つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

成り行きは愛をもって

2020-02-28 | Weblog
濾過性病原体も生物である。
生きるために変化に対応する。
途轍もない速さで生死を繰り返しながら順応性を得る。
そうして、変化に応対し進化していく。
その反応は、存在の為の抵抗であり耐性となる。
一時消滅したかのように見せて、形を変えて悪縁和合の基再起する。
ただ残念なことに、癌細胞のように巣くったものを滅ぼし、自らも絶える。
が、悪なるものが蔓延っていれば、これ幸いと現れてくる。それも俄かにである。
そこに気が付かなければ、現れてくる病原体は更に進化し、
濾過性を有して脅威となって混乱を招く。
天網は天帝のみ作れるもので、人には無理にしてあるために、
人の作る網の目は、微生物をいとも簡単に通してしまう。
どんなに重ねても恢恢となり通してしまう。
解決は愛を持ってのみ終息するが、今のままでは理に無いと察する。
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心根が優しい人であるなら安心である。

2020-02-28 | Weblog
意識はエネルギーである。
エネルギーは円運動となっている。
回るものである為に、宇宙は円い。
この下の存在である。
宇宙は意識でできている。
廻りゆくために変化が生まれ、変化が刺激となって反応する。
どんな刺激に反応するのかはそれぞれの質に由る。
それが個々の意識である。
意の識の質は自由であるために、識したことが正義となって回る。
エネルギーに悪も善もないためである。
もし、善悪を思うならば、悪は無くならない。
思わなければ、エネルギーの法則に適い、絶対たる善となる。
この世の中は、人の善悪で回っていると意識してあるために、悪なる世界が止むことが無く、
悪によって善が確かめられる必要悪の世界となっている。そのために、
地獄の中に仏を求めて探し回り、いつまでも矛盾を解決できないでいる。
自分がなぜこの世にあるのか?はエネルギーの法則に無知であるためで、
それも劫の時を与り、一時を得る奇跡にも値して現れているのであるから、
人生を、ただ日々の生活にやり過ごすな。無知を破るために生きなさい。
そのためには、愛を知り、身につけることである。

「福の神と貧乏神の譬え」を知るなら、不意なる死王に見られることなく、
寿命を迎えられるものである。
寿ぶいて命を、魂の真実の世界へ運ぶことができる。
この世は欺瞞に満ちていて、だから、執着するな。
寿命として終えると思うことである。
何事も自分の作った縁である。
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忖度

2020-02-28 | Weblog
神々に欺瞞は通用しないのを知らずに、約束をする。
正義が破られた時、大いに痛みを受ける。
多大な犠牲は払われるが、自業自得である。
常に相手を敬って、道徳に沿うことが賢明であるが、
偶者は相手を見くびり、損得だけにはかるために、害を受ける。
意識は反応である。我が怪しいために怪我をするもので、
何度となく怪我をしても、学習することが無いために、
その場しのぎで忘れてしまう。
過去の事実は、何を持って現れた事柄なのかを、偶者は知ることがない。
怪我をしたことを思い出せば、何をすれば早速たる回復にあるのか知れるだろう。
そうでなければ、必然害は繰り返されて被る。
偶者は、愛が自分の為だけにあるものだと思い、
愛することはせず愛されることを望む。
愛することをしないものに、愛は縁を結ばない。
愛は無償にして存在している。
この世界に愛は無くなりかけているために、
急速にしぼみ欠けている。もはや待ったなしである。

他人の気持ちをおしはかる=忖度と辞書にある。
あなたが愛を求めるように、誰しも愛を求める。
弱者程愛を必要としていて、強者はまた弱者に助けられることを知ることである。


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情実

2020-02-27 | Weblog
爆発的に、時に粛々と、脅威たる威厳を
侮りに油断を持たせて驕りを破る。
受の世界は反応によってさざめく。
反応は意の識にして、無知にしてざわめき、大いとなる。
塞翁が馬は、自身の反応、意識にある。
ただ、意の識の恵みに与れないのは、道徳を知らないからである。
知恵にして、無私にあれば安心である。
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他人の為ではない自分の為としての生命である

2020-02-26 | Weblog
愛情なくして存続はできない。
欺瞞に満ちた社会は、愛情の有無を試された。
本当にそれで(いまのままで)よいのか、と。
偽りの世は、人の為として偽善社会を作り上げる。

人は誰でも自分の為として生きている。これが真実である。
他人の為として生きていけば、自分は生きていけなくなる。
世の道理である。

真実を偽っていたのでは、すべてが虚実となって正義となってしまう。
そうして、
人の為として生きていけば、自分は生きられなくなっていく。
総じて自分が後回しとなっていくためである。後回しにしていれば、
何もかも手遅れとなってしまうためである。
人は誰でも自分が愛しい。だから、
自分の為としての他の為としていくところに、真実に適う。初めて自分は生かされていく。
つまり、優先順位は他の人を先に思ってこそ自分は救われていく。
自分が一番大事だから、他を優先的にすることで自分の為となっている。
この順番を間違えて、自分を愛しいものだから、我先にとすれば、
自分は生きられなくなっていく。助かるように見えて助からないのである。
虚実のなかに埋もれては、真実が見えなくなってしまうためである。
だから、人の為と書いて偽りと読む。
人の真実は、自分の為として、世のため他人の為として生かされている。

