つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

エネルギーの法則

2006-03-31 | Weblog
 死後の世界、人の経験とならない世界。
そのために、けっして知ることのできない世界となっている。
知ることのできない世界であるために、空白の世界であるとして‘空’としている。
宇宙はエネルギーの世界である。エネルギーであるために、反応を示し、その反応が性質である。その性質が円運動となっている。
この円運動の変化によって、変化に対応した存在が作られる。
この円運動の変化が法則となっている。
この法則がすべての存在を生み出している。
円運動であるために、止まることが無く、無くなることが無い、変わらない動きとなっている。
回るための変化が、永遠に変わらずに続く。
生命もこの法則によってつくられているエネルギーである。
そのために変化しながら、無くなることのないものとなっている。
そのため人は死んでも、生命は死なないものである。
人は老化して、死という変化をしていくが、生命そのものは、無くなるものでないために、死後の世界で生きていく。そして亦、生まれてきて、死んでいく。

人の体の中も循環という円運動をしている。思いも、行動も、
時間も、一日も、季節も、星も、地球も、宇宙も、すべてが回るという運動をしている。そのために丸い形となって、その中で、変化に対応した形として、
様々な姿が作られている。

神が人を創ったのではなく、法によってつくられたもので、
神も仏も法によって作られた存在である。
元は人としての生命である。縁となってつくられていくものであるために、
極めれば、誰でも神や仏になれるものである。

エネルギーの円運動が元となっている。
これが法則である。そのために、無くなることのない法則となっている。
この法則の存在であるために、唯一の法則となっている。
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顛倒してしまっている・・・

2006-03-28 | Weblog
 英語を分からない人に、英語で語りかけても何を言っているのか分からない。
同じように、経を分からない人に、経を唱えても分かるはずはない。
もし、あなたが死んだとして、偉いお坊さんに成仏できるようにと、お経を
唱えられても、あなたはわかるだろうか?
たとえその声を聞き取れたとしても、果たして何を言っているのか理解できるだろうか?それでどうして成仏していけるのだろう。

死人にくちなしというけれど、はたして本当だろうか?
だとすれば、啓示とされるものはないはずなのに・・・

人は、死んだら何もなくなるとしていながら、今度生まれてくるときには、幸せになろうね、などと言う。矛盾。
或いは、あの世なんて無いといいながら、天国へ行きますようにとか、地獄に堕ちろとか言う。何にもなくなるのなら、天国も地獄も無いものを。矛盾。矛盾。矛盾。
神も仏もいるはずは無いよ、と思っていながら、神様仏様と祈りすがる。

悟りとは何を悟ることなのか、知らないで修行をしている。
知らないために修行しているんだというかもしれないが、目的が分からず、
あるいは、目的とすることが見つけられず、どのように修行すればいいのだろう?
目的がわからなければ、何を悟ったといえるのだろう。

今いる自分がどこからきて、どこへいくのか。
なぜ?と気をつけ、そこから入っていけば、やがて縁起を見る。
法を見る。目的が見える。行為が見える。

亦この世に生まれてきたいと思うならば、苦しみにがんじがらめになっていて、
幸せを苦と思い、苦を幸せと思っている顛倒したなかにある。
救われない世を輪廻する。

苦しいことを乗り越えてこそ幸せにたどり着くとする世である。
そのために、あえて苦しいこと、辛いことに身を置いて耐える。
それがあたりまえとなって、幸せであると考えてしまう。
幸せの道であると・・・。


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「わからない」から起こる

2006-03-26 | Weblog
「わからない」ということは「怖い」と判断する。
相手がどんな人か分からないから警戒する。身構える。つまり恐怖心が起こるからである。
良い人なのか悪い人なのかわからないために、善悪が判断されて、悪が判断される。
わからない為に、怖いとなって悪が判断されるために、悪が絶対となり、悪が現象
されて、悪の世界として創られていく。

善悪で判断するために、悪が判断となる。

すべての存在をつくっている法則には、もともと善悪はない。
法則はエネルギーの法則であり、宇宙の法則であり、円の動きである。
(有)としてあるエネルギーが円運動であるために、
始まりも無く、終わりも無い動きとなって、無くなることのない動きとなっている。
これがすべての法則であり、唯一の法則となっている。
これに変わる法はないとして説かれているのが、
「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」である。

