つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

若いうちに恥をかく

2013-07-31 | Weblog
年老いるというのは、
それなりの品性をもっていなければならない。
でも、下劣な老人が多い。
それこそ、くそじじぃ、くそばばぁである。
何事にも浅ましく、くそがつくほど穢いこころの持ち主達。

年老いるというのは、それなりにあるべき心を持たなければ
ただの老いぼれである。
おそらく、ただぼうっとして、迷惑千万で生きてきたに違いない。

恥をかくというのは若いうちである。
苦労も同じである。
いまさら言うことでもないのだが、知らない人があまりに多い。
先に楽をすれば後で苦労する・道理である。
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臨機応変に都合よく

2013-07-30 | Weblog
無を「無い」ではないとする。
無を「無くならない」とする。
無くならないとすれば、恐怖が作られれば、恐怖が無くならないとなってしまう。
無くならないとなってしまえば、希望が無くなってしまう。
そこを顚倒して考える。
無くならないものは無いとする。
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慈悲

2013-07-28 | Weblog
時はただ過ぎ去るのみである。
何一つ目的をもってあるものではない。
ただただ過ぎ去るだけである。
法の慈と悲というものである。
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何を悟るのか

2013-07-28 | Weblog
じりじりと日一日寿命は縮まる。
どうだろう、昨日も分けなく一日が足早に過ぎ去った。
本日もあっという間に正午、して間もなく夕刻、して今日も暮れていく。
分けなくただ過ぎ去るのみである。昨日もそうだったが、今日も電車の人身事故でダイヤの乱れがあるとラジオから流れた。
ほぼ毎日のように、誰かが電車に飛び込んでこの世の縁を切る。切ないものだ。
恐怖と狂気と葛藤の中、狂気がせめぎわ、一瞬の思考が止まって押し出され無理やりの中に投げ出される。
人の肉体は、一瞬は恐怖から本能的防御となり、苦痛は避けられる。
使い物にならなくなった肉体から心は無理やり離されて、さて、
夢想の世界が現れてくる。
今の心の思いの現象となっている。
心は形あるものではない。エネルギーそのものである。
法則のエネルギーと何ら変わらないために、無くなることがない。
つまり、心に死は無い。
肉体の無くなった心はどこへ行くか?
それは、「色即是空」である。
「この世は是によって即あの世となる」して、
「色不異空 空不異色」であるために、
「この世はあの世と少しも変わらない、あの世もこの世と少しも変わらない」と訓えられる。

この世が苦しいからといって、無理やりあの世へ逝っても、
あの世はこの世と少しも変わらないために、あの世もまたそのまま苦しい世界となっている。

苦しみは恐怖である。
心に恐怖がある限り楽は作られては来ない。

死は人の経験とはならないために、この世の常識では考えられないものである。
その思い、この世での識を滅して、智慧をもって判断しなければならない。
死は、肉体は無くなっても魂の無くなることではないのである。生命自体が無くなることではないのである。
心の現象の世界でそのまま生きている。どうしてもわからなければ夢を思えばよい。
夢が心の現象の世界であるから。
あの世が夢と同じ、心の記憶の現象の世界であるからである。

夢想の世界に恐怖を抱かないこと。悟りである。
この世の識をもってしては、決して悟れないものである。
‘知恵を身に付けて’と菩薩は言った。

すべての人に、せまりくる死は恐怖である。それは、どう生きたか?
だれでもその瞬間をいずれ知る。

死は、生命の無くなることではないと知恵をもって知ることである。
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心の問題

2013-07-27 | Weblog
円運動が法則である。
宇宙の法則である。
諸々の法則である。
すべてがその下の存在である。
そのために、すべてが円運動となっていて、繰り返すものとなっている。
繰り返すことが絶対となっているために、繰り返すことが善となっていく。
もし、悪が繰り返されれば、悪が絶対となり正しいものとなっていく。

地獄に落ちれば、苦しむことが当たり前となるために、
苦しんで当たり前とその世界の肯定となり、地獄を地獄と思わず生きていく。
つまり、ただの一つも希望を見出すことのない世界となってしまう。
誤りということが正せなくなる。同化してしまうためである。

法則が、昨日から今日、今日から明日へと繰り返されていくように、一旦、一つの区切りが訪れるが、
その区切りは継ぎ目なく繋がっているものであるために、
始まりと終わりが同じものとなっている。それは、
滲んでいくように俄かに繋がっていく。円というのは‘どこが’という特定ができなくなっていく平等を持つが、
極があり方向性がある。
上下左右があるが、立つ位置によって入れ替わる。それは、有るが無い、無いが有るということになる。
それをもって絶対という方向性で動いている。
エネルギーであるためにとどまることがない。

