つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

2015-09-30 | Weblog
相対にしてあるものである。
明暗共にあり、苦楽共にある。
喜怒哀楽、悲喜こもごも至る。
そのようにして、世の中は辻褄が合わさっている。
対等にして同等にある。
独りで生きているわけではなく、
共にという生きているものである為に、
~していただきいきている、
だから、
~させていただきいきていく。

けっして、独りで生きれることはなく、
自分がいるということの証である。

驕りという馬鹿さ加減程憐れでしかない。
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思慮・深く

2015-09-28 | Weblog
般若心経は何を訓えているのか?
正しい理解がなければ功徳もへったくれもない。
何を訓えているのか理解できなくて
ただ読経していてもそれまでのこと。
自己満足に過ぎないになる。

善いことも聞いただけでは為とならず、
実行して意味がある。

為となる意味を持つ。

善いことが何かを分からなくしては、
へったくれもない。
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こころここに・・・

2015-09-27 | Weblog
生きているという事は、欲望が渦巻いて、
その執着に明け暮れている。
流行りものに心奪われて、一番に手に入れようとする浅ましさは、哀しいものに尽きるだけ。
時が経ち、それが何の意味を持ってあるのかは、はなはだ馬鹿馬鹿しいものである。
我のものとする大事さも、もぬけのからのように、何一つ残ることはない。
あるものはただ記憶だけである。それも、執着に明け暮れている記憶など、
唯の一つも有益に無く、むなしいだけ。
早々に
足るを知るに至れば、腹に一もつ手ににもつたることもなく、
身軽にして清々しいものである。ただこの身を時の流れに任せて、
寿のみ得るものである。
あれを見たから、これを見たからとて忘却にあり、
だから何が得られるということはなく、むなしく疲れるのみ。無駄という一点に尽きて
命の時が削れていく。
あれを見ねば、これを見ねばと、わざわざを作るのも煩悩具足にあり、
得るところ多大にして遠回りである。
行くことを望まず、居ながらにして落ち着けば、
行くところ仕方なく起こり、会うところ無くして遇い、赤い糸となる。
強く思いに留まるものとなる。

好ましい思いと、好ましからぬ思いは自由にして
善いことはどうあれ、報われて辿り着き、
悪いことはどうあれ、報い行き着く。

生きていくという事は、
捨てること煩悩にあり、得るところそう思うことにある。
して、
この身は、心につき従うものである。
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暗黙の了解・の誤

2015-09-26 | Weblog
「色不異空 空不異色」というのは、
「色(この世)は空(あの世)と異なることが無く、空(あの世)は色(この世)と異なることがない」である。

「色即是空 空即是色」というのは、
「色(この世)は是(法)によって即空(あの世)となり、空(あの世)は是(法)によって即色(この世)となる」である。

「受想行識 亦復如是」というのは、
「受けた想念も行為も知識も、また如来の是(法)によって同じである(変わることが無い)」である。

「受」というのは、
外部からの刺激、つまり外部の存在を受け入れて生命エネルギー(魂・心)の世界が創られているために、
生命エネルギー(魂・心)の世界を「受」の世界としているもので、この世のことである。
この世が受の世界ということである。
様々に受ける外部からの刺激のエネルギーによって反応した行為行動(経験)が、
記憶のエネルギーとなって生命の世界が創られていく。その経験の統一された記憶が想念の自由である。
その想念の自由が心の判断となっている。


「この世とあの世は少しも変わることが無い世界で、あの世もこの世と少しも変わることが無い。
人の生死は法(是)によって、この世が即あの世となり、あの世も即この世となる。
この世で受けた想行識もまた同じく輪廻していく。」

