地上の生命が、
滅亡の危機にあるのはまんざら嘘でもないが、
故意に、何かしらの意図的作用が強く働いて危機に直面しても、
地上に君臨する神々がそれを阻止するものである。
すべての神々が、
この地球上から立ち去るなら、もはや滅亡を阻止することはできないものとなる。
あるいは、神々同士がこの地上を舞台に争うなら、
絶滅も否めないものである。それは、人知を超える争いである為に、
一瞬のうちに魂の世界へと旅立たされる。
だから、痛いも痒いも感知することなく、夢の世界となってしまう。
それは、その人の心の質によって夢の世界が現れてくるもので、
現れた世界は、もはや修正ができないものとなっている。
今生の心模様がその人の現象世界となるのである。だから、ある意味自業自得の世界と言える。
そのために、
神々は、善悪双方にして魂の在り方を諭していたものである。
仏陀がこの世を去ってから、優に二千五百年は経つが、
いよいよ末法の世、滅法の世である。
さて、
およそ三千六百年周期で太陽をめぐる星がある。
楕円を描いて回っているために、なかなか見つけることができなかったが、
人間も科学の進歩で宇宙を読み解くようになってきた。もちろん神々の導きがあればこそでもあるが、
十番目の惑星と捉えられている。
本来太陽系には十二の惑星があるのだが、まだ地上に於いては知る由もない。
この楕円を描きながら回る運動に問題がある・・・。
道理は真円にして円満な動きとなっている。偏りのある動きはそのままでははじかれていくもので、
はじかれないでいるには、同じような動きをするもう一つの星がなければならない。そして、
そのつり合いを円満にする
もう一つの楕円軌道の星を必要としてあらねばならない。
太陽はゼロポイントの星である。人間の常識では知ることができないことだが、
地球と同じく地殻のある星である。燃え盛る表面の下には、
地上の様な空間があるもので、当然生命が存在している。
地球と比較にならない大きさを持つために、燃え盛る熱の星に生命が存在するとは思えないのが
人間の科学であり、そして、宇宙から見ての存在が、一秒にも満たない存在でしかないためである。
太陽をめぐる十二の星が、やがて人間にも知れるようにはなるのだが、
地上の時間に縛られてあるうちは、知ることに相応の時間を要することになる。
正義であるかどうかは別にして、神々の導きにより時空を超えることを覚えるが、
過去は変えることはできないものとなっている。それは、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といわれるように、
存在の道理となっているためである。どんなに進化してもそれは変わらないのである。
エネルギーの法則を変える力というのは、他に存在しないのである。
おぉっと、話がそれてしまった。
真円でない動きをするものは、正しい動きでは無い為に歪として、
様々に摩擦を起こしてしまい、終には崩壊してしまう運命にある。
それは、独楽の動きを見てもわかるように、円満に回っていれば倒れることはないが、
摩擦によって力が無くなれば、歪な動きとなりやがて止まってしまう。止まれば独楽としての存在は無くなる。
して、独楽を回していた人は気落ちする。かなしい思いをするという、少なからずそのような影響を受ける。
道理は、すべてに於いて通じるものである。マクロにしてもミクロにしても同じである。が、
その立場、置かれた状態においては、それぞれにはない動きはするものである。
それは、道理が自由から成っているためである。
・・・様々に摩擦を起こしてしまう軌道にあるものが近づいているのが昨今の地球である。
末法、滅法にちょうど当てはまる。
滅亡の危機にあるのはまんざら嘘でもないが、
故意に、何かしらの意図的作用が強く働いて危機に直面しても、
地上に君臨する神々がそれを阻止するものである。
すべての神々が、
この地球上から立ち去るなら、もはや滅亡を阻止することはできないものとなる。
あるいは、神々同士がこの地上を舞台に争うなら、
絶滅も否めないものである。それは、人知を超える争いである為に、
一瞬のうちに魂の世界へと旅立たされる。
だから、痛いも痒いも感知することなく、夢の世界となってしまう。
それは、その人の心の質によって夢の世界が現れてくるもので、
現れた世界は、もはや修正ができないものとなっている。
今生の心模様がその人の現象世界となるのである。だから、ある意味自業自得の世界と言える。
そのために、
神々は、善悪双方にして魂の在り方を諭していたものである。
仏陀がこの世を去ってから、優に二千五百年は経つが、
いよいよ末法の世、滅法の世である。
さて、
およそ三千六百年周期で太陽をめぐる星がある。
楕円を描いて回っているために、なかなか見つけることができなかったが、
人間も科学の進歩で宇宙を読み解くようになってきた。もちろん神々の導きがあればこそでもあるが、
十番目の惑星と捉えられている。
本来太陽系には十二の惑星があるのだが、まだ地上に於いては知る由もない。
この楕円を描きながら回る運動に問題がある・・・。
道理は真円にして円満な動きとなっている。偏りのある動きはそのままでははじかれていくもので、
はじかれないでいるには、同じような動きをするもう一つの星がなければならない。そして、
そのつり合いを円満にする
もう一つの楕円軌道の星を必要としてあらねばならない。
太陽はゼロポイントの星である。人間の常識では知ることができないことだが、
地球と同じく地殻のある星である。燃え盛る表面の下には、
地上の様な空間があるもので、当然生命が存在している。
地球と比較にならない大きさを持つために、燃え盛る熱の星に生命が存在するとは思えないのが
人間の科学であり、そして、宇宙から見ての存在が、一秒にも満たない存在でしかないためである。
太陽をめぐる十二の星が、やがて人間にも知れるようにはなるのだが、
地上の時間に縛られてあるうちは、知ることに相応の時間を要することになる。
正義であるかどうかは別にして、神々の導きにより時空を超えることを覚えるが、
過去は変えることはできないものとなっている。それは、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といわれるように、
存在の道理となっているためである。どんなに進化してもそれは変わらないのである。
エネルギーの法則を変える力というのは、他に存在しないのである。
おぉっと、話がそれてしまった。
真円でない動きをするものは、正しい動きでは無い為に歪として、
様々に摩擦を起こしてしまい、終には崩壊してしまう運命にある。
それは、独楽の動きを見てもわかるように、円満に回っていれば倒れることはないが、
摩擦によって力が無くなれば、歪な動きとなりやがて止まってしまう。止まれば独楽としての存在は無くなる。
して、独楽を回していた人は気落ちする。かなしい思いをするという、少なからずそのような影響を受ける。
道理は、すべてに於いて通じるものである。マクロにしてもミクロにしても同じである。が、
その立場、置かれた状態においては、それぞれにはない動きはするものである。
それは、道理が自由から成っているためである。
・・・様々に摩擦を起こしてしまう軌道にあるものが近づいているのが昨今の地球である。
末法、滅法にちょうど当てはまる。