つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

天に辿る・・・

2005-12-31 | Weblog
 富あるものに寄り添うものは、心なきもの。
貧しきものによりそうものは、こころあるもの。

富む者は、さらにさらにと富をあさる。
浅ましく、とどまる事を知らない。
貪欲は悪。際限なく求めれる先は、悲。

‘知足石’と言う石がある。=(中央に口という字を書いて、吾、唯、知、足と文字の一部を四方に配して作られた石) 吾知唯足として、吾(われ)唯(ただ)足(たる)を知る。と読む。黄門様の考えたことばだが、まことに正しい。

慈悲の慈は天国をあらわし、悲は地獄をあらわしている。
心の趣く世界が、悪のない世界であり、極楽であり、慈の世界である。
心を否定された世界が、地獄の世界であり、悲の世界である。

悲は心の判断の誤りによって創られていくのである。
めぐむ ことは慈を創り、天に辿る。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

業できまる?・・・

2005-12-28 | Weblog
 いつも休日ばかりだと苦痛になる。
働いてばかりも、地獄である。
これが交じり合っているから、うまくいく。

すべて交じり合ってのこの世の存在である。
そのために、悪がなくなることはなく、善もなくなることもない。
ゆえに、この世は苦があり、楽がある。
不幸せである人がいて、幸せである人がいる。が、この世である限り、輪廻の縁(へり)を離れない。共に苦しみから逃れることが無い。

あの世は、苦しみは苦しみだけの世界であり、楽しさは楽しさだけの世界である。一つの世界に共に存在することは無く、まったく別々として共に存在している世界である。
三途の川を渡り、向こう岸へ行った人たちが、戻ってくることが無いのには、二つある。
一つは、ひどく痛めつけられて、足腰が立たないためである。
一つには、あまりに楽しくて、快いことばかりで、苦楽のあるところにはもどりたくないためである。
さて、これからあなたはどちらに赴くのだろう?
あなたの業がきめることである。・・・
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

富は貧しさを生む

2005-12-26 | Weblog
 富んでいる中では、偽りが真顔で微笑む。
くすんでいても、霞がかかってよく分からない。
富は汚れにまみれて、心がすさむ。
富は心の貧しさを生む。

貧困は罪である。
貧困はなくすべきこと。この行為は人を豊かにする。
人を良く育てる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

迷う為に、見つかる・・・

2005-12-25 | Weblog
 道に迷いながら進んでいくことは、無駄をしていることではない。
迷う為に正しい道がみつかるのだから。

苦労して、悩んで、哀しくなるけど、そのおかげで、倍楽しくて、倍すっきりとした、倍々うれしいことがやってくる。

失敗を気にしては、失敗してしまう。失敗を恐れないことである。・・・と
自分に言い聞かせ、迷いながら、正しい道を歩んでいく。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

愛を尽くす・・・

2005-12-24 | Weblog
 愛を尽くして悔やむことはない。
愛は尽くしても、尽きることはない。
愛を尽くすあなたは、愛そのものだから、
愛で悲しむことはなく、愛に尽きてしまうことはない。
愛を尽くすことは愛に尽くされる。

 渇愛は悲しみを生む。
愛に渇いている人は、ただただ哀しいものである。
愛によって、憂いが生じ、苦しみが生じ、逡巡する。
渇き望まないことである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

誤っているために、何の力もないものとなっている・・・

2005-12-23 | Weblog
「南無」・・・帰命、帰依すること。命を懸けて自分をまかせきること。などの意。
南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏等、偉大な徳を讃嘆し、それに帰依する意の語と辞書にある。 辞書にある限りこれはこれで正しいとする。

 文字は人に理解されたために、文章としてなりたっていく。
理解されなければ、文章となっていかない。
どうして南無と言う文字が、自身をまかせきると言う意味になるのであろうか。
梵語で書かれた文字を、音写したものであるために、発音の似た文字をあてたもので、梵語での意味が帰依するなどとされているために、そのようになっているようだ。