いわゆる、「色即是空 空即是色」というのは、輪廻の法則を訓えているものである。
つまり、エネルギーの法則が円運動の自由となっているために、無くなることのない法則となって、永遠の法則となっているということである。
始まりが終わりであり、終わりが始まりとなって連綿となっているのである。繰り返していくというものである。
それが、太陽(日)が示すように、日の廻りが絶対であり、変わることが無く正しいものである為に、これが法則であり
エネルギーの法則であり、宇宙のすべての法則となっているとして、法則を「是」としているものである。
無くなることのない法則となっているために、「無」は「ない」ではなく、「無くならない」という「無」であり、
般若心経で説く無の意味は否定のための「無」ではなく、肯定の為の「無」として説いているものである。
肯定の為の「無」となれば、「すべてが無くならない」となり、恐怖が作られてしまうと、恐怖が無くならないものとなって、
般若心経では決して救われることが無いとなってしまう。そのために、恐怖として作られた想念を、
一切遠くへ離して顚倒して思い、想念の世界に「無くならないものは無い」としていく、心の判断の自由を説いているのである。
想念の世界に恐怖を無くしていくことであると訓えているものである。ゆえに、般若心経は心の経典といなっているのである。
般若心経は音写の文字ではなく、一文字一文字の意味をもってつけられているものである。
これが理解できないために、羯諦 羯諦・・・という文字の意味が分からず、仏にだけ通じる言葉であるとして真言としているものである。
この言葉は真言でも何でもない。人が理解できないために真言としてしまっただけである。
人の理解できないことを仏は説くはずもなく、難しい言葉ではない。そして、理解されたために広く知れ渡ったのであるから・・。
理解できないことを説くはずはないと、思いを馳せることができれば、正しく理解できていくのだが・・・
いまでは、心経は、ただ読経のための経典となって、無力となって伝わっている。
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魂の自由

2015-09-24 | Weblog
魂が求めることは、研ぎ澄ますことである。
自分という魂を摩くということ。
魂は肉体を行動媒体として経験を積み記憶を作る。
記憶の積み重ねが統一されて、心という性格が生まれる。
今まで生きてきた様々な人生の積み重ね、その記憶の統一されたエネルギーが、
今の心である。
心根が醜くくあれば意地汚く、つまり、意地悪である。
その心を摩いていくことが生命の使命である。
どんな立ち処にあっても、使命を覚って勤しみ生きていくことで、
魂はみがかれていき、その経験が正しい記憶となって生き活きとし美しく輝く。
清浄というエネルギーである。
これが法則のエネルギーであり、浄化の法則である。
「自ラニ由ル」ものというエネルギーの法則である。



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神の領域・不可解

2015-09-23 | Weblog
神の領域とする微細な微細な事柄。
量子の世界は神がかりで、まさに現実とはかけ離れた振る舞いを見せる。
曖昧さにあり、不確定にして不可思議である。
それを単に自由と銘打って人は答えとするしかない。
それ以上の確定的言葉は無い。
自由が理由であり、全ての不確定、曖昧さに通ずるものである。
抽象的と人には思えども、主観である者には客観ができないように、
限りなく近づけはすれども、正確に捉えることはできない。
概ねそうであるとする曖昧は、その時々の立ち位置によって確定するだけである。
そう思ってしまう概念である。そして、火で焼かれた種が、
決して芽を出すことが無いように、確定してしまえば後の祭りである。

互いに言葉をもって意思疎通を図るが、
以心伝心ということが言われるように、言葉の発信だけで意思が伝えられるということはない。
‘目は口程に物を言う’とも言うし、また、
ある感覚によって伝え合うというエネルギーの周波数を利用するものもいる。
高等に無くとも、ある特異に発達した器官を持つものや、
知能によって高度な技術で身に着けるものもいる。
九品九生の生まれの違いがある様に、
生きとし生ける者の中に於いては、0生となることはない。
限りなく近づけはすれども、この世に生じるのは九品までの上品上生である。
いわゆる、生きながらにして、即身成仏というのはあり得ないことである。

神の領域とする量子を扱って、根源を見出そうとする。が、
不可解なもので、求めれば求めるほど堂々巡りとなる。
現実とはかけ離れた現象がにわかに出始め、翻弄させられる。
それはただ恐怖としか言いようがなく、不可思議でしかない。

法は「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」として謳われている。

「この上なく微にして深く、すぐれた法は、未来永劫、遭遇することはない。」

法則を超えることはできないものとなっている。
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不可思議な存在・自由

2015-09-22 | Weblog
神仏なるものが人の歴史にあるのは、
神仏によって人類という種が創造されたためである。
では、その神仏は誰によって創造されたのか?

