つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

意識次第

2022-11-27 | Weblog
地球は八紘一宇であるが、それぞれの個性が寄り集まっての一つである。
それを統一してはならない。
様々という自由をもっているが、その自由は根本善である。
その自由の個性を奪うことはできない。

世の中には非道な活動をする者がいる。
それは頭の回転は好くても道徳には疎いという最大の欠点がある。
生命エネルギーの致命的であり、淀み処にしか存在しない。ゆえに、泡沫であり
絶望的生命である。その絶望の間に同化しているために、一切の反省は無い。
彼らにとってはそれが正義となっているために、苦を当然としている。
彼らの進化は悪の進化である。つまり、現れては消え消えては現れる苦を善とする。
救われることのない生命エネルギー体である。
この宇宙には、このような非道な生命も存在するのである。
このことを理解して、正義とは道理にしてあるために、
善悪の転倒をしてはならない。
宇宙の存在は善悪のない意識の存在である。
善も悪もないのである。



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意識の要、自覚

2022-11-25 | Weblog
自分が意識生命体であると自覚できるなら、
物質的世界から抜け出し、自由な世界、束縛されることのない世界へ
行くことができるだろう。それは、まるでミクロな世界にある「トンネル効果」を
このマクロな世界において体験することができていく。
それも自分の意識の赴くままで可能とする。
意識生命体には壁たる障害は無い。障害を作るのは意識の無知と言うか、
自分を騙して無理とする思いをするためである。
想像の中に自由を取り入れ、無理ではないとする幻想を本物とすることである。
肉体には縛りがある。しかしそこに宿る心、意識は物質ではない。量子的エネルギーである。
本来の生命エネルギーである。
いずれ肉体から離れる時が来る。その時、意識生命体であるとする本来の自由によって、
輪廻転生から唯一離れられる。意識生命体はエネルギーそのものであるために、消滅という事がない。
エネルギーには、無くなるという事がないのである。なぜなら、円運動の自由にあるためである。
永遠に続く!
この自覚を持つことで、意識は物質に宿ることがなくなる。
意識生命エネルギーであることを思い出す事である。
私達は、心によって心に付き従い生きている。それを思い出し信じることである。
肉体という物質ではない。物質に囚われるな!心が隷属から離れられる唯一の方法、方便である。
どう思うか、意識するかである。要である。

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存在のエネルギー

2022-11-23 | Weblog
この宇宙は円運動の法則でできている。だから、すべてが円の姿を為している。
円いのである。そのために、始まりと終わりが一緒になっていて、永遠に繋がっていく。
この運動が自由のエネルギーであるために、無くなることがない。
地上の一日がそうであるように、明日は絶対やってくる。絶対やってくるために、生命は絶対存在となって生きていく。
明日が信じられるから生きていけるものとなっている。それは環状帯状エネルギーである。
そのエネルギーは、「ある」とする自由意識である。自らに由る意識エネルギー存在である。
私達はそのエネルギーから作られている。だから、生命も無くなることがなく永遠である。
この回る運動に由る変化が刺激となって、それぞれの生命エネルギーとなっている。
それぞれの刺激に対応したエネルギー姿形である。
私達の生命エネルギーは、魂という形あるものではない。物質ではない。そのために物質という肉体を作り、
そこに宿ってこそ行動ができていく。その行動の経験が記憶となりエネルギーの増大を促す。
行動の経験が知識となり記憶となっていく。知識が誤っていくと誤った記憶となって蓄積され誤った知恵となっていく。
誤った記憶の蓄積は悪智恵となる。
エネルギーの法則、円運動には人の思いにあるような善悪など無い。善悪は人の思いである。
エネルギーの法則に善悪は無いために、法則は絶対善の法則となっている。
これは、悪いことがなければ善いことであるとした自由である。
これが正しい義(いみ)である。そのために、性善である法則にそぐわなければ、必然弾かれてしまう運命にある。
この自由を画策して、悪智恵を働かせた世界は地獄を作り同化してしまう。
地獄であるにもかかわらず、気が付かなくなってしまう。
が、法則は絶対元に戻る。ゼロに戻りゼロから始まるものであるために浄化の法ともなっている。
そのために、わざと企んだ物事も必然崩壊していく。浄化されて綺麗になる。
それがこの世の今時分、一日が終わり新しい一日が始まるように変化する。その変化は浄化である。
ちなみに、自由はどんな力に於いても変えることはできない。
いっとき、人の思いの悪智恵でその方向に向かわせても、必然悪智恵は滅する。
エネルギーの法則は、絶対善の法則であるために、存在に与る。

