つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

幸せを考えて観る

2006-10-31 | Weblog
「自分は豊かで楽に暮らしているのに、
老いて衰えた父母を養わない人がいる、・・・これは破滅への門である。」(ブッダのことば)

いかに才能があっての努力の賜物かもしれないが、豊かになっても施すことを知らず、身に抱え込む者は、その数倍苦しみを味わう。後のことではあるけれども。
ただ踏み込む足元はすでに、崩れ去る道にある。

強い者は弱い者をいたわり、力あるものは その力によって分け与え、
身に余ることの無いようにして、初めて幸せをみる。それは後にも見続ける。
少しの身なれば、その身なりに余計なものをもたない。
人の身なれば皆、同じ身、小さな身。
両手に持っても知れたもの、背に負っても知れたもの、
持ちすぎることはできず、背負いすぎてもつぶされる。

豊かになったら、成ったなり分け与える。
「与えよ、さらば与えられん」というように、幸せはめぐる。
豊かになりすぎれば、幸せでいられることは無い。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」であるために、
度を越してしまうこと、いわゆる度も過ぎてしまえば適わない。

度量だけは大きく持てる。度量は広くあってあまることが無い。
度量の大きい人になれ。優しい人になれ。

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自ら然るべきこと

2006-10-30 | Weblog
律して生きる。
自らを律して生きなければ老いる価値が無い。老いて、
ただの白髪頭のよぼよぼの人。
生まれたから生きるのではなく、死ぬのが嫌だから生きるのではなく、
という、ただ生きていくのではなく、生きてきたのではなく、生きているのではなく、無智を知り、無智をなくして、自らを戒めて、自らを厳しく律して生きる。すると、
自らに然りとなる。自然(じねん)というは自然(しぜん)という。
智慧は自然から学び、自然から得られる。自然と得られる。
自ら然るべきこと。
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独り

2006-10-29 | Weblog
「生ぜしもひとりなり、死するもひとりなり。
されば人と共に住するもひとりなり。
そいはつべき人なき故なり。」(一遍上人の言葉)

私はあなたになることは無く、あなたは私となることはなく、
どこまでも独りであるために、とりまく人達と共に笑い、悲しみ、励ましあって
生きていく。独りではないかのように錯覚させて。
影響しあいながら、あるいは、影響しあっているようにみえながら
最初も独り、最後も独り。
独りであるために、周囲に優しくならなければいけないことを知り、
自分をよくよく磨き自分にたよる。もと、なにものにも負担となることのないものであるために。
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エネルギーの性質

2006-10-27 | Weblog
太陽の恵みがあるために 生命が育まれていると思うのは
間違い。太陽の恩恵が無くても、それなりに生命は生まれる。
宇宙はバランスで成り立っているのではない。それぞれが影響しあわないで存在している。もし引力があれば、大きいものほど引力は強くなり、周りにあるものをすべて引き寄せて、呑み込んでしまうことになる。
宇宙は干渉しあわないために無重力となっている。
ある星が爆発を起こしてなくなってしまったとしても、バランスが悪くなって
すべてが狂ってしまうということは無い。全体は互いに影響しあうものではない。
光の速さと同じ速さで宇宙は回転している。回転しているために変化が創られ、
時間が作られている。回転が無ければ変化は無く時間も無い。回転しているために、すべては丸い形となり、0から0へ戻るようになっている。
宇宙は光速で回転しているが、回転していることに気がつかないのは、同じ回転の中にいるためで、同化しているから。同じ速さで皆 回っているから、止まっているように感じるだけ。わからないでいるだけ。
この回るという動きが生命の輪廻となっている。宇宙の存在は円という動きで創られ、因が縁となって事象、現象となっていく。
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「ある」とするために世界となる

2006-10-26 | Weblog
時間と共に無かったことがあるようになる。
不思議だと思ったことでも、そうでなくなる。
すべてがあると思えばある世界。無いと思えばない世界。
もともと無いものは何をしても無い。有となることはない。
もともとあるために、時が、因が、縁が、条件次第で重なって像となって現れる。
知らないでいるだけで。
知ろうと思えば、少しずつでも見えてくるものだ。要である手立てが、そして、そのものが。
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変わるという変わらない性質