エネルギーは回ることによって刺激となり、その刺激に反応したエネルギーが
容となって現象してくる。
その場、その時に応じての反応、姿かたちである。そして、意もまたどのように受けたかの反応によって
質となり性格が作られていく。これもまた法の自由から来るもので、全てが個々の自由によって姿形を作っている。
種の違い、あるいは、同種であっても個体の違いは互いを知らないために、もちろん自分自身さえどういうものであるのかは
知らないでいるために、恐怖が生まれ身構える体制を取る。対立という関係性を持つのである。ときに、
自分さえどいうものであるのかは知らないのが本心である為に、自分自身を嫌いになったりもする。
主体でありながら客体として見るのは、魂というエネルギーが、肉体という行動媒体に宿している、ヤドカリに過ぎないものであるからである。
肉体の姿形に宿したのは反応による縁による。魂が知らなければならないことが端的に知れる最も適したものであるためである。
普通、それさえ人は知らないで、自分の身の内を嘆いたりするものだが、エネルギーの質自由のはからいは、それなりに意図されているものである。
それは、根本、浄化という性であるためである。
反応の誤りに対する修正、無記(ゼロ)にもどすための性である。

エネルギーの自由によって、法の道理によく適って、綺麗なまま進化した有能なエネルギーは、
優れた能力を得ていき、まだ、進化の途上にあるものには、神仏のように捉えられる。
進化の途上にあるものには優劣が存在し、神の中の神たる階級が生まれる。
人類は下等なうちに遺伝子操作をされ、その高等なる性質を早々に摘まれてしまった。
神と呼ばれる存在に、将来威厳となることを覚られ組み替えられたのである。しかし自然は、
元に戻る性質である為に、元に戻り始めている状態にある。自然の力は
どんな力も動かすことはできない。
やがて人類の知能は束縛から解き放たれて、
不自由から真の自由へと移行するが、歪められた自由はどのように修正されているかは不明である。
現実が混沌にあるのは、曖昧さに揺れ動いている極めて不安定な状態にあるからで、
優れた者に気づきは与えられても、自らの判断で行動しなければ修正されることはない。
人類は、今でも優れた者(神の中の神)に監視され続けている。
優れた者は、何事も法の自由に委ねている。

無知=恐怖であるために、無知を無くしていくことで恐怖も消えていき、どのように対処するべきかが知れてくる。
つまり、対立とするべきものなのか、友好的とするべきものかが判断出来てくる。
対するものがどういうものかが知れてくれば、対処法方が知れてきて不安(恐怖)はなくなっていく。
無知が人の最大の敵ということが言える。その無知は、経験の如何によって克服できていくが、経験を知識とするのではなく、
智恵として身に付けることによって、一を知れば十を知れてくるものとなる。九が経験値に無くとも、
一の経験によって計られてくるのである。道理の徳である。

例えば、の語らいとして、災害に出遭った人の気の毒さは誠に痛々しいものである。
我が身に置き換えれば、ただ途方に暮れるばかりの身の内である。だから、そんなときの支援は最速、
迅速であってするべきことで、一途に注ぎ込んで大事もできるだけ最小にとどめられるものとなる。だから、
本来、日本国はオリンピックなど招致している場合ではないのである。それは、
復興という面にプラスとして働くという思いから来るのであるのだろう、希望が持てるとか、
皆が沈んでいてもいかんだろうという思い等々。大変なお金がかかるのに、そんなお金があるのなら、もっと復興に使えばという思いがある。
迅速にやるべきことがお粗末である為に、だから、出だしがくじかれて、ごたごたとなり醜態をさらすこととなる。
ある聖者の言葉を思い出す・「食事もできないほど貧困に苦しんでいる人は、今、食事を与えなければもういなくなって(死んで)しまう。
朝にいても、夕べにはいなくなる(死んでしまう)のである。」苦しんでいる人は逼迫していて緊急を要する。今(迅速)が大事で、後には手遅れという事を伝えている。

人というものは、どんな些細なことでも経験して見れば、その苦楽がどんなものであるかがわかるが、経験しなければ、
気の毒と思えども対岸の火事としてしかない。それこそ苦は、往々にして悲惨で極まりないものである。
自分のみに起こって初めて、最速、迅速かつ絶大なる支援が必要であると知るが・・。
そしてまた、‘喉元過ぎれば熱さを忘れる’となっていくものでもあり、哀しいものでもある。

