つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

優れた人

2018-10-30 | Weblog
愛が地球を救うというけれど、
それは本当だ。
我が身をつねって他人の痛さを知れというではないか。
思いやる心はとても大事。
優しいという字は優れるとも読むのだから、
優しい心というのは、すべてに於いて勝れるものなんだと
知って、優しい人になりなさい。
人生それだけで生きた甲斐がある。
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自得

2018-10-29 | Weblog
あと82年以内のどこかの日時、
地上に殺風景が現れる。
それは待ったなしの時間である状態。
すでに戦戦兢兢に入っている。
どんなに逃げ隠れても、死ぬものは死ぬ運命を背負い、
死なないものは死なない運命を背負っている。
その選択は自身の業にあり決定している。
ただそれだけである。
自分で悟ること。
宿した命の自身が運んだ命である。

仕方は(が)ない。
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自・(然、由、分)エネルギー

2018-10-25 | Weblog
宇宙の法則は自由なる意思から成っている。
エネルギーは意思という自由が正体。

だから、この自由を理解できれば、矛盾は存在しないものであることがわかってくる。
自分の意思の自由で世界は作られている。こう言っても
理解はされないだろう。
世界は不思議でできている。不可思議な世界ではない。
不思議が自然である。エネルギーである。


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特区、人口削減の陰謀、着実

2018-10-24 | Weblog
10~30代でも年間約2万人程が癌にかかっていると新聞にあった。
いまや、老若男女
三大疾病にかかり死亡していくのは当たり前になった。

食品添加物には口当たりの良さが重視されて、美味しければよいものという印象があり、
売れ行き好調に繋がる。そのために、商売繁盛のためには美味しさが追及されて、
健康面にあまりよくなくても、含有量基準内であれば大丈夫として許可され流通する。

なんでも取り過ぎはよろしくないのであるが、健康に悪いとされるものが
ほとんどの食品に微量ながら入っていれば、各々は基準値を超えてなくとも、取り過ぎになっていく。
加工された食品はほぼよろしくないもので構成されている。ただ口当たりはよく作られているために、
美味しい。でも、
自然でないものが四六時中体内に入ってくれば、それを処理するのに体は疲れてしまう。
三食毎日食すのだから、当然ながら体は処理できなくなる。
体外に排出されないで残るものが多くなれば、当然肉体内部の刺激が続くことになる。
身体は柔軟性を失い、いたるところの細胞が硬化してしまう。コリという症状である。
それが高じていけばどうなるか?あらゆる病気の増加につながる。それがたとえば、
二人に一人は癌にかかり、三人に一人は死亡しているといわれる。
心筋梗塞、脳梗塞、痴呆、その他もろもろ、ありふれて聞く話である。

化学によって掛け合わされ化けたものは、自然界には存在しないものが生まれたりする。
人口加工物はそういう構造を産物してしまう。
遺伝子組み換えにしても同様である。

あらゆるものが人間の為だけに、その欲を満たすためにのみ作られている。
それは自然から見れば好ましくはない表情を示してきたのだが、人間はあまり理解していない。
人間は客体を考えない。客観視しよとするのも主観に由るために、主観が自然を身につけていなければ
無理なことである。
そのために、矛盾が多く、矛盾を解決できないために、神によって解決していくとして依存していく。
神に頼ったところで解決するわけではないとわかっていても、わからないために神頼みの世の中である。
して、各々の想像神に頼り、各々の神が一番の正義となって、聖戦となっていく。
哀れである。
こんなにもあからさまに見て取れても、平和ボケには頂点の陰謀さえわからない。

果敢にして有望なる人種の脅威、その牙をもいでおくことは有効である。
国としての特区に、すべての人種を先んじて、試験するのは心理である。
唯一日本は原爆国であるから、今のうち!と。




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心痛

2018-10-21 | Weblog
毎日不祥事と自殺のニュースを耳にする。
そしてまた、病死、老死、事故死・・・死んでいく人のなんと多いことか。

生まれてくるのは苦しみに他ならないと神も仏も言った。
奥が深い言葉だが、まさにと知った。

ハルマゲドンの兆候。
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繋がれた犬

2018-10-20 | Weblog
頂点に立つ者はある一つの名をもっている。
覇者という名である。欲という範疇にあるしろものなのだが、よく愚者は好む。
その配下は、順次秘密が下げられていく。
一番下位が大勢にして何も知らされることは無く、知らされるのはフェイク、つまり、まやかし事。
模造の作り事である。そして、それを本当の事として信じるだけ。
一つ上に登っていくごとに秘密事を知る。と言うか知らされるというか、知れるようになる。
他の人にはわからないことを知るということは、心理として嬉しいというか誇れるというか、
そんな浅はかな気持ちを抱く。それが優越感というろくでもない心理なのだが、やはり欲の中にあるために、
多くははまる。
私は他とは違う(少しばかり偉い)という感じを持つのである。全く偉くも何でもないのに。だから、
格差というのは無くならない
その様な浅はかな心理を突かれて、人の組織というものはつくられ操られる。
順次上に行くごとに秘密を知り、更に優越に浸るが、すべての秘密を知ることはできないようになっている。
頂点というのは一つしかない点であるためである。はなから理屈を知ってもわかるのだが、
欲に覆われていればいるほどそれが見えなくなってしまう。
そうして、頂点にうまく操られ奴隷となる。
頂点は、隷属という鎖をつけさせて自由奔放をフェイク、して大勢は人に飼われている犬のように、
繋がれた不便を不自由と思うことなく、錯覚して疑うことがなく、むしろ繋がれていることの自由に安心を抱き従属する。
頂点は、完全に支配しつつある。
頂点が欲にあるために、以下は頂点の為だけに働く。何の疑問を持つことも無い。