円運動であるために、宇宙も地球も止まることなく回っている。
円運動は浄化の動きである為に、エネルギーの浄化となっている。
善悪がないものであるために絶対善の動きとなって、あらゆる浄化となっている。
自然も浄化の動きであるために、美しいものとなっている。
生命エネルギーもおなじである。

人が善悪で判断するために悪が創られる。その悪を浄化するのが人生となっている。
人の動きは、誤りを正していく動きとしてつくられているのだが、
誤った浄化となっているために、救われない生命となっている。

天災が起きるのも、自然の浄化のためで、
人が悪のエネルギーとなっているために、自然に浄化かされていくものとなっている。 人の歴史は暴力の歴史である。紛争に明け暮れる歴史である。
人の誤った歴史によって、悪の浄化となっていくために、人は滅んでいくものとなっている。救われることは無い。

人類は滅んでも、日は変わらず昇り続ける。法則がなくならないためで、
浄化された地球に、やがて、何十万年か、何百万年か後に再び人類はよみがえる。
生命に死がないたに、浄化された、善悪のない生命として地球の人となる。

人が死んだあと、生命は死後の世界で生きていく。
その世界が生命の真実の世界である。
真実の世界を幸せな世界としていく目的が人生となっている。
知らないために起こる過ちを、正していくものである。
浄化の動きとなっているために・・・

無くならない法則として、すべてが存在している。そのために
悪が作られて、地獄となっていけば、それが無くならないとなっていく。
永遠となっていく。そのために救われなくなっていく。
この無くならないものであることを知り、正していく、この判断を智慧として、
救われていく方法もなくならないものであるから、人は救われていくとなっている。
智慧の身についた判断は、すべてから救われていく。
災いを避けられる。事故にあうこともなく、病気になることもなく、苦にあうことがなくなっていく。

法則を悟り、智慧を身につけた人たちが菩薩といわれる。
神通力が備わる。思い論じることのない、迷いの無い力、不思議な力が。






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経験

2006-03-24 | Weblog
 たとえば、一輪車に乗れない人に、乗り方を教える。
こうすれば乗れると教えられて、そのとうりにまねても、乗れるものではない。

自分自身が、あーでもなく、こーでもないと、なんども一輪車と格闘して、初めてコツをつかみ乗れるようになる。
一度乗れるようになると二度と乗れなくなるということは無い。 それは、行為が絶対となるために、忘れることが無いためである。

人は、人に教えられたことは自らの経験でないために、どんなに教えられても身につかない。
自らが、行為として経験しないことは、判断できず、正しく記憶とならないため忘れてしまう。
教えられても、経験していかなければ身についてこない。
昔、職人はあえて弟子に教えることはしなかった。
先に述べたように、教えられたことは自分の経験でないために、絶対行為となることがなく、身についた仕事とならないためである。

自分が‘こうなりたい’という願望が、師(職人)の姿を注視し、技を盗んで、
自らが、何度も行っていって、経験となっていくために身についた仕事となっていく。
忘れることが無く、自然に、即行為となっていくために、
見なくてもできるようになっていく。

知識は、他人の経験を正しいとして受け入れている。
自分の経験でないために、知識で判断していくことは、即行為となることがなく、
考えなければ行為ができなくなっている。
知識は、他人の過去の行為を正しいとしたものである。
行為の間違いが正されなければ、知識は正されない。
知識は、過去の経験である。過去を修正することはできないために、知識を修正することはできなくなっている。

知識で物事を判断していくのではなく、智慧を身につけて、判断していくことである。

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要の経

2006-03-22 | Weblog
 人の行為が経験となり、経験が記憶となって知識となっていく。
この記憶がひとつにまとまったものが想で、心の判断となっている。

経験とならないことは判断できず、分からない。分からないことは記憶とならないために、知識にならない。そのために、正しいとか、正しくないとかという証明もできない。できないことを人の思弁で語ると、それが間違っていても、
その間違いを証明することができないため、正しいとされてしまう。

