つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

知るという一歩から

2014-03-30 | Weblog
楽観的であり刹那的でもある
どうにかなるさ、なるようになるさというなげやりな思い。
自分が作った道筋であるが、どうにも思いと違って哀しく見えることに、
天命ににして受ける報いなるものであろうと、ただ大いなる力に委ねるだけである。
ケ セラ セラ、もう因果は見える。打つ術も何もなく慈悲深さを乞うだけであると、
因果応報、因果応報と己の業を卑下して報う。
ケ セラ セラ ケ セラ セラと悲しみをたたえ、門出の季節・・・・
・・・・そうして、謙虚を知った時、道端の地蔵に出遇う。
地獄に仏という尊である。右の道と左の道の別れ際に立っていて、
右の道に導かれて今一度を示された。

世の中は傲慢であってはならない。我が物顔であってはならない。
唯一つとして自分の自由になるものは無いのだから。主観にして客観にはならないものであるから。
ここにこうしていることが、自然によるものであるのだから。
自然の采配にして自由なのであるから。

身を謹んで慎んで生きた時、自然に客観に溶け込んで、
禍も病も遠ざかり、苦悩することのない人生となっていく。
「種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰」

「智慧の身に付いた思いは、種々諸々の悪趣(悪行)、地獄の鬼畜生が浄化されて、四苦八苦が滅せられ苦悩することのない人生が作られていく。
真実の思いは浄化の行為となり、地獄も涅槃も正しく判断となって、地獄の世界の浄化となって涅槃となり、常なる願いとなり、正しく判断、日常の行為となっていく。」

観音経に説かれている一節である」。観世音と呼ばれるようになった人の死後の世界から語られたもので、観音となった人の心念の力は
どのようなもので、また、智恵(法)を身に付ければ誰でも得られる力であることを説明されているのである。
祈るために説かれている経ではない。
祈るためにとして理解されているために何の御利益も無いのである。
他力本願というのはそういう事ではない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

常とする知識を滅して

2014-03-29 | Weblog
年老いてくれば、思いと体がちぐはぐとなり、何かと
不都合が生じてくるものだ。
生身の体、機械のように壊れた部分を取り換えるというわけにはいかない。
代替え品がないものだから、修理というには殊更多大な難問山積となる。
ほとんど苦という得体のしれない恐怖に戦く羽目になる。
痛い痒いという感情を受けずに、健やかに過ごせるというのは難しいものだ。
ましてや精神がいかれてくれば尚更の事、甚だ生きている価値は一つも無い。
生きていても死んでしまっても、自分の為になるという事は何一つとして無いが、
死んでしまった方が周りの為になるだろう。迷惑かけ続けることが無くなるのだから。
長生きが奨励されるには、健康で自分の事は自分ででき、
周りを煩わせることが無く過ごせるということである。そういうことなら、少しの長生きもよしとするが、
そうでないなら、人知れず死んでしまう方がよしなのである。
通常、人は、他人に迷惑かけてまで生きていたいとは思わないのだが、とにもかくにも
思い通りにはいかないのが俗世間である。
それはみんな自分の身勝手さから来ているものだと老い老いて知ってくるのだが、
過ぎたるは及ばざるが如しで、どうすることもできなく、自分の無力、情けなさに歯がゆくも
生きているものである。
迷惑三昧にしていきていく、それが神仏のいう事はたわごとと生きてきた若気の至りなのである。
誰しも行く道であり、だから、年寄笑うなと訓えられてきたものである。・・・・・
・・・・
・・・・さて、人の歴史は戦争である。争い戦くことに終始する。
どれほどの頭脳をもってして、もっともらしいこと論うが、何ら解決されることなく、
これは私のもの、あれも私のものと奪い合うことに執着する。
人類の歴史は誤の歴史に尽きる。
その誤りのエネルギーによって、人類は滅亡していくと神仏は説いているのである。
その回避に、愛を説き、愛する行為を説いていったのであるが、すべて人の無知により、
誤解されて認識、証明されることのない神の存在を確実として作ってしまったのである。
証明することも証明されることもできない無知なるものである為に、恐怖が生じ、恐怖があるための存在となったのである。