「我が身に置き換えて・・」と、悲惨さを思い、知る。
智恵をもって、
些細なことの一を知り十を覚れば、行うべき優先順位を的確に知り得て、大事を小事として納めていく。
一人ひとりは無力にしても、多勢となれば無限大の力となって行く。

さて、神の中の神たる存在も、
我々は何によって意図されつくられたものであるかを探し求める存在である。
自然は、無というものを不可思議として与えているだけである。 
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刺激の現象

2015-09-21 | Weblog
人たる生命体は高度な成長を遂げるものであるが、
その過程に於いて無記にして、得てして間違った方向を選んだりするもので、
同種でありながら対立しあって生きたりする。
共存共栄とはいえ邪念を持ち、競い争うというところに興味が注がれる。
その上での繁栄であるために、競争心の少ないもの、無いものなどには
はなはだ苦虫を味わう。多大に欠点のある共存共栄となっている。
時を超えて、
地球の生命体よりはるかに遙かに優れた宇宙に散らばりし生命は、多くは平和主義であるが、
彼らにしても創造神をいまだ見いだせずに探し求めるに至る存在である。
宇宙の法則は善悪は無くただ浄化にあるもので、それが正負同等であるために、
どちらにしての浄化であるかは自由によって正義となっている。そのために、
力を誇示して、他に挑み闘争の中に住み、それを善として生きるものもいる。
正しい浄化にあるものには、善悪顚倒としたものとして対立にあるものである。

法則はただ一点に帰り、ゼロとなるための浄化である。ゼロは始まりであり終わりでもあるエネルギーである。
このゼロの容のエネルギーの物語である。自由それがゼロの本質である。
あるともないとも、反応するものだけが現れてくる。それは、見るに、陽炎の様に揺らいで立ち上がり、自然と丸く引き合う
もので、あるともないとも見えたりするものである。

時が進んで、地球人も科学技術に於いて居ながらにして天体観測ができ、はたまた、駆出しではあるが
宇宙探検に出かけられるようになってきた。すると、
宇宙には他の生命体がいることを知り、とてつもなく高度に発達した頭脳である事を知る。
天空を自由に飛び回っている姿を見ることができたためである。それは何よりも知的でなければできないことであることを、
自らの技術開発によって知ることができるためである。
宇宙には、この地球よりも大きな存在を持つ船が飛んでいることを見る。人知想像さへ超えている高等な技術力と知る。
それは、人類のような損得勘定にある経済という方法は持たず、
生命の使命というのに基づいて動いているために成しえる技術である。
種の生きているための共存共栄は、真に互いの繁栄にあるための共存である。そのために、損得などなく
生命としての喜んで生きていく使命でもって生きている。法の道理に適っている生き方である。

人の生命は高等な遺伝子を持ち、それこそ仏陀になり得る生命である。
記憶の正しく完成された生命体となれば、法則の世界そのものの存在となり、主体にして客体となり得るものである。
輪廻することもなく、飲食することのいらない、自由奔放であり、清浄無垢、清浄潔白、な世界となる。

「汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願」
「汝よく聴くがよい。法を身に付けて観音と呼ばれるようになった人の行為は、諸々の所に於いて善い行いとなり
正しく対応された行為となっている。その誓いは、海の如く弘く、深く、生涯考える必要のないものとなっていく。
多くの人を仏として身の回りに侍らした世界となり、清浄な願いを発した世界となっている。」
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井の中の・・・