繰り返すという回る運動であるために、その変化が無常をきたす。
形あるものは無常なのである。変化するのである。やがて、寿命というものが来るが、
太陽のある銀河系も凡そ五十六億七千万年後には無くなるが、宇宙には今までと変わらない時は流れる。
人にも変わらず明日はやってくる。
それは、夢想の世界、心もエネルギーであるために、心の世界は無くならないものとなっているからである。
人の肉体は無常なものである。物体であるために変化する。そこに宿る生命は、肉体という無常なる物体をもってして、
法則の性質である浄化に沿い、生命、つまり心の浄化を目的とする。無常なる肉体を介してのみ生命は浄化を知るのである。
それが進化であり、法則の常住を得るのである。永遠の清浄なる世界である。それが生命、心の目的である。魂の住む世界である。
肉体経験によって、正しい浄化を分別するのである。

法則が円運動であるために、必ず元に戻る。それは、一旦ゼロとなるのである。
あらゆるものがそれぞれにある周期をもって元に戻りまた始まる。だから、絶対浄化となっているのが法則である。
エネルギーの法則である。無くなることのない法則となっている。
すべての存在はこの浄化の仕種となっているもので、だから、
人の行為は浄化の行為となっているものである。
生命は法則によって作られているために、
法則に沿って正しい浄化の行為として、生命エネルギーを浄化していくための人生となっているのである。
繰り返すことが正しいとなっていくために、誤った行為となっていれば、誤った浄化となっていく。
善が悪であり悪が善となって転倒した世界が作られていく。それが正しいとなっていく。真実が分からなくなってしまう。それが、地獄となる。

どうぞ、道理をよく見て、善悪顚倒した行為をせずに生きていくことを知ることである。
般若心経はそのことを訓えて、修行しなくとも、信仰がなくとも、誰でも悟れるものであることを示したものである。
釈迦が修行で得たことは正しかったと証明したものであり、その修行を実践、観自在菩薩とと呼ばれるようになった人のあの世からの語りである。
法則を是として語り説明、心の問題であることを訓えたものである。
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あらゆるもの、感服する

2013-07-26 | Weblog
心に由るものである。

何ものも何ごとも芯がしっかり通っていれば、如何なるもの現れても
ゆるがないものである。立ちふさがるものことごとく打ち破り、して、恵方となる。
どんなものもそれに感服し称賛してしまう。
それほど心があるというものは優れるものである。
芯ある念いまさに岩をも通すとなるのである。

「心が通うもの」、心の通いは神通力となるもので、
不思議な力を持つことになる。だから、
心をみがくとして、心の経典である般若心経を身に付けることである。

文字を訳すのも技をもって、つまり技術である。
臨機応変もまた技術である。
心経は最強の技術となるものである。


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それぞれの寿命

2013-07-24 | Weblog
寿命というものがある。
およそ人の一生というのはまちまちであるが、因果応報に
定められていく。輪廻という幾多の生死から来るその統一された業の果。
それは、心の自由が決めたこと、気づきの有無に基づき変動をきたす。
縁という起。
      たとえば、
殺すものは殺されて、奪うものは奪われて、嫌うものは嫌われて、
いじめるものはいじめられて、いい加減な振る舞いはいい加減に、と
辻褄が合わせられていく。
雑には雑が、丁寧には丁寧があてがわれていくのが道理である。

今の自分としては真っ新なため、
空白としてあり何も知らないが、心根として報いる。

互いを知らなければ、互いにをあてがわされて互いを知るを覚える。
心根には刻まれてあるために、さて、どれだけ奥深く心根に気付き、
相手を思いやることができるだろうか。
私はその昔、女であった、或は男であった、と繰り返して生きてきたのだから。

今生、男であるなら、女の立場を心の中に気づかなければならない。
ただ、今
真っ新として何も知らないでは、好き勝手にして、
思いに反して寿命は尽きる。
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知恵を得るに

