つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心の問題

2016-02-29 | Weblog
人間社会、お金がなければ生きていけない。
変なものだが、金融という仕組みで社会が成り立っていて、
上手く融通しないと命を落とす。
お金が命より勝り、価値があるものとなっている。
印刷された紙幣のやり取りは命のやり取りでもある。
命あっての命の為のものが、本末転倒となっている。
お金の為にどれだけ多くの人が命を落としてきたのだろう?

損得という慾、煩悩を持つためにさいなまれるものである。

知的という生命であるが、進化途上にあるもので、
未だ煩悩具足にして苦を得る。

高度に進化した生命エネルギー体には、共存共栄を覚り、
命の引き換えという仕組みは無い。
意味あって為されているものに抵抗することはなく、利して害を背ける術を知る。
一事に万事とし、道の理、その徳を習得して仏陀となり得るものである。
故に、自在菩薩なる高度に進化した生命エネルギー体に学び、
彼の観音と呼ばれた生命体の説いた般若波羅蜜多心経を受して、
魂の成長を促進することである。
我ら、般若(一般大衆)に最も簡潔に述べられている訓えゆえに、正しく
理解することである。すればその効力、悟りへの最速最短のしるべとなる。
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自由意思

2016-02-28 | Weblog
自らに然りで自然であるとして法となっている。
自らがしかありであるために、自らに由るものとして自由である。
自らに由るものであるから、
成せば成ると意思疎通が図られる。
その一念岩をも通すとなる。
自由とはそういうことである。


法句経160番

己こそ己のよるべ
己を置きて誰に寄るべぞ
よく整えし己こそまこと得難き寄るべなり
自ら悪をなさば自ら汚れ
自ら悪をなさざれば自らが清し
清きも清かざるも自らのことなり
他のものに寄りて清むることを得ず
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怖いもの知らず

2016-02-28 | Weblog
学識豊でなくていい。
道徳を身に付けることである。
それは、人間社会の秩序というのではなく、
自然の道理をよく心得るということである。
そうすれば、何かにつけて徳を得るものである。

自然にはこれといっての善悪は無い。
善悪を思うのは人の心であり、人の思う善悪である。
そのために、人を中心に決められた秩序だから、矛盾が多い。
動物愛護を唱えながら家畜を食料として殺す。
自然保護を訴えながら、住まいの地区拡大整備を行う。自然を破壊しながら・。
森林で暮らしていた他の動物たちは、強引な立ち退きに遇うこととなる。
彼らにしては、全く持って無礼な者達であると思うものだろうに・。
そうして、この地球の覇者であるかのように振る舞っているのが人間である。
そしてまた、人間同士でありながら、憎しみ合い互いに殺し合いもする。
振り返れば、人間の歴史は戦争、殺戮の歴史である。どの国を見てもそうである。
今もって
地球のどこかで紛争がある。絶え間なく続いているのである。
それは、人間が自分を中心として考え、自分が正義としてものを見ているために、
自分以外の思いの相違に由る。

他の動物たちには憎しみというものは無い。ただ生きていくための食である。
だから、弱いものを殺して食べても、地獄に落ちるということが無い。


人間は知的生物である。
学習し道理を見れる存在である。

自然がどのようにして存在しているのか、その道理を知ることがないために無謀に振る舞う。
時に、自然が猛威を振るい、人間社会に襲いかかれば、
何ともしがたいその驚異的力に戦き、ひれ伏すだけであるにもかかわらず、
喉元過ぎれば熱さ忘れるもので、真の学習をしない。無知である。

自然というのは、すべてがゼロに戻るための法則となっている。
そのための浄化の法則である。
綺麗も汚いも無くただゼロに戻る。

浄化の法則ということを、誤りなく理解することである。
綺麗も汚いも無い、ただ自由である事の理解。
間違いも正しいも正義としてしまう。どちらに傾くかは個々の思いの選択である。
自然が美しいのは浄化の法則であるためで、人はそれを見て美しいと思うのが正しい思いである。
そのために、地球上の浄化された存在である。
が、自由であるために、正しい浄化となっていなければ、
エネルギーの法則により繰り返すという運動となる。もし、完全に浄化されたものとなれば
動く必要が無く、輪廻となることが無い。時間も空間も無く、
永遠の自由な世界に宿るのである。それは、心の清浄な世界で、自由自在、気ままな世界となっている。
平坦で、金銀種々宝石の散りばめられた世界となっていて、
あらゆる存在が清浄な願を発している世界である。
生命エネルギーは、この世界を目的として、円運動に対応した存在となっている。
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人格化

2016-02-27 | Weblog
道理を味方にすれば、どんなものにも敗れるということはない。
道理はどんな力にも動かされないためである。
その道のという、それぞれの理であるが、
道理はすべての道理であるために、
道理ひとつですべてを味方とする。
一事に万事である。

自然は示し申しているもので、
申し示すことはない。
申し示すのは不自然にして示し申すもの、それなりのという人の作る神である。
自然は、ただ道理にして示し申しているもので、
兆候という段階を踏む。それを感受するもしないも人の感覚により、
感官研ぎ澄まされた智恵に頼る。それは、科学的知見機器にも優る。
第六感という心の働き、勘。
その勘を宿すのは人工的なものには無い。
自然エネルギーから生まれた生物だけである。
だから、人という者、叡智を宿すものである。
摩訶不思議な存在である。
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裏を返せば・

