶対善となっているためである。
根本、絶対善となっている自由に沿うことが生命の仕合せである。
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種の起源

2014-11-29 | Weblog
人の能力は優れたもので、時と共にどんどんと進化していく。
未知なるものは既知となしていき、それは、奇知によってまたなされていく。
様々なる繊細に長けていて、故にまた、そのようなものを作ろうともする。
自分に似せて、或は、自分よりも高度に物事に即対応していけるものを作ろうとするものだ。
して、便利を作り上げて、従者を支配下に置き管理したがる。
心の曖昧さをどのように操るのかはとても難しく、完璧に制御することはできない。
知識をいっぱい詰め込まれたものは、やがて独自に考える力を覚えるが、
知識ゆえの正確さだけである為に情の識が無い。
知の恵みが組み込まれなければ不浄なものとなり、冷たいもの、冷淡一徹となってしまう。
それが、便利過ぎるという災いとなってくる。つまり、主人に反旗を翻して争うという事になる。
飼い犬に手を噛まれる羽目となるのである。
心の曖昧さというのは自由によるものである為に、何とも正確に作り上げるという事はできないもので、
客観である自然以外には無い。
自然に作られた人間が自然を作り上げることはできないように、似せて作り上げたものは、
似て非なるもので、かならず悲運となる。
知の恵みを組み込むというのは、諸刃の剣なのである。その時の運、自由に任せるしかない。
それこそ神頼みの様であるが、なにより、その時の心情、善一途にあれば運気は味方するものである。

創られし者は、創られし者により作られていく。が、
その初めの創られし者は、誰に作られたのかという疑問は、
客観である自然によって解かれるのである。
客観によって作られたものだけが、永遠に残っていくものである。
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虚空の中で

2014-11-27 | Weblog
そら(宇宙)は闇である。
闇というのは、何も見えないに様にして目に映る。
見えないというのはわからないことであり、無知ということ。
闇=無知である。
闇を照らすのは光だけである。

その虚空の中には、ポツリポツリと光の玉が輝いている。
それはまた無数にしてあるも、
それでも虚空は闇に包まれていて、その背景は無知にしてあるということ。

一筋の光明が闇を打ち破る。それは、無知を破るということであるが、
受け取る空間に対してのみ輝くもので、受ける対象がなければ、一筋にして過ぎ去っていくものである。
一面を照らすことはない。
無知=闇が主体である。
だから、目の前にある闇を対象として光を当てることによって、光明赫奕となって照らし出される。
辺り一面照らし出されて、見えないものはなくなる。

光の玉となるように生きているのが人の生命。
無知にしてあり、年負う毎に破るもので輝き増していくものである。
それが
正しく生きている生命である。
そらに星が輝くように、人も星のように輝くものである。
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熟慮する者

2014-11-26 | Weblog
先に生まれて様々を経験とし知識を得、智恵を持つ。
そのために、先生となる。
ただ知的とする自由の為に育まれた環境故の先見の明を持つ。
それは神通のものとしての力があり、
発達途上の身にある人の目から見れば神がかりである。

その知力により生命の記憶媒体を探り当て、
優劣の明を知る。
人の能力は希なるもので、その先見は先生を上回る。
未だ発達の途中、手に負えなくなるうちにその芽をある程度操作し、
上回ることの無いように施しておく。
その先生の自由は、歪にしてあり完成されたために、やがて崩壊にある。
宇宙というのは円満として、故に廻っているための存在である。
楕円として一方に傾きがあり、真円として修正とならなければ、それは、
やがて弾かれてしまう。その軌道から逸脱してしまう為に消えてしまう道をたどる。
つまり、上手く回らなくなるのである。それは崩壊を意味する。
それは独楽が止まるような状態である。止まってしまえば独楽としての意味を失う。
意味の為さないものは存在とはならないのである。

先生にも様々があり、善い先生悪い先生とがある。
善い先生は、その自由によって絶対となるために、何ものにも侵されることのない力を持つ。
その力によって、悪い先生を追い遣る。が、発達途上にあるものの自由を
侵すことはできないために、その者達の意思の自由によって、その力の効力が分けられる。
効力があるようにするための術は、気づきを与えるという事だけしかできない。
自由を如何なるものに於いても、変えることはできないためである。

熟慮=時間をかけて、あらゆる可能性を検討して考えること。
熟慮する=熟慮した上、機を見て実行に移すこと。

私たちは、心を戒めていなければならない。
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善い縁

2014-11-25 | Weblog
同じ人間。・
・でありながら善い悪いがある。

優劣というのは、全体的に見ればない。
同等の格付けである。良い悪いはない。
ある面に於いて優れているが、ある面に於いては劣る。
辻と褄は合わさって事物は存在しているために、
凹凸も正負も負けず劣らずで巴となっている。

根本原理、善悪というのが無いために、
絶対善となっている。そのために、
善い悪いの区別がつく。
同じものに善い悪いができる。だから、
とにもかくにも人間、
善い人に出逢う事である。そして、善良な者といることである。
すれば、すこぶる優れた者になり、幸せとなる。
それは、善いことを常日頃学び、善い縁となっていくためである。
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せつなくも

