つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

あの世は・・・

2005-08-31 | Weblog
今日もまた、繰り返し繰り返し書いていく。
いままで生きてきた繰り返しの経験が、記憶のエネルギーとなり、現象の世界を作っていく。いままで生きてきたことが、そのまま現象されて、生命の世界‘あの世’となっていく。そのために、この世とあの世は少しもかわることのない世界であるとして「色不異空」と説かれている。死んだあとの生命の世界は現象の世界となり、その現象の世界はそのまま人の生命となって、また人は生まれて、あの世が、この世となっていくとして、「空不異色」と説かれ、輪廻していく。 「色」としているこの世は変わらず、「空」としているあの世も変わることがないと説かれている。
すべてがエネルギーの世界で、「色」とされているこの世界が、「空」とされている死後の世界となっても、何も変わることがないとされているのは、生命はエネルギーで、エネルギーには死が無い為で、自分が死んでも、死んだと言うことも分からず、あの世であることも知ることなく、そのまま生き続けていく。自分が生まれてきたときも、生まれたことを知らないで、生きてきたのと同じである。
生命そのものに死がないためである。そのため、何かあっても、自分だけは死なないと人は思っている。
生まれたことや、死んだことがわからないのは、くるくる回る円の動きの仕組みの絶対世界で、人の考え、思いなどによって変わる世界でなく、心が関与されない動きの世界で、あの世の現象は一切経験とならず、記憶とならないためである。生きてきたときの経験が、記憶のエネルギーとなってすべて現象されていくために、生前の記憶は思い出されなくなって、あの世であることも知ることができない。
仏教が「色」を物としてとらえ、「色はすなわちこれ空なり」と実体を否定しているために、「色即是空」が判断されず、すべての実体が否定されて、死後の世界までも否定している。否定していながら霊の世界であるとして、霊に祈り、供養している。矛盾である。この矛盾に気がつかないでいる。霊が何だか分からない為に怖いもとなり、怖いために祈っていく行為となり、その恐れが信仰となって、祈り続けていかなければならなくなっている。一心に祈ることによって、心の判断がされなくなり、恐れが判断されなくなっていくため、救われていくとされているためである。祈る行為は、ものが正しく判断されないためで、わけが分からない為怖いとなって、畏怖の念がおこり、「助けてっ」となって手をあわせている。祈る行為は動きの止まった行為である。そのため、片時もとまることのない円の動きに反するため、摩擦となっていく。行為がされていかないのに、生命エネルギーは肉体を動かしていくため、肉体内部からの刺激となっていき、その刺激が行為の転換となっていかないために、神経が刺激されつづけて苦となっていく。そのため、祈る行為は悪の行為となっていく。  つづきはまた、
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悟ること

2005-08-30 | Weblog
死後の世界を、極楽とするか、地獄とするか、決めることができる自由が、肉体をもって生まれてくる生命の目的である。人は死んでも生命はなくならない。エネルギーが、くるくる回る円の動きで、無くなることのない動きとなっている為で、永遠に続いていく存在となっている。このことを悟ることである。「人は死んでも生命はなくならない。」このことを悟ることである。死後の世界は生命世界の絶対世界でなにものにも侵されることの無い世界であるため、どんなに供養しても変えることはできない。死んでからでは遅いのである。このことが分かれば生きているときになにをしていかなければいけないかが、自ずと分かってくるはずである。このことが何も分からない為、死んでしまえば何もかもなくなってしまうとしているため、生きているときに悪のかぎりをつくすのである。この過ちを正す為にキリストは隣人愛を説き、釈迦はその行為を説いていったのである。転生してくる限り、この世は苦しみである。決して楽ではないはずである。
転生することなく、永遠に極楽の世界で生きていく為にどうすればよいか、それを簡潔に述べているのが、観自在菩薩で、般若心経である。釈迦の教えを修行し観音となった菩薩が、悟りを開いて観自在菩薩となった人の仕組みが縁となり、同じ釈迦の教えを修行している舎利子に現れて、舎利子の口を借りて語られたものである。そのために、死後の証明となり、嘘のないものであるとなっている。般若心経を正しく訳していけば、必ず、悟りが開かれ、救われていくのである。今まで、正しく訳されてこなかったために、般若心経で悟りを開いた人は誰もいない。つづく
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無明