2006-10-20 | Weblog
ただ変わりなく日はめぐるだけである。
変わりなく訪れる一日の中は、めまぐるしく変わりながら、という変わらない
一日として変わっていく。
昨日あったものが今日は無い。今日無いものが明日はある。というふうに
繰り返されていく。
山があって、川があったという景色は、その間に建物がいろいろできても、いずれ
山があって、川があったという景色のままになる。
誰かが掃除をしたわけでもないのに、自然は整然と美しい。
ただ物事は時間と共に乱雑になっていくように見えるが、また 確かに乱雑になるが、整然と美しい自然となる。
無常という常住の常住は、浄化の法であるために、きたないものは無くなっていく。如来という性質であるために。
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精進料理のわけ

2006-10-17 | Weblog
仏は言う。如来は法である。
法によって一切の生命は創られている。だから、
生きるものすべてが一子のごとく想うのである。
なのに、どうして わが子の肉を食べられようか。教え子に
肉を食することを進められようか。許すであろうか。
肉を食するものは獣に住する。
汝が人でなし、獣であるなら それもよかろうが。
解脱を求める者には妨げとなる。と。
世において、この道理に気がつかず、肉を食する論者たちは、
肉食は罪無き汚れ無きと説き、仏も認めるものであると語る。
これこそ迷える者たちであり、穢れの者たちである。
悪なる者たちである。と。
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合わせて

2006-10-14 | Weblog
難解なことがよく起こる。
そのまま難しく考えてしまうと こんがらかって、更に難しくなってしまう。
分数の計算で分母の違うものをそのまま足算、引算はできない。
もし、知らないでそのままのかたちで計算したら答えは間違う。
分母をあわせてから出ないと正しい答えは出てこない。
あるいは、複雑な形の面積を求めるときも、計算しやすい形になおして
考え、計算していけば求めやすい。
何かに合わせて考えていく。簡単な考えやすいものに置き換えてみる。
算数、数学は考え方を教える。難しいものをできるだけ簡単なものに置き換えてと。
そうすれば、割りに早く正しい答えを見出す。
人生、計算どうりにはいかない。それは、算数、数学と同じように考え方を知らないからである。
分数の計算のように見たままを そのまま計算しても間違いとなるように、
幸せを求めても術を知らないと求められない。
だから、こう考えて、こうしていきなさいよと仏は教えているのだが、
疑って信じないために、いまだ迷いの生を受ける。
神は言う。「信ずる者は救われる」と。
仏は言う。「信心あるものは救われる」と。
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一生懸命と一所懸命

2006-10-13 | Weblog
一生=その人が生まれてから死ぬまでの全時期。
懸命=力の限りを尽くして がんばること。
 と辞書にある。
一生懸命=生まれてから死ぬまで、力の限り頑張ること。ということだろう。
一生懸命になることは並大抵ではないことと分かる。
何時もいつも頑張ることはとてもできるものではない。
まして生身の人のからだ。
ホット息をつくことがなければ くたびれてダメになる。
一生懸命は適わないこと。
そこで、
一所懸命とした。
一つのところ、場において懸命になる。そして力を尽くしたら
一休みする。そして 次の場においてまた力を尽くす。
そのようにして連ねることで懸命は生きる。
一所懸命として生きていくことは、やればできることである。
一生懸命は、やってできるものではない。
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知識と智慧

2006-10-12 | Weblog
4歳頃から幼稚園に入って、小学校、中学校、高校、大学・・と
知識を学ぶ。
知識というのは、他人の経験を正しいとしての証である。
自分の経験でないものを正しいとして学んでいく。
それが知識である。
他人の経験であるものを学んでいくために、常に他人に気を使い意識していく。
「人の振り見て我が振り直せ」として
他人の行いに振り回されてしまう。
知識が誤っていれば、その誤っているものを正しいとして学んでいくために、すべてが誤っていく。その誤りが正しいとなってしまうために、誤りを正せなくなってしまう。
その知識でつくられているのが社会である。
その社会の歴史は争いの歴史。地球上のどの国も紛争と殺戮の繰り返し、
戦争の歴史である。
往々にして戦争は悪であるという人達によって争いは繰り返されてきた。
自分が車に乗って大気汚染をしていながら、環境破壊をうったえる。
家畜の肉をたべながら、動物愛護を唱えるというよなもの。
自分が悪いのではなく他人が悪いためにとしていくために事は起こる。
矛盾に気がつかない。

智慧は知識とは違う。
智慧は自分の経験で得たものである。
自然は道理である。その自然と共に暮らし、自然に学んだものは
智慧の身についた判断となっていく。道理の判断である。
道理に適っていくために、よく道理に守られていく。
そのために、知識を滅していき、智慧を身につけていくために
社会を離れ、自然である山に入るのである。出家するのである。
そうして過去、仏たちは悟りを開いた。道理を観た。

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