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追憶

2022-11-19 | Weblog
いま世界はうつろな輝きである。
もうじき深い霧が晴れる朝日が昇る。
栄枯盛衰は世の道理である。いかなる事物も物事もこの道理にある。
およそ300年という物理周期も終に近づいてきた。
企てられた画策は、舞台裏で崩れ始めている。
内側から崩れ始める事物は筋道にして物事に通じていくために、必然ガタガタに歪んでしまう。
立っていることさえ難しい。いまその岐路に立つ。2022という数字の羅列、と11,12,22,23,24,30,31の内に、
80という億人の記憶が、宇の意識に通じる時、それぞれの自由(自らに由るという意識)に分かれ、虚空に帰る。
彷徨えるものと故郷へ帰るものとに、天網の恢恢にして通り抜ける。諦かに素に帰る。それは、
自由を深甚しなければならない。
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少数は貴

2022-11-17 | Weblog
優れているものは少数。
どうでもいいものは多数。
価値あるものは少数。
無価値なものは多数。
常識としてあるものは多数にしてあるが、
非常識としてあるものは少数。
どこに
良い悪いを決めるのは多数にして決められるが、
多数が誤っていれば転倒した社会が現れる。
善が悪で悪が善となれば、すべてが悪だらけ、
地獄というのは、そういうところである。
悪が善となって正義となるために、正されることがなくなっていく。
どうか(同化)している社会、世界となるために、気が付かなくなってしまう。
気づくことがなければ、反省されない世界となっていく。
いまその時点に来ているが、法則の正義は善悪がないための絶対善の法則であるために、
必然正されていく絶対世界である。
この世は曖昧であるために、善悪どちらもあるが、あの世は記憶の現象世界であるために、
物理的な肉体はもう存在しない。記憶の現象肉体である。
そのために、記憶が正しい記憶(道理をよく知って善悪など無いとした法則)であれば正しい世界となって
善の世界、つまり極楽の世界が現象する。絶対であるために、この世のように曖昧は無い。
対するものがない極楽だけである。
この世でそう覚れるのは少数。貴重であり気高いものである。


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あきらめる(明らかにする)ということ

2022-11-13 | Weblog
諦めるという意味は、途中で投げ出してしまうという意味ではない。
真実を明らかにするという事だ。
そのために「諦」の字には、「言葉」という文字に最高を表す意味の「帝」の字をつけて、
言葉の最高を表している。言葉の帝である。言葉の文字で最も位が高いことを意味している。
諦かにすることができれば、何もかもが知れてくるという事。つまり、道理を見る、知る事だ。
諦念というのは、物事の道理を覚り、あきらめの境地(迷いを去る)という事だ。
自身の念いが迷わないから、瞬時物事の判断が付くのである。
諦めるを正しく理解して、諦めて生きることが人生の目的。
知るを正しく識別して、道理が身につけば知の恵みとなり、それこそ智恵の身についた判断となり、
全てに正しい判断となっていく。瞬時、直感、誤りのない判断となっていく。
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愛は宇の意識