2005-08-29 | Weblog
「神よ、許したまえ。彼らは何も知らないからである。」・・キリストが処刑されるときに言った最後の言葉である。何も知らない為に起こす罪の許しを人々のために、乞うたのである。「何もしらないからである」これが、無明である。この無明をなくしていけば、縁によって次々と苦しみの原因がなくなっていく。これが、釈迦の説いた縁起の法である。
真実はひとつであるため、釈迦もキリストも同じことを説いたのである。ただ生まれも育ちも違う為、経験の違いとなり、経験の違いが説き方の違いとなっているのであって、同じことを説いたのである。
衆縁和合して、くるくる回る円の動きの仕組みで成り立っている。エネルギーの絶対性質で、縁となり作られていく。くるくる回る円の動きである為なくなることのない動きとなり、止まることのない動きとなっている。生命エネルギーである人も止まることのない動きとなり、意思に関係なく内臓は動く。内臓の動きが完全にとまらないかぎり、死とはならない。人が死んでも、エネルギーである生命に死はないために、今まで生きてきた記憶のエネルギーが、現象してあの世となっていく。これが生命世界である。仕組みの絶対世界である。この生命世界を作る目的で人は生まれてくる。天国とするのか、地獄とするのか、決めることのできる自由が、肉体をもってうまれてくる目的である。回る動きは浄化の動きである。そのため、人の行為も浄化の行為である。まちがった浄化としていかないようにしなければならない。良いことに縁を結べば良い縁となり良い世界へと導かれる。生命世界は絶対世界であるため、なにものにも犯されることの無い世界である。永遠に続く世界である。この永遠に続く世界で自由に生きていく為に、キリストは、隣人愛を説き、釈迦は行為を説いていったのである。  つづきはまた・・
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だから・・

2005-08-28 | Weblog
だから、肉体を持って生きているときに、良いことに縁を結び、悪をなさないように正して生きていくことを知ることである。
人の体も意思に関係なく、内臓は動き、心臓は止まることなく動いている。だから、じっとしていられなくなっている。目をつむり、歩くと必ず曲がってしまう。まっすぐであると判断がなければ、まっすぐには歩けない。動物もまた、そうである。危険から逃げるときも、曲がって逃げる。すべて、円の動きの仕組みの存在だからで、かたときも止まることのない、ゼロからゼロにもどるうごきであるためである。
生命は死なない為に、生命エネルギーの世界のために人は生きている。肉体が大事なのでなく、生命が大事な為に肉体を大切にし経験をつんでいく。その人生経験が記憶のエネルギーとなり生命世界となっていくために、生命世界を作る目的で人は生まれてくる。生命世界は記憶の現象の世界であり、あの世の世界である。記憶が恐怖の記憶となっていると、あの世の世界は地獄の世界となる。記憶が楽しい記憶、良い記憶となっていれば、あの世の世界は極楽となる。縁でなっていく世界であるため、けっして悪に縁をむすばないことである。人はこういうことが何も知らない為に、さまざまな悪いことをする。死んだら何もかもなくなってしまうと思っているからである。これが、無明である。
つづきは、また
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仕組みを理解すれば・・・