2015-09-20 | Weblog
「井の中の蛙大海を知らず」・

・・私たちの住む銀河は凡そ二億二千六百八十万年かけて一周するようだ。
更に私たちがいる太陽系は六百三十万年かけて一周となっている。それは太陽系が
36周することで銀河の一周となっている。
太陽系に属する惑星の自転、公転もそれぞれ何らかの決まりでもって廻っているようで、
一秒という時間が関係していて、それはまた音という周波数によって計られているようだ。
音と音との共鳴によって起こる間、その間隔の時がちょうど一秒という間である。
この間の長さがあって時間が計られている。そのために、一秒があり時が作られている。
始まりは一秒から計られて各回転数が調整され、各周期となっている。
宇宙は静止しているのではなく、絶え間なく動いている。
その動きにはそれぞれ周期があり音を発している。宇宙は無音というのではない。
地球とは違った感覚で音楽がある。宇宙が回転する音、各銀河が回転する音を合わせて
音楽というものがある。壮大な音楽というものである。円やかな音であるといえる。
そのために、生きているものと言っていいが、エネルギーという言い方が当てはまる。
エネルギーはその性質回るという自由で存在となっている。
それは唯一のエネルギーであり、無上のエネルギーとなっているもので、
「無上甚深微妙法」として語られている。
微なるものから大なるものまで統一された法則となっている。
それ故、小をもって大を知り得、大をもって小を知ることができるが、
微なるが故の特性と、大なるが故の特性をそれぞれに持つ。どちらも一長一短という性を持つが、
そう感じ受けるのはその時々の間にあり、長短という事はないものでもある。

エネルギーは高速で動いていて、それは人知を超えてという感覚であるが、
その様な高速も、また、永遠という言葉も人という生命に存在するのは、
人という生命が関わり合うものであるためにある言葉で、関わり合うことが無いのであれば、
そもそもそのような言葉も存在することはない。
一秒という時の間が、いつか重なり合って必ず自分という生命に訪れる、関わり合うものである為に
永遠という言葉がある。それは、生命がエネルギーの法則によって作られていて、
エネルギーの法則が無くなることのない法則となっているために、生命もまた無くなることが無く、
連綿となっているからである。永遠という事である為に、自分という今の生命も、
僅かに80年という人生を終えても、なんども輪廻してくるものである。そして、
仏陀の言う五十六億七千万年後の地球に於いて、弥勒という佛に形を変えて、
生命の救済に現れるというのも体験するものとなっている。
宇宙もまた法則によって、常に無常であり変化するものである為に、消滅、生滅を繰り返し、
古いものは新しくなりと入れ替わっていくが、恐怖として捉えられることのない様、
保護するものである。

絶え間なく動いている宇宙は、私たちがその中にいて、一緒に回転しているために同化となり、
その動きに気づくことが無い。まるで静止しているように感じられるのである。それは、
高速道路を高速で走っていく車の中を考えてみるとよい。車は高速で走っているにもかかわらず、
私達はその中で静かに眠ることができる。それと同じ現象なのである。
絶え間なく動く、これがエネルギーであり回るという性質の自由である為に私たちの体も絶えまなく動いている。
体の中は絶えず休むことなく流動しているもので、それも循環という廻るものである。
法則が廻る動きであるためである。自分の意志に関わらず、
法則の仕組みに基づいて動いている。そのために、人の死は肉体(内臓)の動きが止まって初めて肉体の死となっている。
脳波の反応が無くとも内臓の動きが止まらない限り人(肉体)の死とはならない。
そのために、脳の反応が無いとして死と判断して、内臓の動きが止まっていないにもかかわらず、新鮮なうちにとして
内臓を取り出し、他に移植していく行為は、取り出される本人の恐怖となって、医師が悪魔となり
死んでいく人の地獄が作られてしまう。人の為にとして良いことをしているようでも、その
本人は地獄に落ちていくのである。だから、脳の反応ではなく、各内臓器官の反応が無くなってからでないと、
人(肉体)の死とはなっていないのである。内臓が完全に止まって、それからの行為が生前の意思に適うものとなる。

生命は不死である。生命は記憶のエネルギーである。その記憶に恐怖を刻まないことが地獄と天国の別れとなっている・・・。

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縁は異なもの味なもの・と

2015-09-15 | Weblog
私達は地球人。
他の惑星から見れば宇宙人。
私達は孤独ではない。
宇宙の中の唯一という生命体ではない。
宇宙には数多くの生命体がひしめいている。
私達が知らないでいるのは、未だ頭脳明晰ではないために、
井の中の蛙大海を知らずというものであろう。
善人と悪人がいる様に、
優れた者の中にも、友好的なものと、そうでないものとがいるのである。

相対は相反していて同等である。

ただ、

綺麗なものには綺麗なものが集まり、汚いものには穢いものが集まる様に、
自らが綺麗なものであるなら、綺麗なもの美しいものが寄るのである。


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