現在の世の中の社会である。

すべての隷属は苦である。

自業自得を自由として、
民は自由を履き違えるために、各自の束縛に苦しむ。



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恥知らず

2018-10-19 | Weblog
法治国家でありながら、その法を作る人々、国会議員の乱れが激しい。
今に始まったことではないが、不法行為はいけないとわかっていて
不正、不正、不正。権力には賄賂が影のように付き纏う。
改竄、改竄、改竄。姑息は安易にあるものだ。
組織のトップが乱れれば、以下も乱れる。
組織は、秩序ある全体であるが、個々にして
利己主義の集まりとなって、赤信号もみんなで渡れば怖くない方向性
をもっている。
下心のあるものは、のちのち必ず悪い目に合う。
それは、はなはだ苦しみである。
そこのところをよく心得て、
不法はなぜいけないのか、

わかっているようでわからないために、
法を犯すのである。

我が身をつねって、もう一度人というものを学びなおさなければならない。

恥知らず、世の中を闊歩して、世も末である。
まさかの出来事が更にさらに多くなり、耳慣れしてなんとも思わず。

後悔先に立たず!
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祈りは悪の行為

2018-10-18 | Weblog
神様がいると思う人でも、神様の姿を見た人はいない。
神様は全知全能であるから、人間の前に現れることなど訳もないことである。
百聞は一見に如かずである。大勢の前に「これでどうよ!」と現れるだけで済む話である。
そして、人間の不可能なことをいとも容易く、大勢の前でやってのけたら、誰もが即信じるであろう
簡単なことである。全知全能とはそういうことである。
が、
どんなに祈っても願っても頼んでも現れてはくれない。なぜ?
それは、神という認識が誤っているためである。
そのために、現れることは無い。だから、いないと言えばいないし、いると思えばいるという、
各自の思いに由る存在となっている。誰もこれと言って証明できないために、
否定もできなければ肯定もできないものとなっている。

「わからないもの」これが神であるために、恐怖となって一心に祈り続ける対象となっている。
祈ることによって思考が停止されるために、恐怖がされなくなって救われたと感じる。
これが神の御加護と認識し、事あるごとに一心に祈る。

祈りは行為の停止である。
停止は死を意味する行為である。なぜなら、
たとえば、獣に狙われたとき、戦うか逃げるかしなければ、やられてしまうだろう。
つまり、じっとして震えていたのでは勝ち目はない。こっちに来ないでと祈っていたのでは、
やられてしまうということである。祈っても願っても動くという行動、つまり、戦うか逃げるかという
行動を起こさなければ死ぬことになるということがわかる。

祈りは恐怖心克服だけのための行為である。その場からの恐怖がなくなったわけではない。
寧ろ、何ら変わらず恐怖は迫っているのである。
一心に祈る行為はどうだろう、行動せず止まっているではないか。
だから、
祈る行為がいけない行為であることがわかってくるはず。祈らず動くこと!肝要である。
人間は、動くもの、一秒たりとも止まっていない動物なのであるから・・・。
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常識を覆せ

2018-10-17 | Weblog
人の常識にどっぷりつかっているために、まさかのさかが
現れると、気が動転してしまい動けなくなる。
自然の脅威は人知及ばぬすごさを持つ。
まさかそんなと、まさかまさかと驚愕している間に、
逃げ遅れてしまう。今の人間には助かる術は無い。
それは仕方のないこと。
天変地異が現れるのは、人の心の悪の充満である。
もういつ何時起こっても不思議ではないところに来ている。
それは、人間の自業自得である。
100%という余地の無いところにある。
だれ一人生き残るということは無いために、魂の救いとして、
菩薩にある仏が説いたのが般若心経である。
心はエネルギーである。魂である。精神である。それが生命である。
よく神経を精げて、生命の真実の世界である死後の世界に、
恐怖を持ち込まないようにしなければならない。
恐怖がなければ人は救われるものであるから。
神や仏がいるのは恐怖があるためで、恐怖がなければ
神も仏も必要としないものであることに気づくことである。
死が人間の恐怖の本である。ゆえに、恐怖の元本である死が正しく理解できたなら、
人間は幸福を得られるものである。
死が人間の経験とならないために、知識にならず、知識にならないものには対応ができないために、
恐怖が生まれる。
死は人間の誤った知識のために恐怖となっている。これが常識となって死=怖いものとなっている。
他人が苦しんで死んでいく様を見て、死=怖いと認識してしまった。