現代、虚虚実実にありて、堂々と生きる風潮に無く、
愛を唱えながら、口先ばかりで行動が伴っていず、弱肉強食の畜生の世界と変わらない。
これほど進歩していながら、道徳を置き去りにした社会は転換を余儀なくされている。
その方法は、人災からくる天地の混沌である。
愛情の真実がどれほど芽生えられるかで、事態は変わるものである。
未来は不定であるために。
愛は、ただ与えて見返りを求めずして存在しているのである。

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寿ぐ命

2020-02-23 | Weblog
意に反してこの世を去るのは寿命ではない。
寿ぐ命であるために、
健康であれば、健康に死んで行けるのである。
宿した命を運命として、一生懸命に生きたと思うなら、それでよい。
健康に死んでいけるというのは、怖がることが無く、
苦しむことが無く、穏やかにして旅立てるということ。
心が健康であれば、誰にも迷惑かけることなく、静かに旅立てるものである。
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我に克

2020-02-23 | Weblog
この世にあれば、いまだ迷える魂であるために、
なぜ生まれてきたのかを考えてみればよい。
この世は一切が苦である。多かれ少なかれ喜びはあるが、ほぼ苦にあって人生を送るものである。
僅かな喜びを幸せと思う哀しさは、一切皆苦という意味を理解していないために、
苦の中からのみ喜びが生まれてくるものであると信じて、またそのようにあるために、
苦しんでこそ有意義にある人生であると固く信じる。苦楽が共にあるのが人生であると疑うことがない。
だから、人生は苦に満ちていて当たり前で、この世が地獄の様相にしてあることを微塵も思わない。
この世に生じてくることが、一切皆苦であるからこそ、生まれてくることを望むなと仏は諭した。
生まれてくる行為を滅してさえいけば、苦を受けることが無くなる。
この生涯、そのことに気が付いて、善く心を調えよ。
行為は心を主とし、心にもとづき、心に付き従う。そのために、
心を善くととのえて制御できれば、この世に生まれてくる行為を滅っすることができていくが、
吾が心程抑え込むのは難しい。
心は自由にして、あてどなく彷徨う。



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悪心を抱くな

2020-02-22 | Weblog
もしも、目に見えないほど微細なものに、
意識があるものがいたとしたら、そして、それが
凶暴であるとしたら、それほど脅威となるものは無い。
化合と遊離を自由にして環状体状にあり、周縁の和合のもと現れる。
大衆の意識が、邪に大いに傾き始めて現れる。そこかしこ浅ましき光景、
不正、不倫、虐待、嘘八百、等々等きりが無く、争いは止むことがない。
悪なるものは悪なるものに繋がる。世の道理である。

エネルギーの法則は般若心経に説かれるように、
「色即是空 空即是色」という円運動の自由となっている。
その運動による変化の刺激を受けて、様々が出来上がっている。
そのために、この世の中は「受」の世界となっているもので、すべて無常である。
この無常が常住として法則となっている。だから、
無くなることのない運動となっている。
般若心経で「無」の文字が頻繁に出てくるために、心経は否定の経典であると解釈されてしまったために、
世の中の現象、その実態が幻であるとされている。
自分という実体がありながら、この実態は幻想であると解釈されてしまったために、
何もかもが矛盾となって、わけがわからなくなってしまった。
仏という人でないものが説いたものである為に、とても難解で、
仏にしかわからないものであるとなってしまった。
そのために、すべての文字が正しい意味として伝わることなく、
音を訳されたものとして充てられた文字となってしまった。
梵語では、般若はパーニャと発音、知恵という意味であるとして、
般若心経が知恵の経典となっている。
しかし、知恵とは何かもわからず、仏は何を覚ったのかもわからないまま、
ただ仏が説いたものであるから正しいものであるとして、広まっていった。
ちんぷんかんぷんでも、読誦していれば後利益があるとして広まっていった。
もし、あなたが意味不明な言葉で語りかけられても、分からない。
たとえば、日本語の人に英語で語りかけられても、通じてこないのと一緒で、
意味不明となれば何の効果も期待はできないことになる。
仏が偉いものであるなら、偉いものは相手のことを察して、
通じる言葉で語りかけるのではないだろうか。偉ければ偉いほど、
頭脳明晰であればあるほど、相手のことが理解できて、瞬時に、
相手にわかりやすいように語るのではないだろうか。
たとえば、送信機が性能優秀でも、受信機がどうもおぼつかない状態にあれば、
上手く受け取れないものである。あるいは、間違って受けてしまったりする、となる。