2016-02-25 | Weblog
時の流れというのは前だけに進む。

世の中は相対的である。
表もあれば裏もある。というか、
どちらか一方だけでは成り立たない。
だからといって、
真逆に退行するという時は無い。
真逆に進行はすれども・・・。
戻るということはそういうことである。
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うなずくことしきり

2016-02-23 | Weblog
平家物語の冒頭にある
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・、
また、
鴨長明の方丈記などは、
まことにまことに世の様を言いあてている。
とても感服するものである。
とても感銘するものである。
うなずくことこの上なし。
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真如の月

2016-02-22 | Weblog
何人も他の自由を奪ってはならない。

生物、
動物であれ植物であれ、
他の生物を食して生きているものである。
それ故に、生きる自由を奪うという事になる。
致し方ないとする哀しい性である。
そのために、
何ものにも感謝をして生きていくのが道理に沿う。

他のものを食して生きているものである為に、この肉体、
他のものの精が集まって構成されているものでもある。
精の集合体で成っているために、どれが自分かということがない。
だから、自分というものが分からない。
食して生きて、その哀しい性というものの道理を覚り、
死していくことができたなら、自分というものの本質の完成となり、
自分とは?という自身を悟る。それは、
自分がどこから来て誰なのかを見るのである。
おそらくそれは、真如から来た者と知るのだが、
真如から来た者というのを完成させなければならないということでもある。

エネルギーは法のエネルギーである。自由という精である。
真如である。


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妙用

2016-02-21 | Weblog
先生というもの、
先に生まれると書いている。
誰よりも先に生まれて、誰よりも先に経験を積む。
その経験によって、物事の道理を誰よりも先に知ることができるために、
先に生まれたものが師となり得るものである。が、経験しても
ぼんくらであれば智恵となることが無く、経験から得るところを無駄にしてしまう。
そうすると、先達でありながら、「先生先生と言われるほどの阿保じゃない」と言われるように、
蔑まされた言い方の先生として呼ばれてしまう。

師、先生と言われるもの、自然から学び取る感受性豊かにして智恵を得、成るものである。
誰彼から教わって成ったというものではない。
つまり、自然が本来の先生であり、その道理をそこから独自に学び得た者、それが本物の師である。
独覚である。
それは、自然の道理を熟知していくために、いや、智慧を得ることによって、
道理がそれとなく指し示してくれるという指示を感受するために、先見を得られるのである。
それを熟知とするが、その都度の妙智である。冥利、冥加であると言える。
もちろん、自然というエネルギーの法則からと感受する。
ただ、
出来るだけ早く気づくかという事に他ならない。
芽吹く草花と枯れ落ちる様を見て・。
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~でもある

2016-02-20 | Weblog
生命エネルギーは、心である。
その命が倖せに生きていくために、
肉体をもって活動する。
エネルギーが円運動の法則で成り立っているために、
その諸々の変化に対応した存在となっている。
外部から受ける様々な刺激は、心の成長促進となっていて、
どのような応対をしたかによって成長の差異が生まれる。
急速に成長するものと緩慢なものとの差があるが、
優劣というのは含まれてはいない。
変化に対応して宿した命となり、
その宿命をどのように運んでいくかが運命である。
本来、エネルギーの法則に沿って、
正しい浄化となって、
生き活きと運んでいくことが運命である。が、
エネルギーの自由な性質によるものであるために、
エネルギーの法則に沿わない間違った浄化として運命としていれば、
それが絶対となり正しいとなって運命となってしまい、
その誤りに気が付くことが無くなってしまう。
それはどういうことかといえば、高速で走っている車の中の様なものである。
車の中は静止状態と同じである為に、高速で動いている自分に気づくことが無く、
眠ることも本を読むこともできるのである。
同化している為の現象である。
エネルギーの法則の円運動は自由である。その自由には善悪というものは無い。
そのために絶対善となって、それが正しい浄化となっているものである。
このところの善を理解していなければならない。それは、難しいということではないはずである。

世の中の善悪は人の善悪である。
人の心の善悪の別である。そのために、実に矛盾していて、
人によっても様々にしてあるが、概ね、社会規範という通念上の秩序をつくっている。
中心が人というもので構成されているために、人の心がエネルギーの法則の自由に無知である為に、
直線的思考となっていて、始まりと終わりが矛盾となって、永遠に解決できないものとなっている。
生命エネルギーも法則の自由によって存在している。そのために、諸々が無常であり、
それが常住となっての存在となっている。
生命は回るための変化が常となり輪廻するものとなっている。その始まりと終わりの一点に戻ることを覚り、
日々の行いの終始を見て、縁起の法則の自由を悟る。
輪廻転生からの解脱方法は、先に生まれて法則の自由を覚った優れた生命からの訓え、八つの正しい行い、八正道にある。
それ以外は無いと知る。
今もって七聖人、七つの星の人達である。
それだけエネルギーの法則の自由は深遠でもある。
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えてして、と

2016-02-18 | Weblog
たとえば、
一流と呼ばれるものだけを集めても、
素晴らしくあるとは限らない。過程に於いても果に於いても必ずしも良いということにはならない。
寧ろ、逆に働くことが多い。神々が集まれば喧嘩してしまうというように、おかしなことになるのである。
えてして、と。

「勝つことばかり覚えて負けることを知らざれば害その身に至る」と言われるように、
真の勝者(強者)たる者は、負けても負けても這い上がってくる者である。
一度も負けたことがないという者ほど脆弱である。
えてして、と・。
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