エネルギーには、善も悪もなく、まして恐怖などもない。善悪も恐怖も
人間の感情である。気持ちの産物であるために、
心をエネルギーの法則として身につければ、恐怖がないことを理解する。
そのために、
般若心経が心の経典とされているのは、心の在り方を説いているためである。

人間は確かに滅亡の道をひた走っている。
それを回避できるのは、愛情だけであると神仏は説いてきた。
どの宗教に於いてもそれは変わらない。
愛が地上の生命を救う唯一の方便であると訓えられてきたのだが、
人間は、戦争、殺戮の歴史を作って今に至る。現在に於いても、
何らそれは変わっていない。見直されることなく、ただ自分たちだけがよければという
欲にかられた生き方をしてきた。自分の満足の為に、人の為と正義を謳ってきた。
だから、人の為と書いて偽(いつわり)と読む。偽善がまかり通って正義としている世の中である。
端的に言えば、どこもかしこも自己中の社会である。どこもかしこもである。

生命はみな同じ、よって、人間もみな同じ、差別は無く、個々にして平等、
共存共栄にあるものと思えば愛を知ることができたものを・・・。


この自己中の、悪の進化で、人間は現21世紀を乗り切ることはできない。
このことをすでに釈迦もキリストも予言していた。
彼らはこのエネルギーの法則を悟った人である。それゆえに、
彼等の予言はエネルギーの法則の予言である。道理の予言であるために絶対である。
回避されることはもうない。世界が私利私欲の駆け引きで動いていることに気づきませんか?
種族とか国とか世界は個に置き換えて同じである。

人間の歴史に、愛が地球を救うと謳われてきたのに、何千年とたっても
変わることのないいがみ合い。
人類は、
知的動物であるための動物を超えることはできなかったと、
地球の歴史には刻まれる。

法則の救いは、精神の救いである。魂とか霊的とかいうが、心である。心の持ち方である。
心の救いが法則の救いであり、生命の救いとなっている。
心の持ち方、生命は無くならないものであると知るなら、死は恐怖とならなくなる。
常識を覆せ。

エネルギーの法則は、浄化である。ゼロに戻る。
紛れもない真実である。そして再び・・・である。
日はまた昇る・・・エネルギーの法則である。
人間にあるのは、学習能力という希望があることだ。
誤りは繰り返さない事、それだけである。


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不連続の連続、心次第

2018-10-14 | Weblog
観自在菩薩は、般若心経を持ってエネルギーの法則を語り説明していった。
宇宙はエネルギーの世界であり、このエネルギーによって宇宙のすべてが存在していると訓えている。
このエネルギーの無いところには存在というものは無い。存在がないということは、
考えることもできないということで、だから、考えてもしょうがないこととなっている。
考えてみたところで、全くの無意味ということを訓えても、人間は、
存在がないということについてあれこれ考える。
自分がいる世界は、自分がいなくなれば関係のない世界となる。
自分がいるからあるのであって、自分がいなくなればあってもないに等しくなる。
その意味で、世界はすべて、自分のあるなしによって、存在の有無となっている。

宇宙は唯一のエネルギーである。このエネルギーの根本は自由から成っている。
このエネルギーの自由によって生命は存在となっている。
自由がエネルギーであり意思である。この宇宙の主である。
あらゆるものの主である。すべてがこの主によって作られ、由って、存在はこの自由の下の存在である。
そのために、この自由を超えるものは存在しない。だから、
すべての力は、この自由を動かすことはできない。核の力をもってしても動かすことはできない。
つまり、変えられないということ。不変である。
自由が創造の源であるために、宇宙の存在は自由、それぞれ個々に独立していて関与となっている。
それは互いの利であるために存在となっているだけで、つり合いの崩れ云々というのは関係しない。
つり合いというのは、
偏向性の現象世界が現れるだけで、傾きの多くなった世界の現象がその世界の正義の大半として現れる。
そこにはいいとか悪いとかというのは無い。

エネルギーが意思であり自由であるために、そこから生じている生命も自由となっている。
人間がそれぞれ思うのも自由であるから、一様にして違った思いを抱く。
感情もあるとかないとかも自由であるが、それは、全くないというのではなく、意思であるための
自由なだけである。そのために、感情を起こせば非情をなくすこともできていく。
非情な世界が正義となって現れているとき、必ずしも変えられないというのでもないということである。

自由であるからすべては不定である。不定であるから続けていなければ、自分の意思と反対が現れていく。
心はエネルギーであるから、これと言って形があるわけではない。水のように
あらゆるものに柔軟に対応できる。触れるが握れない。つかめないが創造力と破壊力を持つ。
この自由を正しく認識して、あると思えばある、無いと思えばない、を操ることである。
心次第。
すべてがエネルギーの現象世界であるために。





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