つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

戒名なんて・・・

2005-11-30 | Weblog
 人が死ぬと戒名をつける。なぜ戒名が必要なのか、理解しがたい。
仏縁を結ばせる為であるとか、いろいろ言われるが、そんなことはない。
仏はそんなことを説いたことは無く、死んだものにどうして新たに名前が必要なのか、考えなくても変なことと分かるはずである。
特に日本だけのしきたりである。意味のないものである。
そんな意味の無いものに、多額のお金をかけている。
死んだものに多額のお金をかけて、あの世に行く為の名前をつけたところで、死んだものが成仏できるわけではない。

 僧となったのはなぜなのか。僧になろうとしている人は、なぜなろうとしているのか理解しているのだろうか。
僧を辞書でひくと、「衆生済度を生涯の仕事とする人(たち)」とある。
果たして、職業坊主となっているだけなのではないか。
ただの職業坊主となっているために、意味の無いことをもっともらしく説いて、多額の金銭を得る。 

偽善は悪である。今生にどんなに仏の姿を真似たとしても、神を語ったとしても、死んでいく身は変わらなく、そのときは、100パーセント地獄になっている。

 地獄が作られていけば、それが縁となって、永遠に続いていく。
死は自分にはまだまだ遠く先のこと、或いは、関係ないと思っている人はいるものである。が、確実に昨日より命は短くなっている。
 必ず、その日はやってくる。それも、‘光陰矢のごとし’として・・・
地獄となるか、天国となるか、今生の生きざまにかかる。
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人生の目的は・・・

2005-11-29 | Weblog
 人は、死ぬために生まれてくる。
そのために、人生の目的は死である。
生命エネルギーに死は無い為に、人は肉体を失った後の世界で生きていく。
この死後の世界を、悪の無い世界としていく為の人生として、人は生まれてくる。
このことを理解して、正しい行為としていくことが、方法である。
 
 死は人の経験とならないために、知識とならず、なかなか理解することができない。 理解できない為に、怖いものとなって、暗黒の世界となっている。
死が分からない為に、すべての恐怖の基となっている。
人の死が苦しみのイメージとして作られているために、死は苦しいものであるとなって、恐怖となっている。
 全ては、エネルギーの円運動の法則でつくられているもので、法則には、
善悪も恐怖も無い。そのために、死は恐怖となるものでなく、人の思いが恐怖として作っているものである。悪も然りである。
生命の世界が死後の世界である。その死後の世界を明るい未来としていけば、希望がもて、恐怖とならなくなっていくとして、仏は説いている。
死は恐怖となるものではないとして、その為の今生の行為を説いているのである。
死後の世界は、このような世界であるとあきらかにして、このようにしていけば、こうなっていくよ、と方便が説かれているのが、般若心経である。
般若心経さえ、正しく解釈していけば、誰でも悟りは開かれると説かれているのである。その説いた仏が、観自在菩薩である。
 般若心経が、数多く訳されているが、正しく訳されているものは少ない。
「開経偈」のなかに、くれぐれも言葉の文字に惑わされないで、正しく解釈されるようにと、書かれていることが、無駄になっているのである。・・・

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良く善くいきるのは、どうして?・・・

2005-11-28 | Weblog
 死は誰にも訪れるが、善く生きた人の死は恐怖となるものではない。
その為に、地獄となることはない。

生命が肉体より離れるには二つある。
一つは、間違った生命の浄化となっているために、その悪のエネルギーに犯されて、死となっていく。あるいは、生命が活力を失い、病気に犯されて、死となるためである。或いは、事故に巻き込まれてしまい、死となるためである。
一つは、正しい生命の浄化がされて、生命世界が完成されていくためである。一つの人生が完成されて、生命がこれ以上肉体行為を必要としなくなるために、肉体が死となっていくのである。
善人短命と言われたりするが、善行をなしていたからといって、悟りが開けているわけでなければ、解脱となることがなく、輪廻を繰り返す。

 良く善く生きていくのは、どうして、そうして生きていかなければいけないのかを知ることである。

 エネルギーの円運動の世界である。その為に、はじめが無く、終わりも無いものとなって、無くなることのない動きとなっている。
その変わらない動きのなかに、変化がつくられて、その変化に対応する行為となって、行為が縁となって創られていく。無くなることがなく続いていく。
 良く善く生きた人には、悪しき死が訪れることは無い。・・
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愛する者の行為は、愛・・・