般若心経は啓示で語られている。人の経験とならない死後の世界から語られたものであるために、正しく判断できず、説く人の思弁によって説かれている。
そのために誤って説かれていても、その誤りを正すことができず、正しいものとして説かれている。
般若心経は知識で判断するのではなく、智慧の判断としなければ、正しく訳すことはできない。

般若心経一つ、正しく理解すれば、誰でも悟りは開ける最も重要な経典である。
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あたりまえのことが、大切。

2006-03-21 | Weblog
般若心経を語った観自在菩薩は実在した人物である。
如来の法を行じて、悟りを開き、法が備わって、観音と呼ばれるようになった人で、もともと人間である。人であったために、人に縁となって語ることができている。
修行によって法を身につけて、死んで行った人の死後の世界から語られていて、
法が縁となって、法を修行している修行僧の一人に、意識の中に姿を現している。
そのために、人は死んでも、生命そのものは死なないものであることが明らかになり、
釈迦の説いた法が正しかったことが証明されている。

観音と呼ばれ、菩薩となった人の死後の世界は、このような世界であるとして説かれているのが観音経で、観世音と呼ばれた菩薩が語っている。
観世音菩薩の死後の世界である。
悟りを開き、法を身につけて得た力を説いている。

観自在菩薩は般若心経を、観世音菩薩は観音経を語っていて、まったくの別人である。

人生何十年かの行為が経験として記憶となって、記憶のエネルギーとして現象されていくのが死後の世界である。
行為が誤っていれば、正しい経験とならず、知識の誤りとなって、記憶の誤りとなり、誤った世界となって現象されていく。
誤った世界というのは、正しくない世界、つまり悪の世界である。
行為の誤りというのは、悪い行為、いけない行為のことで、自分が無知なためにしてしまう行為である。
すべて縁起によって作られていくために、
いけないことをしないように、生きていくことである。

・・・とは言っても、はじめは何も知らないのが当たり前である。
生きていく過程で少しずつ善し悪しが分かっていくために、過去の過ちは、
これからの生きていく過程で正していけばよい。
極力、良いことをするように、悪いことをしないように努力していくこと。
当たり前で、誰でもわかっていることなんだが、とても大切なこと。

いたわりの心を持ち、愛することを思うこと。
愛されることを望まず、愛を与えることをしていけば、愛されることにつながる。

心の中に悪を意識しなければ、悪は現象されない。
悪心が起きたら、良いことに振替えて、できるだけ悪を考えないこと。・・・
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心の判断

2006-03-20 | Weblog
 人はいずれ死んでいく。 遅かれ早かれ、誰でも死ぬ。
そんなことは誰でも知っている。理解していても、まさか明日死ぬとは思っていない。
そして、死んだらどうなるのか?死んでどこにいくのか?も誰も知らない。
こんなに科学が発達しても、いまだそれは分からない。

 仏教を説いているのは、お坊さんで、仏ではない。
キリスト教を説いているのは、牧師で、神ではない。
宗教を説いているのは人である。
説く人の判断であるため、判断の違いが宗教の違いとなって、宗派の違いとなっている。
人は、主観的判断しかできない。すべて判断することは人の主観である。
そのために、主観の違いが宗教の違いとなり、各派がつくられる。
同じ事を聞いても、主観の違いによって、別な判断がされていく。
真理は一つなのだが、主観の違いによって、宗教の違いとなっている。

心の判断は経験の知識である。経験を正しいとして判断される。
その経験の違いが判断の違いとなっていく。
経験が誤っていれば、判断の誤りとなっていく。
経験されないものは判断できない。そのため死が判断とならず、
どんなに説かれても分からない。理解できない。
だから、死後の世界から啓示として説かれたことが判断できず、
思弁によって解釈するために、誤ってしまう。
前に述べたように、法を悟り、法を身に備え、智慧の判断としていくことで、
間違いは正されていく。
主観はなくなり客観となっていく。
同じ事を聞いて、同じ判断となって、様々な違いがおこらない。
キリスト教も仏教も同じ事を説いている。
ただ経験の違いが宗教の違いとなっているのである。

智慧で見ていけば、啓示で説かれていることが分かってくる。
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不道徳