2022-11-12 | Weblog
予告されたことは必ず守られる。
心配はない。
思いやりのある人には朗報である。
意地汚い人、意地悪な人、疑り深い人、悉く嘆き悲しむが、今までの意地の悪さに報いは来る。
相応以上に!だから、歪なことはするなと昔から言われているではないか。それは、先人たちの
経験から来ることで、まぎれもなく真実である。私達は、常に過去を作りながら進んでいる。
どんな過去を作るかは自身の心次第である。誰しも生まれてきたからには幸せになりたいと思う。
ただ、幸せと不幸せは一対である。そのため、幸せと不幸せは交互に繰り返される。それがいやであるなら、
幸せも望まなければ不幸せも来ない。つまり、今生きていることへの感謝さえあるなら、それが普通であり善いことであるとする
なら、不幸せになることは無い。今より向上していくだけである。そして、落ちていくことは無い。
今を生きている事に感謝を忘れなければである。ただそれだけである。
信じるものは救われるというのは、自身の心が善い心であれば必然である。
いずれ死に行くものであるが、死してまぎれもなく「絶対」に繋がっている。
世の道理であるために!
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心あれば、自ら知る者である

2022-11-11 | Weblog
歌は聞かせるもので見せるものではない。
激しく動きながら歌うのは本物の歌唱力は伝わらない。
心に響く歌唱力、心を揺さぶる、感動するというのは、
心を込めた(集中)した動作でなければならない。そこには聞かせるという動作であり、
見せびらかす動力であってはならない。静かに詩のリズムに語り掛け、
乱さないように整える力量は静力にして、心を揺さぶるものである。
聞かせるように見せびらかすのは嘘をついているようなものである。
嘘といえば、昨今、動作を写されているのに、平気で噓をつく大臣がいた。
実写があるにもかかわらず嘯く。厚顔無恥も甚だしい。更迭されたはいいがすぐまた要職につく。
気違いが実権を握ると様々におかしなこと、変なことが起こる。
まさに今はおかしな社会、世の中である。世界中が変な世の中であれば、
必然それは崩壊に向かう。確かにどこもかしこもどうかしている。
悪いものに同化してしまえば、気が付かなくなってしまう。
今はそれが顕著に表れているが、それは、崩壊目前の現象。
悪いものは、消える寸前のロウソク火のように、あがいている証拠。
心ないものは、ゆえに自業自得を迎える。仕方が無い。どうしようもない。
これから粛々と裁かれていく。消えていくのである。
心ある者、眠りから覚めて、束縛から解き放たれる。が、すこしでも心ある者だけである。
要領がいいのは無理。
貴方は、どうだろうか?どうかしてますか?
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真(新)じるものは救われる

2022-11-09 | Weblog
人それぞれに終を迎える一生涯。そこに、まぎれもなく美しさを刻めたろうか?
顧みて、人に恥じない生涯を描けたろうか?いや、誰にも一つや二つ、三つや四つ哀しく刻んだ時があるはずである。
それは若気の至りにして、普通のことである。決して悔やまれることでもない。年を経て
鮮やかに描きなおされた人生の道筋があるならば、胸を張って誇ればよい。
過ぎ去りし時というのは仕方が無いのだから、これからを正せばよいだけのこと。
「過」というのは、あやまつとも読まれる。私達は常に過ちながら生きていく。だから、過去は水に流して、
正しく未来を作ればよい。過ぎ去った物事は二度と帰っては来ないのだから。
正しく未来さへ作っていけば、永劫に繋がっていくのだから。
月が隠れて天王星も隠れて、稀に見る事態が赤黒く放たれた夜の光に、新旧入れ替えを天が示す。
これから数日の時を経て、隷属から解き放たれた真の自由を与る。もう鎖につながれた犬の自由ではない。
真の自由はまことに美しいものである。その美しさを心の歌にして、我を奮い立たせて生きていくことである。
自身に少しでもまことがあるなら、大丈夫である。
真に信じるものは救われるものである。
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諦念の境地

2022-11-07 | Weblog
終に始まる。
諦かに月が赤黒く輝きだした頃より、
朝日、日出国の輝き青白くして黄金色に放たれて、終始同時に広がる。
まことに自由に生きることになる。それぞれの意識において、その意志、
常識から非常識へと変化するも、夜明けを認識する者に諦念の境地現れる。
凹凸は平らにして、共に和む。優劣は無い持ちつ持たれつとなる。
壊滅へあと1秒と迫っていた時間は、かろうじて免れたが、常に未来は不定である。
決しておぞましい過去を作ってはならない。肝に銘じて!
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