般若心経で、亦、その序文としてつけられている開経偈でも、くれぐれも経典の文字に礙げられないようにと書かれている。
梵語で書かれた横文字を、縦文字の漢文に訳したために、訳されたものであるとして経としている。 
梵語は正しく漢文に訳されている。
正しく理解されたために、正しくその意味のある文字で訳されているのである。音写したものではない。発音を写しただけでは訳されたとはならないはずである。
「南無」の南<な>とは方角をしめしていて、方向であり、門であり、入り口をさしているのである。明るい、あたたかい方向である。門である。
無<む>とは、ないと訳すのではなく、無くなることが無いと訳すのである。
つまり、南無妙法蓮華経とは、 無くなることがない妙なる法蓮華経に入門すると言う意味である。
仏は、般若心経の言葉の文字に惑わされないように、正しく訳してくれることを切に願ったのであるが、心配したとうりになってしまったのである。
経典の文字を誤ってしまうと、すべての経典が理解しがたいものとなって、仏の真実を伝えたことが無駄となってしまうためである。
その為に経は、ただの祈りの為の読経となってしまっていて、それが正しいとされている。
理解できないために、仏の言葉であるとして、真言であるとなって、ただ唱えてさえいればご利益があるとなって、祈る為のものとなっているのである。
どんなに祈って、唱えても、唱えても、正しく理解されていない為に何の力も無く、ご利益も無い。功徳になることはない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

富んでいても凡人・・・

2005-12-22 | Weblog
 世界中に貧困にあえいでいる人はあまりにたくさんいる。
ひとりで一生かかっても使い切れないほど、たくさんのお金を持っている人もいる。 亦それほどでないにしても、贅沢三昧な人は大勢いる。

明日食べるのに事欠く人がいることを知っていても、富む人は、果たして知り合いでもないからとして施すことも無い。 また、施したとしても、その富からしてたいしたことはない。

キリストの言葉の中に、こういう言葉があった。
「よくよく聞きなさい。富んでいる者が天国に入るのは、むずかしいものである。
富んでいる者が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通るほうがもっとやさしい。」・・・

人は自分を愛するように他を愛することは、なかなかできないものである。
地位があって、名誉があって、富があっても。故に、これもまた凡人である。

この世の富でなく、あの世の幸福が仏の説いた、キリストの説いた真実である。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

無くならないもの

2005-12-20 | Weblog
 真実はひとつである。
その真実を知らないために、人の誤った行為となっていても、誤りに気ずくことができず、誤りを正しいものとして信仰となっている。

宗教は真実を明らめて、間違った行為を正していく為に説かれている。
何のために生きていくのか、その目的が分からない為に、行為が誤った行為となってしまう。目的が分かれば、方法が見えてくる。的確な手段が講じられる。

人は、生きていく目的が誤っているために、行為の誤りとなって、すべてが誤りとなってしまっている。

人は、死に向かって生きている。つまり死後の世界のために生きていくのである。
死後の世界のための人生なのである。死後の世界を涅槃の世界であるとして、その為の正しい行為、 これが人生の目的である。

死んでしまえば何もかもなくなってしまうとした、誤った思いが、仏教やキリスト教の解釈の誤りとなっている。
この人の誤りを正していく為に説かれたのが仏教やキリスト教なのに・・・。
真実は、円の動きで作られている。その為になくなることの無い存在なのである。
諸行無常として変化を繰り返し、常住となって、無くなることのない、変わらないものとしての存在なのである。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

愛もどき・・・

2005-12-18 | Weblog
 愛を説くのにお金はかからない。
愛を教わるのにお金なんて要らない。
愛に負担はいらない。
もし、愛が負担となるなら、それは愛ではなく愛もどきである。
我が我がというエゴは利己主義であり、愛を偽る。
愛の仮面をかぶった悪である。
愛はすべてにおいて負担とならないのである。

悪は、‘あ’の後に‘く’がついているから‘苦’となって、あとで苦しみとなる。
愛は、‘あ’の後に‘い’がついているから‘意’となって、心が伴っている。
その為に喜びの絆となって幸せを創る。
こころない愛は愛とは言わず、もどきであって悲しいものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

荒唐無稽ではない・・・

2005-12-17 | Weblog
 生まれてくる様はひとつだが、
死にいく様はとりどりである。
誰でも死にいく身は同じなのに・・・。

浄らかであれ、それが目的です。
つつましやかであれ、それが行為です。
常に調えてあれ、それが自分となるのです。
絶対いつか死んでいく自分のために!

般若心経の‘無’を‘ない’と訳さず‘無くなら無い’と訳すことで、‘無無’の二重がわかってくる。二重否定ではなく、肯定のための無である。
否定の否定という二重否定はけっして肯定にはならない。
般若心経は否定の経典とされているが、そうではないのである。
無を正しく訳していけば、菩薩の言わんとしていることがみえてくるはずである。
般若心経を正しく訳して、行為としていけば、死にいく先は皆一様幸せである。
荒唐無稽なことではない・・・。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加