2013-07-23 | Weblog
知識は他人の経験を正しいとして学ぶもので、自分の経験ではないために、教えられても
忘れてしまう。
自転車を乗れるようになるには、こうしてあーしてと教えられても、
自分で実際に経験して、つまり実際に練習しなければ覚えられない。
いくら口で言われても、頭で考えても、
体で実践しなければ乗れるようにはならない。人それぞれ受けるコツという感覚を得て
初めて習得できていくのである。でなければ身にはつかない。
その自分の実践した経験は知識というのではなく、知恵となるために忘れることがない。
だから、一度乗れるようになるとそのコツがわかり、瞬時乗れるのであり、生涯乗れるようになるのである。
智慧が身に付いた為の結果である。
智慧が身に付けば瞬時、つまり即断できるために迷うことがないのである。
この経験が道理の経験であるために、
一つを知り得れば十を知り得ていけるものともなり、あらゆる経験によらずとも正しい判断がついていく。
智慧の判断というのは道理の判断であるために、誤りのない判断となるのである。
即断できるために瞬時に対応できる。

禍は瞬時避けられていき、
都合というのはよくついていく。
ヤキモキすることや、間に合わないと思っていたことでも
ぎりぎり間に合っていくのである。

知恵を付けるというのは、経験がものをいう。
人任せにせず、自分ですることが為となるのである。
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2013-07-22 | Weblog
般若心経は、大乗経典を代表して語られているもので、
簡潔に要点だけが述べられ作られている。大衆に説かれたものであるために難解であってはならない。
その文字は、一字一句意味をもって作られているもので、そのために、文字の意味を知識だけによって解釈してしまうと
惑わされてしまう。それを察して、くれぐれも惑わされることのないように、正しく解釈して下さらんことを願って、
序文として開経偈が付けられている。
言葉の意味を解釈するのは心の自由である。
心は自由であるために、臨機応変に対応できるものである。
このことをよく理解して、心経の文字に迷わされてしまわないことである。
心経は、決して否定の経典ではない。
自分が生きていることは幻ではないのである。

般若心経が正しく理解されなければ、他のすべての経典を理解できない。
法華経もその中の観音経も正しく訳すことができなくなる。荒唐無稽となってしまう。

経とは、横文字である原文を縦文字である漢文に訳したものであることを示している文字である。
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般若心経

2013-07-21 | Weblog

 「開経偈」

この上なく奥深く優れた法は、永久にめぐり会えないものである。
今、我啓示によって聞き受けた。どうぞ、如来の真実の意味をよく理解して下さらんことを願う。

観自在菩薩から聴き受けたと舎利弗が語っている。
これは、すべての大乗経典の代表として般若心経につけられた序文であり、
小乗経典にある「如是我聞」と同じ意味の言葉、啓示であることを示している。
啓示であるために、人の手を一切加えることなくそのままを記されている。

般若心経は、観自在菩薩が舎利弗に乗り移り、そのために、実際には舎利弗の口から語られたものである。
観自在菩薩が舎利弗の意識に現れて語っているのである。だから、舎利子として名がでている。
釈迦が舎利弗に呼びかけて語っているものではない。釈迦の語りは一切ない。観自在菩薩の語りであり、舎利弗の口からである。

般若心経の啓示の部分は、舎利子の名が出ているところからで、最初の舎利子の語りは、是が諸々の法則であることを語り、
次に舎利子としているのはその是の説明をしているもので、「舎利子・・・。舎利子・・・苦集滅道 無知 亦無得 以無所得。」
で菩薩の啓示は終わっている。その前後の偈文は啓示ではなく、心経がどのように作られたかの説明であり、そして、悟りとしていくにはどのように思っていけばよいのか
が語られ、神呪、明呪と説かれた説明をして、心経が呪文となって説かれた時の、人々の反応がどのようであったかが語られているものである。

真言などというものは無い。梵語の音写として充てられた文字でもない。

人は、死が人の経験とならないために、経験とならないことは知識とならず、知識とならないために理解不能となってしまう。
死後の世界、理解不能の世界から語られたものであるために、正しく理解できず想像で理解する。
想像で理解すれば、誤っても正すことができなくなる。して、
理解できないために、仏の言葉であり、仏にしか通じないものであるとなって、真言であるとなって理解不能の言葉を都合よく解釈する。
大衆に説かれたものであるために、難しいものであってはならない。誰にでも理解できていったために優れた経典であると広まっていったものである。
が、
仏教として伝えられていくうちに、丸いものが三角になり四角となって、本来の姿から遠く離れたものとなってしまった。
真実が誤解され、否定されて伝わっていったために、今ではなんの力も無い読経の為だけの経となっている。そのため、
正しく解されなくなって以来、心経で誰一人悟りを開いた人はいない。
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