つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

現象の世界

2006-09-29 | Weblog
夢には現実の事柄がそっくりそのままある。
夢の中でも触れることも、香りを嗅ぐことも現実と変わりなくできる。眼で見た世界がそのままある。ただ、時間と空間を持たない。
確かにある世界である。が、眠ったときでないとその世界には出会えない。それと、
自分の夢には他人が入り込むことはできない。
夢の中の父母は夢の中の父母で現実の父母ではない。
現実の父の夢のなかにも母はいて自分もいるが、それも現実の母でもなく自分でもない。父の夢の中だけの母であり自分である。
その人の記憶の中の人である。
確かにある世界であるが、自分だけしか知らないという感覚で
人の数だけある世界である。
誰でも夢は知っている。でも自分だけしか知らない世界。
どこにあるのかと問われれば、明確に答えることができない。
あの世もそれと同じ世界。
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正しく見えても・・・

2006-09-28 | Weblog
社会的に豊かであっても、名声があっても
病にかかって死ぬ人は
その生き方に誤りがあるためという。
また、事故で死ぬ人もそうだという。
凡人にしてみれば、あんなにいい人が死ぬなんてと思ったりするが、
道理に適っていないためにそうなるという。
学識があっても無智である。

信じる心のある人の病は治せるという。
必ず無傷の状態にもどることができると。
信じる心のない人の病は治せないという。
病におかされ続けて手立ての甲斐も無い。

信じる心とは何だ? それは仏の心があるやなしやという。

根本は誰でも生きたい。その心を読んで、ささやかなことに気を配り、
自分を慈しむ。 他もそうであると我が身に置き換えて害さない。
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因縁所生

2006-09-25 | Weblog
生きていくには何かを食べなくてはならない。
食して命を保っている。
その意味で、食べ物の中に命があることになる。でも、
食べ物の中にはじめから命があるのであれば、まだ食べていないときでもすでに
自分の命はその中にあることになる。
だとすれば、その食べ物をなくしてしまえば自分も亡くなることになる。
食べ物は自分そのもの?となる。・・・でも
そんなことはない。
ただ、因縁所生であるために、そうであるともいえるし、そうでないともいえる
ということだ。
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その場に身を置いて・・・

2006-09-24 | Weblog
偉大な人は
貧しき者には貧しき者の姿をして、その身に寄り添って語りかける。
背をさすり、手をにぎりなでながら 自らその場に身を置き共に歩む。
苦しみから抜け出そうと手を携えて引き寄せ導いていこうとする。
その場の者となり、‘我が身に置き換えて’と行動する。
それではあたかも救いとならないように凡人には思えるが、
よく道理に守られていくために
共に救われていく。 偉大な人。

智慧のない人は、高台に立って物事を言う。
自分の身は安全なところにおきながら、あれやこれやと
もっともなことを言ってただうろうろするだけ
時は止まってはいないのだから

「過ぎたるは及ばざるが如し」となってしまう。
いずれ道理にはねられる。

 
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一味で示すが・・・

2006-09-23 | Weblog
同じ字を書いて同じ読み方をしても
違った意味を持つ文字がある。
その時々の状況によって認識が変わる言葉。
その場を読むことができなければ誤解を生むことになる。

言葉の本当の意味が何かを読み取る努力をしなければならない。
ただ単に文字面だけで判断すると意味不明となる。

たとえば

「どうも」という言葉は挨拶としても使われ、また、喜びや悲しみも表す。
場の状況に応じて意味が反対になる。

仏の言葉には特に多く見られる。
その場の状況によって意味は異なるために、賢く見て 言葉の真意を読み取らなければ誤解する。

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切ないからではなく、 切が無いから

2006-09-22 | Weblog
実に、生まれてくるのは苦しみである。 と 見て、
私は風になりたい。
苦しいとか楽しいとかいう感情も無く、
緑なす田をかけめぐり、そして はるか青空に舞い上がり
また、吹き降りてくる。
あなたの優しい頬を撫でかすめながら、風はさわやかにうねり
自由に自由に気ままに戦ぐ。
あるとき、疾風のように、あるとき、そよ吹く風のように。
私は、ただ、風になりたい。生まれを離れて・・・
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ありきたりに

2006-09-21 | Weblog
生きていれば当然 善いこともあれば悪いこともある。
良いことをしたからといって、よいことばかりに出逢うわけでもない。
悪いことをしていても、いい思いをしたりもする。
(ただ、悪いことの中でのいい思いは、後 倍の悪果を受ける)
必ずしも 因がそっくり果と成るとは限らない。

因果応報は間違いなく正しい。

行為の報いは必ず受ける。それはよい面で報われたり、悪い面で報いとなる。
必ず受けるものであるために、その意味で行為の果は決定されたものである。
ただ、改めて善行に努めていけば、起こされた悪行の果は、
もともと受けるはずの果よりも少なくて済む。その意味で、果は不定である。
必ず受けるものであるために、行為の果は決定されている。
ただ、善行を為しても続けていかなければ、為された善行の果はそれほどよくは無い。 だから 日々修行なのである。
善行、悪行共に続けられていくことで、善行善果、悪行悪果として
因果応報となる。
決定ではあるが、継続の如何によって、また、改めの如何によって
不定という決定を受ける。
諸行無常の中に在るために、修行し続けていかなくてはならないのである。
少しでも良くなるために、より善い中にい続けるために。
きわめても、続けてなければ保つのは難しい。
達観した者が修行し続けるのは道理にかなう。

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あぁ~、住みにくい

2006-09-20 | Weblog
空気をよめない人がいる。
場の雰囲気をつかめない?人という感じ。
だから、そ~っと退いていくことなく、かき乱して去っていく。
「飛ぶ鳥跡を濁さず」 そんな人が実に少なくなった。
義理に欠けていく世は住にくい。(>_<)

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未完成なもの

2006-09-19 | Weblog
一喜一憂、普通にそんなふうに人は思い暮らしています。
喜怒哀楽に生きているのは、何か人間らしくて嫌いにはなれません。
未完成なものには秘密めいたものがあり、魅かれます、惹きつけられます。
人は完成されたように見える未完成なもの。
ぎこちなくて、でも懸命なのは愛されます。幸せに近い人。

何かに長けていくと心に動揺がなくなります。
優れた人は落ち着いています。
でもそれは表情が冷たいと思わせるものではありません。

奸知に長けると表情は笑っていても冷たく、そのまま意も冷たい。
六感として伝わる。
人は未完成であるために、未知なるものがある。
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ある基準をつくるために・・・

2006-09-18 | Weblog
私は仏教徒ではありません。
クリスチャンでもありません。
何かを信心するものでもありません。かといって、
何かを信心しないものでもありません。

五体満足でなければ不幸せ?というものでもないでしょう。もしそうであれば、
五体満足であれば幸せ?ということになります。はたして、
現実はそうでしょうか?
他から見て、不幸せと思われることは、他のものさしだけで見たもの。
他から見て、幸せと思われることでも、そう見られた人は幸せとは限らない。
えてして・・・。
何かの基準で見た人は、そのつど喜怒哀楽に心ざわめき、安らぎを得ることがない
とおもわれる。
私は凡人であるために亦そう思う。
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