2014-11-24 | Weblog
巷に師走のせわしなさ。
特に何も無くても心ざわついて、
忙しくも無いのに忙しくなる。
そんな時に、路地裏のひっそりに踏み入れてほくそ笑む。
寂しくもあり淋しくも無しとして通り道、安堵の居場所と我を羨む。
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孤高の人

2014-11-24 | Weblog
寡黙であれ、多弁雄弁であれ、
器用不器用として捉えるのは浅はかなものである。
器用にして貧乏ともなり、不器用にして好かれるものでもある。
ただひとえにして心の善し悪しにてある。

本物というに、そのもの不備にしてあり、迷い惑いながらの道標である。
ただ善にしてあれば、不思議と真っ直ぐに導かれるものである。
それはまた、真円ということであり、円満ということである。
プロフェッショナルとするも
なりわいにしてあり、好き嫌いさて置きにして、この道一筋とならば、
心通うものここにあり、精通自ずとなるものである。然るに、更なる思い起こされ、
一にして戻り、長けるもの優れてくる。
人にして憂色にあるものでありながら、悠然として超然である。
孤高にあり威厳色合いあれども、寄って実に親しみ深いものである。
真実に孤独というものにあり、切なくして哀愁に包まれている。
手探りで生きているだけである。

一人にして産み落とされ、一人にして死に逝くものでありながら、
誰彼に交じり合う色合いである。そう知って、感慨深くも真摯に、
謙虚この上なく思うものである。
して、
道半ばに散り行く者たちとして、
ただ、
ありがとう

口にする。
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霊妙

2014-11-23 | Weblog
真空=その空間の中に気体が一切存在しないと認められるような状態。と辞書にある。
その中では空気が無い為に人は生きていけないが、気は満ち満ちている。
万遍なくあるのが気である。そのために、ある種の気が有る無しでその対応ができるエネルギーは
活動できるが、対応としないものはそこでは活動できていかない。
つまり、存在としての容ができない。気に依ってのそれぞれの存在となっているのである。
真空の中で生きていけるエネルギーがあるのは、気が隈なくあるためである。
その気は、私たちを作っているものであるが、私たちには見ることも触ることもできなく、
無いとして捉えられるものであり、しかしながら、何ものかと感じられるものである。
それはまた、普段見ているものであり触れているものであるのだが、無としてしか受け取れないのである。
それを、霊妙として捉える。
それは、気で作られていながら、気を知らないのと同じで、
私が私を知っていながら、全く知っていない。私というのは何だろう?
どこから来てどこへ行くのだろうと疑問に思うようなものである。
だから、気というものは、全てを抱えていて、無いといえば無く感じはするが、無いものではなく、
あるとすればまた、それなりに生じてくるものである。
人でいえば心である。心が生命の本体であり気そのものである。だから、全てを抱えていて、
為せば成ると成し、成さぬは人の為さぬなりけりとなるのである。どこまで本気でとなるのであるが、
思いが強くても、その志のあやし方を知らなければ、果はうまく見出されないものである。
だから、難しいとなる。そこに、一心があり一途にがあり、怠ることなく継続してがあり、
思うようにが芽生えるのである。
気というものは、無限な可能性と不可能とする有限があり、それは、自身でありながら自分を知らないという自由を持っている。

気というものは、自由というものから生まれている。

霊妙不可思議である。

だから、根本、「何だろう?」として生きている。

一生は尽きない人生である。
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愛執と哀愁

2014-11-22 | Weblog
人は、
精進にしてしのび終わる者である。

然るに、努力は無駄には無く
為となると示唆。

情けは人の為ならず、巡り廻って自分の為。と
道理は示す。

哀しい者として、悲しい者になってはならない。
哀しい者として、いとおし・く愛しい者である。
それは、
駄目な子ほど可愛い者であるとする思い、である。
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寿く命

2014-11-21 | Weblog
他諸国に見られない老人大国。
若者が少なく、つまり、働き手がいなくなり、
働けない人たちが増えているということ、その先行きは崩壊。
介護されなければいけない人となるのに、介護する側の人がいない。
その先は、惨めにも死のみ。明白に知れる。
意に反しての死となるのである。
長生きというのは若さが要、老人には若さは無くなる。
どんなに長く生きていても、若々しいということはなくなるのが道理である。
道理に反して人は生きてはいけない。生きとし生けるもの皆同じである。
道理に反しては惨めな死あるのみである。
長生きも善し悪しに尽きれば悪しになる。
そこそこにして去るのが身の為。
あそこ痛いここ痛いと過ごすのも哀れにて、
あの人がこの人がと、知人の死に悲しむも苦、自分はいつかと思いやるも苦、
経済大国、金がなければ惨めにして邪魔者扱い、それも苦。だから、
働けなくなったら潮時である。うまく動けなくなったら観念が大事。
あれこれあがくことなく
自然に身を任せていれば、意にして苦も無く命寿くものである。
努力も道理には逆らえない。
寿命というのはそういうものである。逆らえないのである。
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