釈迦もキリストも法を理解し、その上で、
近い将来、人類は法によって滅亡していくことを知った。
それは、法の予言である為に百パーセント間違いないことと知り、
そのために、死後の世界をけっして恐怖としないようにするために説法していった。
死というのは、肉体の死であって、生命は永遠に生きていくものである為に、
死後の世界こそ生命の生きていく世界であり、人が生きていくのはその世界の為の行為となっているとして、
訓えていったのである。
しかし、死というものが生命そのものが無くなってしまうことであると誤って理解しているために、
訓えが正しく伝わることなく、人類は誤った進化を続けている。
人類の作り出すエネルギーは、悪のエネルギーとなって地球を蝕んでいる。
その悪のエネルギーによって、人類は自ら滅んでいく進化となっていることに気が付いていない。
どうだろう、自分の身の回りを見ても不条理なことが多く、あの人は、この人はと悪口に絶えなく、
いじめ、虐待の事件が多く、殺伐とした社会となってきているではないか。
子供に、いじめは良くないよと訓えていながら、自分は職場でいじめをしたりしている。
譲りあい、愛しむ、絆などときれいごとを言うが、いざ、自分の事となれば我が身ほど大事なものは無く、
浅ましさが露呈する。
中には、善人もいるけれども、多勢に無勢で、運命共同体となっている。
世界を見ても、いつも争いである。どこかで争い事が絶えず、一触即発状態はあちこち。
同じ人間でありながら、いがみ合っているのが現状である。
人はみんな自分が善であり、他人は悪であるとして判断しているためである。
我が身を抓って人の痛さを知れ」という言葉があるように
本当にそれを理解するなら、争うことなど無いものであるが、
煩悩にまみれて、なかなか理解されないのである。
救われていく道が説かれていながら、理解されないのである。
人は必ず死ぬ。でも、生命には死が無い。それは法が無くならないからである。
絶対死ぬことを条件に生まれてくるのが生物である。
それは、肉体の無くなった魂の世界が生命の本当の生きていく世界だからである。
その本当の世界を幸せな世界とすることが目的で、肉体をもって行為としていくのである。
そのために、人の肉体行為はすべて浄化の行為となっている。生命の浄化となっているのである。
それが正しい行為とならず、誤った浄化の行為となっていれば、死後の世界は地獄となっていく。
法の世界であるために永遠となってしまう。だから、生きている時が大事なのである。
死んでからでは肉体が無い為に、正されることが出来無くなってしまうためである。
死後の世界は、人それぞれの世界である。
すでにあるという世界に赴くという事ではない。
自分の記憶が作っていく世界であるために、自分の心が地獄となっていれば、
地獄となるのである。だから、記憶に心に悪を抱かず生きなさいよと神仏は訓えているのである。
天災が強大化してきているのは、地球浄化の作用である。
がん細胞のように、我が物顔で地上にはびこっていく人類の悪の浄化である。
それはもう、いたしかたないものである。
近い将来、人類は法によって滅亡していくことを知った。
それは、法の予言である為に百パーセント間違いないことと知り、
そのために、死後の世界をけっして恐怖としないようにするために説法していった。
死というのは、肉体の死であって、生命は永遠に生きていくものである為に、
死後の世界こそ生命の生きていく世界であり、人が生きていくのはその世界の為の行為となっているとして、
訓えていったのである。
しかし、死というものが生命そのものが無くなってしまうことであると誤って理解しているために、
訓えが正しく伝わることなく、人類は誤った進化を続けている。
人類の作り出すエネルギーは、悪のエネルギーとなって地球を蝕んでいる。
その悪のエネルギーによって、人類は自ら滅んでいく進化となっていることに気が付いていない。
どうだろう、自分の身の回りを見ても不条理なことが多く、あの人は、この人はと悪口に絶えなく、
いじめ、虐待の事件が多く、殺伐とした社会となってきているではないか。
子供に、いじめは良くないよと訓えていながら、自分は職場でいじめをしたりしている。
譲りあい、愛しむ、絆などときれいごとを言うが、いざ、自分の事となれば我が身ほど大事なものは無く、
浅ましさが露呈する。
中には、善人もいるけれども、多勢に無勢で、運命共同体となっている。
世界を見ても、いつも争いである。どこかで争い事が絶えず、一触即発状態はあちこち。
同じ人間でありながら、いがみ合っているのが現状である。
人はみんな自分が善であり、他人は悪であるとして判断しているためである。
我が身を抓って人の痛さを知れ」という言葉があるように
本当にそれを理解するなら、争うことなど無いものであるが、
煩悩にまみれて、なかなか理解されないのである。
救われていく道が説かれていながら、理解されないのである。
人は必ず死ぬ。でも、生命には死が無い。それは法が無くならないからである。
絶対死ぬことを条件に生まれてくるのが生物である。
それは、肉体の無くなった魂の世界が生命の本当の生きていく世界だからである。
その本当の世界を幸せな世界とすることが目的で、肉体をもって行為としていくのである。
そのために、人の肉体行為はすべて浄化の行為となっている。生命の浄化となっているのである。
それが正しい行為とならず、誤った浄化の行為となっていれば、死後の世界は地獄となっていく。
法の世界であるために永遠となってしまう。だから、生きている時が大事なのである。
死んでからでは肉体が無い為に、正されることが出来無くなってしまうためである。
死後の世界は、人それぞれの世界である。
すでにあるという世界に赴くという事ではない。
自分の記憶が作っていく世界であるために、自分の心が地獄となっていれば、
地獄となるのである。だから、記憶に心に悪を抱かず生きなさいよと神仏は訓えているのである。
天災が強大化してきているのは、地球浄化の作用である。
がん細胞のように、我が物顔で地上にはびこっていく人類の悪の浄化である。
それはもう、いたしかたないものである。