2005-08-27 | Weblog
地球はまるくそして回っている。回りながら回っている。宇宙もまた円をえがいている。どれも皆動いている。止まっているものは何も無い。円の動きがエネルギーの性質である為、永遠に止まることのない動きとなっている。ゼロからゼロに戻る動きである為終わりの無い動きである。すべてが円の形の動きの下の存在である。宇宙も地球もそして人もこの仕組みの下の存在である。科学は進化していくが、この仕組みを超えることはできない。それはこの仕組みの中の存在である為である。分かりやすく説明するとして、仮に超えたとしたら存在とならないからである。神も仏もこの仕組みの下の存在である為、この仕組みを変えることはできない。この仕組みが唯一の仕組みで他にはなく、何百万年たとうが変わることが無い仕組みであると、般若心経の前に序文としてつけられている、「開経偈」の中に説かれている。
すべてがくるくる回る円の動きの仕組みの存在である為、矛盾とならない動きで、まわっているのである。水を空中に投げると、円球の形になるように、人もまた、エネルギー体であり、円球のかたちをしている。回る動きの存在である為、常にゼロからゼロに戻り、無くなることがない存在で人も死んでも生命はなくなることが無く、肉体がなくなっても、生きていたときの経験のエネルギーが記憶のエネルギーとなり、そのまま、現象のエネルギーとなってあの世の世界となっていくとしている。あの世の世界は、円の仕組みの絶対世界であるため、どんなに、供養しても、祈っても一切反応を示さず、変えることはできない。死んでからでは、助けを求めても、救われることは無いのである。だから・・・。つづきはまた
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念をおして・・・

2005-08-26 | Weblog
誤解のないように、何度も繰り返して述べる。般若心経は無になることを教えているのではない。けっして否定の経典ではないのである。般若の般は一般の般で、若は若干名の意味で人数を表している。だから般若とは一般大衆をさしている。般若心経は、「摩訶般若波羅蜜多心経」と言う。摩訶とは摩くうたと訳す。波羅蜜多とは、波のようにゆれていて、蜜蜂の巣の蜜のようにぎっしりつまった多くの苦悩と言う意味である。つまり波のように揺れて、ぎっしり詰まった悩み多き人々の心をみがくうたの経という意味である。経とは、縦と言う意味で、横文字で書かれていた文章を、中国語で縦文字である漢文に訳したものである為に経としているのである。般若心経は難解なものではない。言葉は理解されたために文章として書かれたもので、一般の人々に分かりやすく説かれている。このつづきはまた、
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誤解のないように。

2005-08-25 | Weblog
朝起きて、また昨日と同じことを繰り返していることに気がついてますか?くる日も来る日も同じことを繰り返し、なくなることなく続いていく。ゼロから始まり、ゼロに戻る、この繰り返しの仕組みが円の動きである。宇宙はこの仕組みの存在である。エネルギーの絶対性質となっている。円の動きである為、なくなることなく続いていく。常にゼロに戻る世界である。常にゼロにもどる存在である為に、1日は0時にもどり1時、2時、・・・とまた繰り返す。なくなることなく続く。円の動きの仕組みがなくならないためである。人もまたエネルギーの存在であるため、死んでも生命はなくなることは無い。生命がなくなることが無い為に、自分が死んでも、死んだことがわからず、あの世の世界で生きていく。それが、「色即是空」と説かれている。「色」とは、この世の世界で、「空」とはあの世の世界である。「色は即是の仕組みによって空の世界になっていく」と説かれている。そして「空即是色」として説かれ、生まれかわって、輪廻していくと説かれているのである。この世はこれ空である、などと訳すべきものでわはない。くれぐれも、誤解しないで、訳していかなければ、真実は伝わらない。・・・つづきはまた
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知識を排除して・・・