2006-03-18 | Weblog
 不=広く打ち消しを表す。
 倫=なかま。同類。人の守るべき道。

個々の文字の持つ意味である。この文字を二つあわせると、不倫。

 不倫=男女が、越えてはならない一線を超えて関係を持つこと。

 倫理=行動の規範としての道徳観や善悪の基準。

 道徳=社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の基準。

・・・辞書にはこのように記されている。

道徳心、道徳性、これらに適うべきこと、いわゆる道徳的なことがすべて否定されているのが不倫。

人の守るべきことが守られず、仲間であるかのように見えて仲間にあらず。
そんな関係がうまくいくはずがない。互いの欲望、刹那的快楽だけを、
都合良く、愛という文字に変えているだけなのに、あなたがすべてと、
心を偽り絡み合う。
その代償はあまりに大きい。互いにあらゆるものが奪われる。
しかもあとでそのことに気づく。
生ける屍となる。

例え、生きている間、偽り続けてうまくいったとしても、
そのしてはいけないことの報いは残っている。そして、必ず報いは受ける。
100%。
あの世に行っても、この世に来ても・・・

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人生、終(つい)に

2006-03-16 | Weblog
 春になってきた。
ポカポカ温かくなってきて、今まで頑張って働いていたストーブが、使われない日が増えてきた。
火の消えているストーブはどことなくさびしく見える。

本来、あるべき能力が、使われていない姿というのは、さびしいものだ。

人も、もたらされている能力が活躍してこそ、生き生きとしていて、困難なことに出逢っても、乗り越えていくのだろう。そして、古くなって、老いても、なにやら
頼もしく見えて、威厳を感じさせる。

さて、自分は本来あるべき能力を探しきれずに、死にゆくものか?
消え行くローソクの火が一瞬、赤々と燃え上がるように、
生き生きとしないで生きてきた人生の終わりに、生き生きと、
悟りを得たかのように仏を見るのは、あの世の救いとなるのだろうか。
法則の絶対世界となっている生命そのものの世界である、あの世。縁でなる世界。その幸せにギリギリ間に合っているのだろうか?
それこそ、死んで見なければ分からない。(だから、空の世界という)
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啓示はここまで・・・

2006-03-14 | Weblog
「・・・・無苦集滅道 無智 亦無得 以無所得 故菩提薩埵 依般若波羅蜜多」
最初の「舎利子・・・」が法則をを語り、次の「舎利子・・・」がその法則の説明をしている。その説明がここで終わっている。
そのため、舎利子としたところから啓示となっていて、その啓示がここまでとなっている。

次の

「故得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪・・・・」うんぬんとなっているのは、啓示ではない。
般若心経がどんなものであるのか、どのように人々に説かれていき、どういう反応がされたのかが語られていて、経典を作った舎利子たちの言葉となっている。

ここでの舎利子は同一人物である。
舎利子は釈迦の弟子の一人で、釈迦の教え(法)を修行している僧であり、
この法が縁となって、この僧に菩薩の一人がのりうつり、啓示となって語られていったものである。
菩薩となった人の死後の世界(菩薩の世界)より語られているために、真実で嘘の無いものである。

般若心経を正しく理解すれば、縁で作られていくことがわかり、死後、自分が
どのようになっていくのかが見えてくる。
もし、煩悩にまみれ、いけないことをして生きているならば、恐ろしいところに行くことになるだろうが、それを修正できるのが、肉体をもっての、生きているときだけである。
理解して、正しい行為として生きていかない限り、死後も苦しみとなり、
また、輪廻してこの世に生まれてきても、苦しみの存在する世界である。
輪廻から逃れることが無い。
まれに、この世に生まれてきたときだけが、輪廻より離れることができるとっても大事なチャンスを得たことになるのだが、
ほとんどはそのことに気がつくことなく、迷いながら生き、死んでいく。
苦しみながら生き、死んでいく。何も知らない(無明)のために、してはいけないことをして。
そしてまた、・・・
今まで、理解できなかったために、この世にいるのかもしれない。
苦しいことが多いこの世に、
でも、チャンスでもあるはずだ・・・。
稀に生まれたとっても大事な・・・
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