仏は、「無」の文字をおそらく、間違って解釈するのではないかと察してはいたために、
心経の経文の前に序文を付けて、仏の真意をどうか正しく解釈してくれるようにと願った。
それが「開経偈」である。心経は大衆に開かれた経であるために、
どうぞ正しく読み解いてほしいという願いが込められている。
心経は大乗経典の集大成であるために、序文がつけられたのである。
どうか間違って読み解かないでね!という仏の願いである。が、
案の定、人は間違えた。
「無」の解釈をそのまま「ない」と訳して、すべての現象がまぼろしであると
理解されてしまった。実体が否定された世界は、何を信じてよいのかわからなくなって、
そのために、幻に執着するために苦が生まれてくると、
もっともらしく理解不能のつじつまを合わせた。この世は幻であると・・・。
間違った世界には間違ったことが起こる。次々と。だから、個人にして、
間違ったことを理解して、人生を正してさえいけば、意に反して死ぬことは無い。
人の世は無常である。絶対死というものは訪れるため、このことを真実に理解するなら、
意に反さないで死ぬものである。
死は再生の始まりである。魂のやり直せる機会を得るのだが、
この世が一切苦しみであるように(わずかな喜びとほとんどの苦しみとを一から学びなおして歩む)
こんどこそ楽しく暮らそうと思うこともないまま、と、ならないようにだが、
一切の記憶を忘れた状態にして生じて、亦苦を背負う人生を送る。
だから、ただ思い出せ。円運動である人生に、魂は連綿であると!
宿命としてあるエネルギーを、運命として変えられるものであることを、
そうすれば、輪廻から解脱できる生き方、人生を送れる者となる。







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気に(と)しない

2020-02-21 | Weblog
きたないものにはきたないものが集まる。
きれいなものにはきれいなものが集まる。
これは世の道理である。

この世の中は、相対的にある。
常に対して存在を得るために、そこに意識を置き、
対する物事を識し、更に同一にして思うにあれば、
道理に適い好都合となる。
実態にあれば無にすることはできないために、
想像に於いてプラス思考とし、不都合を思わなくする。
不都合を気としないことにある。
気にすれば実体となって絶対となり、活き活きとなってしまうためである。
気としないこと!
そうすれば、自然と正されていく。
「病は気から」は正しいが、そうは言ってもと思う心に、
果は現れてくる。
自らの心ほど制することは難しい。
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縁を覚える

2020-02-19 | Weblog
人に悪人と善人がいるように、神々にも悪と善がある。
人が神と呼んでいるのは、人類よりも知的に優れた生命体である。
それも、はるかに遥かに先んじて進化した生命体である。
その能力は、人類など及びもつかないほど優れている。そのために、
人は神と呼んでいるが、全知全能たる存在そのものはエネルギーの法則には存在しない。
あえて言うなれば、エネルギーの法則の根本である自由という性質がすべての存在を司っている。
だから、神という名を付けるならば、自由エネルギーが創造神ということになる。
全ての存在がこの自由エネルギーの下の存在である。
あなたの意識にある神とするものも、この法則の下の存在であるために、全知全能ではない。

自由が神としてあるために、どのように自由を理解するかが要である。
どう理解するかは当然自身の自由である。
その自身の自由で現象となっている。
人という意識の現象が大衆和合(衆縁和合)して、世界が現れてくる。
どの様に思うか、思ったかという意識によって現象となっているために、
自身の意識が変われば、自身の環境現象も変わっていく。
そう心得て、今まで生きてきた常識(知識)を外して、知恵でもって意識することである。
知恵の判断は道理を経た判断であるために、誤りのない判断となっていく。それは、
道理に誤りが無いためである。
たとえば、あなたが一輪車を乗りたいとして、乗れるようになるための知識(情報)なる方法を教えても、すぐに乗れることは無い。
あなた自身が何度となく練習をして行かなければ、決して乗れることは無い。
知識を教わっても知識だけでは乗れることは無いのである。
意識の肉体を通しての経験、それもあなただけの持つ感覚(コツ)が必要となってくる。
これが付かなければ決して乗れることは無い。乗れるコツはあなた自身だけのものである為に、
乗れるようになった方法を、返してくれと言われても返すことはできないし、ずっとあなた自身のものになる。
そのために、どんなに長い間乗っていなくても忘れることは無く、またすぐに乗れてしまう。
これが知識ではなく知恵なのである。知の恵みは、あなたの徳となっていくものである。
一度身に付いたものは忘れることが無く、自身のものになる。
知識は、自身が経験しなければ、やがて忘れてしまう。
知識を滅して、自然の道理に学んで知恵を付けていくことである。
邪な心には害が寄ってくる。道理である。反応するかしないかは、自身の心(意識)次第である。自由。



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