2005-08-23 | Weblog
自分を見つめなおそうとしている人、もう一度振り返って考えようと思っている人、自分の生き方が分からなくなった人、どうぞ仏の言葉に耳を傾けてみてください。自分の疑問に答えが見つかるはずです。とは言ってもと思われるでしょうが、いまの自分が神様仏様に願い事をしているのであれば、自分の存在が救われた存在でないからである。救われている存在であるなら、神も仏も必要でないからである。
神も仏も絶対善である。善には悪は無い。だから罰が当たるということはない。絶対善であるために、人をこらしめることはないのである。こんな数々の矛盾に気がつくことである。矛盾をなくしていくには、今まである知識を排除して智慧を身につけることである。智慧の身についた判断で見ていけば判断できないことがなくなっていく。般若心経は知識で判断されている為に、誤って訳されている。そのために本当の意味が伝わらず、今まで誰も般若心経で悟りを開いた人はいない。般若心経は苦悩に満ちた一般の人々が、誰でも悟りを開くことができたために、広く大衆に説かれていったもので、文字の知識に惑わされないで、まわる円の仕組みを理解して、それを智慧の判断として訳していけば、正しく訳されていく。けっして釈迦が、舎利子に呼びかけて語っているものではないし、無になることを語っているのでもない。観自在菩薩が、仕組みが縁となり舎利佛の身に現れ、舎利佛の口をかりて語っているのである。命と言うのはこういうものだよと教えているのである。・・・このつづきは、また。
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知識では悟れない。

2005-08-21 | Weblog
おはようございます。またまたいつもと同じ朝が来た。昨日したことを今日も繰り返す。繰り返す仕組みが是であるために、なくなることがなく、これが絶対唯一の存在の仕組みである。エネルギーの性質の仕組みの存在である為に、これ以外の仕組みは存在しない。存在しないことは考えることができない。是と言うのは、日が正しいと書く。日が東から上り、西に沈む日の運行が絶対変わらない仕組みであり、正しいとして是としている。‘これ’と訳すものではない。般若心経はこの是を「是諸法・・」として語っている。「すべての法則は是の中の存在である・・」と語っているのである。これを理解することである。間違って理解しないようにと、般若心経の前に序文として「開経偈」がつけられ、くれぐれも如来の真実を誤解しないで解釈してくださいと、念をおしている。解釈をまちがってしまうと、般若心経は、否定の経典となってしまい、何の力も無くなってしまう。これが、釈迦がもっとも心配した事である。般若心経は悩める一般大衆が救われていく方法を教えている経典である。神様仏様を信じて無くても、修行してなくても、しなくても、般若心経を正しく理解して行為としていくことで、救われていくことが証明されたために仏教として多くの人々に説かれていったのである。偉大なる仏の智慧などと訳しては、なにがなんだか分からなくなってしまうのである。どうか、知識を排除して、智慧の身についた答えで解釈すれば、分かっていくのである。救われていくのである。肉体を持って生きているあいだは、もう遅いということはない。ではまた、
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迷妄をはなれて。

2005-08-20 | Weblog
今日も同じことの繰り返しで時が過ぎた。明日もこんなふうにすぎていくであろうことが予測がつく。それはしあわせなことだろうか?その人の時間の流れの立つ場によって変わるのだろう。平凡であること、過激であること、と心は変わる。律していても、凡人であるがゆえにである。理解していても‘いやはや’である。なにもわかってないのである。わかるということは、難しい。客観的に物事を見ると言うことは、その人の主観である。人は客観的に物事を見ることはできない存在である。人間の隔てきた知識では、真実は見れないのである。くるくる回る円の動きの仕組みを理解して、その思いを智慧として、智慧の答えで見ていくことが、客観的に見ることができる唯一の方法である。智慧を身につけることである。般若心経は釈迦の教えを修行して、悟りを開いて、観自在菩薩と呼ばれた人の、あの世からの啓示で、舎利子の身を借りて語られたものであるため、死後の証明となり、嘘の無いものとなっている。円の動きの仕組みを理解した事が縁となり、舎利子の身に現れて語っている。縁の無いところには現れないのである。悪い縁のところには現れることが無い。智慧を身につけて、智慧の答えで見ていくことである。そのために、自分は愛する者でなければならないのである。このつづきはまた
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