2005-11-27 | Weblog
 愛すれば、愛するほど、憂いは生じる。

 愛があれば、愛あるほど、輝きに満たされる。

 渇愛は、煩悩にまみれる。
 
 自己を愛し、自己を頼りにし、自己をよりどころにすることである。

 他に求めることは、哀しみに浸る。

 自己を愛しむことは、他を愛することにつながる。

 愛を間違えないことである。

 愛する者が、愛する者に成す行為は・・・である。
 
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・・・限らない・・・。

2005-11-26 | Weblog
 釈迦は、縁起の法を説き、その為に、行為を説いていった。
様々な譬えを用いて、人それぞれに対応して説いている。

仏の説いたことを、どのように判断するかは、人の自由である。
仏は、一つのことを説いているのだが、聞く人の判断によって、それぞれ違うものとなっている。仏の説いたことを、説いていくのは、説く人の自由であるため、
解釈の違いが、宗派となっている。そのために、様々な宗派がつくられている。

おかれた環境が違う為、経験の違いとなって、思いの違いとなっているためで、
様々な真理があるのではなく、真理は一つのみである。

同じことを説いたにもかかわらず、どう解釈したかによって、微妙に違ったものとなってしまうのである。
その自由な判断でもって、仏の説いたことを、説いていく為に、説く人の判断で宗派がつくられていく。
真実は一つである。説く人によって変わるものではない。
 聖人と呼ばれても、正しいとは限らない。・・・・
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簡単なことなんだけど、難しい?

2005-11-25 | Weblog
自分が生きていたときの記憶が現象となって、死後の世界となっている。
生きていたときの現象であるために、この現象が増えたり減ったりすることが無いため、「不増不減」の世界としている。
 人は死後、この世界で生きていくが、解脱にいたってないために、輪廻の縁〔へり〕をさまよい、転生する。それが数年後かもしれないし、十万年後かもしれない。しかし、自分にとっては、輪廻はすぐなのである。どんなに時が隔てても、すぐとしてなっている。それは時間が無い為である。
地獄が作られていけば、永遠と苦しみを受けていくが、輪廻すれば、それも一瞬でしかない。
 時間が無い為に、永遠でありながら、一瞬なのである。
その為に、輪廻より解脱して、永久に幸せな世界で、自由に生きていくことが、生命の目的である。
 
 悟ることにより、行為として、解脱となっていく。
ただ悟っただけでは、解脱とはなっていかない。
善行に善行を積んで、天上に生まれたとしても、輪廻の縁〔へり〕をさまよう限り、転生は免れない。
 悟りが何を悟ることなのか、分からない為に、行為がされることが無く、解脱することができない。 知識では、知ることができないものとなっているためである。・・・
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現象・・・

2005-11-24 | Weblog
 人が死んで、あの世となる。 どれくらいの間、その世界にいても、飽きることは無い。時間が無い為である。輪廻して、再びこの世の者となって、亦一つの人生が始まる。業によって、生まれるところが違うが、身分の高いところに生まれたからと言って、前世において、身分が高かったわけでもないし、善行を成したからというわけでもない。生まれてくるとき、前世はリセットされてくるためで、生まれた場所、立場において、いろいろな〔受〕として、刺激されて、業がつくられていく。どんなによい立場に生まれても、悪しき業をなせばもともこもなく、苦しみの輪廻から逃れることは無い。
生まれてくる以上は、苦しみなのである。

 生命が、悟りを開けないでいる間、輪廻する。死後、地獄の世界となっていけば、そこでどれくらい長い間であれ、生きていく。毎日毎日苦しみを受けて生きていく。たとえば、毎日殺され死ぬ。しかし、生命は死が無い為に、そこですぐ蘇生してしまう。が、そこでまた殺される。と永遠に繰り返される。
 