釈迦もキリストも是を知った人である。
是は宇宙の法則、エネルギーの法則である。その法則による未来である。
そのため、どんなことをしても法則の力を変えることはできない。
法則こそ絶対無比なもので、全知全能なのであるから。そして、無くなることのないものとなっているために、
それによって生じている人の生命もまた無くなることのないものとなっているもので、
だから、滅亡していく人類の歴史は、浄化による淘汰に過ぎないもので、再び人という生命の誕生となっている。
それは、一日が終わりまた明日が始まるようなものである。
その時に、誤った歴史を繰り返さないよう魂、心の記憶(エネルギー)を正しく甦らせることである。
つまり、そこには正される事による希望があるのである。そのために、滅亡を恐怖とせず、けっして
心に恐怖を抱かないことである。再び、私もあなたも生まれてくるものであるからとして。
それは、名が違い、人種が違い、時代が違うが、100%再び生まれてくるものであるから。
朝が来ない夜が無いように!
そして、心の正しい進化(覚り)により、過去世を知ることができ、正しく歩むことができていくのであるから。

地上の生命は運命共同体で、人の誤ったエネルギーによって全滅となる。
二十一世紀は越えられないと道理は教える。もう直に迫っている。
争いという因である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

縦横を知る

2014-03-27 | Weblog
経とは縦を意味する文字。
梵語というのは横文字で書かれているもので、
それを中国語である縦文字、漢文に訳したものであるために、
訳されたものという意味で経としている。

縦と横は縦横というように、必ず縦が先になる。
その意味をもって、
関係するものの問題は、
必ず縦の関係を先にすることが肝要となる。
すれば、縦横無尽というように、思いのままとなっていくものだ。

人の関係も経糸の関係、先祖を敬うことは道理である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

愛する者

2014-03-26 | Weblog
愛情薄くて独りにある人と、
愛情豊かで一人にある人といる。

達人の一手に似て、深遠にして一人にある人。
極めて愛情深く一人を好む。
愛ある人である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

方便

2014-03-24 | Weblog
阿含は色滅の識滅の手段が説かれている経である。
記憶となっている知識を滅し智慧とする方法である。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

徳俵

2014-03-23 | Weblog
人生で最も大切なことは徳を積むということである。
富を得ることでもなく、名声を得ることでもなく、地位を得ることでもなく、
貧乏である時の施しは、何にも増して徳を積めるものである。
その心、‘真に喜ぶ顔が見たいから’と一途にあれば、これ絶大である。
その心にあって、
事為すごとに一俵一俵と積まれるのである。

人、何のために生きるかとすれば、
そのエネルギー浄化にあって、目的とするものである。
善悪の無いものである為に、善を悪とし、悪を善として
善悪顚倒してしまえば、その誤りが正すことができず、
地獄の世界となっていても、
これが正しい世界となって疑うことも無くなる。そのために、
善は善とし、悪を正していくことが人の生きる(しあわせ)目的である。

人は、ただエネルギーの法則に従順であることがしあわせということである。
限りなく続く、一旦区切りながらゼロ(浄化)になるために、自然というのは誠に美しい。
乱雑にあるようにして整然としてあるものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

幸福という使命天命

2014-03-21 | Weblog
経済社会はお金が無ければ生きていけない。
黙って家にいても金がかかる時代になった。

少し昔の事、まだ不便で暮らしていた頃は、
明るくなれば起きて、暗くなれば寝る。
水は清水湧き水を飲み、山や野の草花、木の実を食べ、根を食べ滋養とした。
作物栽培も自然に習って自然のままに育て、狩りもして暮らしていた。
皆、循環型、互いに持ちつ持たれつという作用で生きていた。
不要にいたずらに命をせしめることはせず、足るを知る(知足)として生きていた。
食べて生きながらえることに感謝し、そのことに精を尽くした。
精一杯生きていたのである。労して暮らしていたが功していたのである。
常に自然の中にいて、自然のまま暮らして労することが労りとなっていた。
自分の骨折りに、命益々与えられるという喜びだけで生きられていたのである。
経済のいらない生活であった。それがそのまま進化して、高度に発達、
好きこそものの…という使命を宿し、
与えられた使命をよく調え律っし、天命として生き喜ぶのである。よく理解されて生きていく。
他からの与えに使命でもって返し、喜びとしているのである。そのために、
生きるための不安というものが無く、持ちつ持たれつで繋がりとても強固となっている。
それは、蜜蜂の巣のようにみっちりとしたものである。
その強固さをもって、微と大に対応、極小と巨大を作るのである。

経済不要の社会、進化の未来世である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

変な世の中

2014-03-21 | Weblog
俗世、人の世は矛盾だらけである。
タバコは百害あって一利なしと言いながら、平気で
公に販売されている。
健康を害するんだよと言いながら売っているのである。
中毒性があるものだから、吸っている人はなかなかやめられずに、
ついつい吸ってしまう。よい?金蔓ともいえる。
人の心とはまた弱いもので、わかっちゃいるけど云々と嗜好に走る。
けっして為とならないのだが魔性に取り付く。それが癒しだと、潤いだと、ゆとりだとと
決めつけて自分を痛ぶる。変な意味で快感として、その快感が他人をも不愉快にしていること
などどうでもよく。音もにおいもまた同じで、自分の嗜好だけで他人を害していく。