 あの世では、時間が無い為に、鏡に写された時間のようなものである。
鏡の中は、奥行きもあれば、空間もある。しかし、鏡を横から見ると、うすっぺらである。奥行きも無ければ、広がりも無い。だが鏡の中は存在している。
このような時間である。現象である。
もし、この世に生まれてくるのに、百万年かかったとして、その百万年の間、死後の世界で生きているが、輪廻するときの自分は、死んだときと時間空間を隔てず、すぐなのである。鏡の中ような、奥行きがありながら、無いのとおなじである。
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肉体行為がつくるもの・・・

2005-11-23 | Weblog
 生命は永遠である。
肉体を持って生まれた生命が自分である。その肉体経験が人の一生である。
肉体は無常である為に、滅んで一つの人生が区切られる。
生命である自分には死が無い為に、肉体が死んでなくなると、そのまま死後の世界で生きていくことになる。肉体があったとき〔この世〕の経験が記憶となって、
その記憶がそのままあの世の現象となっていく。その為に、この世と少しも変わらない世界となっている。
 現象の世界である為に、時間も空間もないものとなっている。
人が眠ったときに見る夢が、現象の世界である。
夢の世界には、時間も空間も無い為に、自分がさまざまなところに現れたり、瞬時に違う場面になったり、どんなに長い間夢を見ていても退屈することは無い。
夢の中には、家族もいるし、友達もいる。すべてこの世と変わらなく存在している。 これが現象の世界である為に、夢の世界と死後の世界は同じものとなっている。
夢を正しく判断していけば、死後の世界がどうなるのかが見えてくる。
怖い夢をよく見るのは、死後の世界が恐怖となって地獄となっていくのがわかる。
その為に、夢の中から恐怖をなくしていくことが、肝心である。
想念が夢の世界となっているために、想念に恐怖をいだかないことである。
想念とは、この世での人の行為の経験である。経験が記憶となって知識となっている。知識がひとつとなって、想念となっている。
肉体行為によって、想念が創られていく為に、自分の行いを正していくことで、恐怖の夢を見ることは無くなっていく。
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ただ否定の否定は・・・

2005-11-22 | Weblog
 仏教は「無」を「ない」と説いている。
もともと無いものであるとして、その無いものに執着するために、苦が生まれるものであると説いている。
それが、無我となっている。我は無いと言うのである。
人は死んだらすべてなくなって、「無」に帰すと言う。「我は無い」と、「無」を説き、死んだら無になると、説いていながら、霊供養を説く。
無くなってしまうものは無くなってしまうものであるから、霊も無いはずである。
無くなって無いものを、どうこうしても意味の無いことである。
矛盾である。
仏教の「空」の思想は、「何もないことはない」と言う否定の否定である。二重の否定であるが、否定したことをただ否定しても肯定とはなってこない。
その為に、実体が否定されたまま、否定されているために、無から有が生まれるとして、無即有であるとなって、わけの分からぬものになっている。
無から有はうまれることはない。

仏教が「無」を正しく判断していない為に、この矛盾に気がつかないのである。
もともとあるものを、無いとして誤って否定したことを認めて、否定していくことによって、実体が肯定されていく。誤りを認めないで、否定を否定していっても肯定にはならず、矛盾となるだけである。
釈迦は、無我を説いてはいない。非我を説いたのである。・・・
もともとすべては、「有」であるために・・・・

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再三・・・

2005-11-21 | Weblog
 生命エネルギーは、肉体を持って生まれてくる。子供の生命として生まれてくる為に、肉体は子供の動きとなっている。
外部からのさまざまな刺激を受けて育っていく。その為に、この世を「受」の世界としている。
さまざまな刺激に対応して、行為となって、経験となっていき、記憶となっていく。この記憶が死後の世界の現象となっていく。死後の世界で、
記憶が現象してしまうために、再びこの世に生まれたときは、前世は思い出せないものとなっている。
こうして人としての一生が区切られて、生命である自分が続いていくのである。
人は人としての行為をし、経験をつんでいく為に、他の生物の生命となることはない。
畜生にも劣る行為をしていけば、畜生界になってしまうとして、六道が説かれているもので、縁を述べている。
釈迦はこの縁起を知り、その為に「行為」をを説いたのである。
円運動の法則であるために、始まりも終わりも無く、ただ繰り返されて、無くなることのない動きと成っている為に、繰り返されることによって、絶対化されていき、絶対世界となるとして、「行為」を説いたのである。
「善き行為をなす者は・・・・」と、縁を教えたのである。
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