害するものから戒めが生じ、それが高じて初めて除害となっていく。変な意味というのは、
害して知るものであるという相対であるためである。哀しい性でもある世俗にしてあるために。

戒めがいい加減なものであればいい按排となって、曖昧なまま互いを存続させていく。矛盾が消えないのである。
矛盾が消えないために、人は神を作り神的によって矛盾を解いていく。
神的にして矛盾が解かれていくために、神が絶対善となって絶対信仰となっていく。
このようなこと、あのようなことも神の導きによるもので、
知らねばならないためにあるものとして、すべてが神の仕業であると考える。
よいこともいけないことも神の御心と。・・・・・

・・・・神は絶対善にしてある。絶対善にしてあるものに罰などという悪なる仕種は無いのだが・。

な世の中である。

自分の得を優先して実は、損をすることを人は知らない。
子供の自分は大人の自分になるという時間の差、違いがあるのだが、同じ自分に違いは無い。
同じであるのだが違い、違うのだが同じであることを真実知らないのである。

ここにあるのはという仕種。隈無く満遍にある仕種である。

この世の中も、あの世の中もとして繋がっているという円の動きである。
矛盾するものではない。矛盾するものでは無い為に神を必要とすることも無く縋ることもなくなる。
矛盾というのは、わからないという無知にある。
無知にあるために過つもので、無知でなくなれば神の有無も解決されていく。
それが智慧によってである。智慧を身に付けた人の思いは広大智慧観となっていくために、
不思議となっていく。矛盾が解かれていくのである。
即判断となって即対応できるものとなっていくのである。
それは、道理の判断であるために、誤りのない判断となっていくのである。

智慧を身に付けることである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

大衆に説かれているために大乗

2014-03-20 | Weblog
般若心経は大衆の為に説かれたものであるために、
難解なものではない。
難しく捉えてしまうのは知識で解くためである。
知識では心経の文字に惑わされてしまい、
理解することが困難、得てして、
分かったようで何も分からない。
結局、否定の経典となって、今あるこの世まで幻として見てしまう。
心経の功徳を受けることができなくなる。
正しく解すれば、
最速で悟れる訓えであり、最強、無敵、無敗となれる訓えである。
それは道理が味方となるためで、よくよく道理に守られるためである。
道理は法則であり、唯一無二である。
それは、
智慧によって正しく解されるものであるために、
智慧ある眼でよくよく読むことである。

智慧は、例えば、
コツである。自分自身にしか得られないコツのようなものである。
それは、自転車の乗り方を、頭でこうだと教えられても乗れないのと同じ。

自分にしかできない体感の経験、体得である。

日々、是という法則を体感して生きている。
是を、
見て聞いて触れて
感じ生きているではないか。
体得しているではないか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

法の慈悲

2014-03-19 | Weblog
業の縁により今の環境があるとするものではない。
無知なる業によって、知らねばならないことを知るために現れる環境である。
善悪の環境が業によってなされるのなら、
悪行には悪い環境、善行には善い環境となって現れ、前世での行いの善し悪しが知れてしまう。
今不都合に生きている人は、前世で悪を為した人という事になり、
今好都合に生きている人は、前世で善いことをした人という事になる。
罪深い者とそうでない者との区別が誰にでもつき蔑視され、はっきりした格差となり、
現世のスタートがどうすることもできない差別からなり平等でなくなる。
平等として人は生まれているのだから、道理に反してしまう。
道理にないことは無理と言い、有り得ないことである。
業によって与えられた環境というものは、スタートの時点にはない。
罪深い業は、現世の幸不幸にはなく、その立場から知らされるものではないのである。
どんな環境下にあっても、
どう慈悲ある行為ができたかにしての対処から分かれてあるものである。
知らなければならないことが知らされてあるのである。
裕福にして何ができたか、貧乏にして何ができたか、その行為による。
裕福にしてあるものの行為は、尋常にして適わない。
貧乏にしてあるものの行為は、そのものが苦にしてあるために、
善行は逐一徳が積まれる。
悪行にしては、どちらも浮かばれないほど罪深いものとなる。
浄化が法であり道理であるために、
正しく浄化されている行為となっているかで死後の世界が決まる。
正しく浄化となっていなければ、何度も生まれ変わる。
それは苦のみである。その苦は慈悲にある。
生まれ変わることのないのが本来慈悲であり、慈と悲に分かれている法の絶対世界。
死んでからでは遅いのである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加