つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

智能による予知

2017-01-31 | Weblog
釈迦が予言したように人類が滅ぶのは確実と思われる。
釈迦は法を見た人である。
そのために、釈迦の予言は法の予言でもあるために、
誤りのないものとなっている。
数年前よりその兆候は見え始めているが、
ここ数年来さらに顕著になり始めている。
それは、人が人をいじめているためである。
特に、社会的弱者に対して裏腹であり、まさに愛情に欠ける事柄が多くなっている。
理不尽ともいえることが大手をふるって闊歩しているためである。
もはや手遅れ状態にある。
愛は地球を救う事の出来る唯一の方便であるのだが、
絵に描いた餅ばかりで、役に立ってはいない。
弱者は瀕死状態にあり、悉く死に絶える。
強者の望むところであるのだが、
地上は運命共同体である。対岸の火事としてほくそ笑んではいられないのである。
強者共に道連れとなることを、情けない人達は知らないでいる。
もうここ数十年である。その時、地上の人口は八十億余りであると知らされている。
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馬鹿な大人

2017-01-30 | Weblog
日常の識にどっぷりとつかっているために、
非日常的識を受け付けないという何とも敵対するものに有利な
方向性をもっている。
常識というのが、あまりにも日常を取り巻いているために、
そこから抜け出せないでいる。
最大の欠点として、そこのところをよく突かれて、簡単に操られるものである。
常識を覆すことが起きても、素直に受け取ることが無い。
そのために、こんがらかって簡単も難題となる。
疑うもの、「疑」というのは過ぎたるものである。
当たり前のように時が追い越していくために、
何もかも手遅れとなる。
信じるものは救われるという事を疑って、省みることがない。
子供の様に、素直に受け入れるものは幸いである。
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吾は誰かという問答

2017-01-29 | Weblog
宇宙はあまりに巨大である。
地球から見て太陽は巨大な星。
その太陽も、針先の穴にも満たないほどになる巨大な星が存在する。
その巨大な星さえも一つの点となって団となり、
その団も集まって一団となって散らばっている空間。
地球の砂粒全部集めても足りないほど多くある星々、その塊が散りばめられて、
まだあまりある空間である。
人間なんて存在しないに等しい微なる存在。
ウイルスのようなものだろう。
でも確かに存在していて、巨大に対して何らかの影響を持つ。
大は小を兼ねているために、小を見て大を知ることができる。
それは、曖昧さをもっての確実性を信じるだけである。
自由である為に、である。
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転換期の訪れとその足搔き

2017-01-28 | Weblog
私達は、知的生命体によって作られた、或は、
改良された生命エネルギーと思われる。
神は、「人間を神に似せて作った」と記している。
人間を改良したのは、神の利としてで、人間に対しての利という事ではない。
そのために、無駄「無駄なことと知りながら」という事はしないものである。
人間が思うほど神は、人間に対してお人好しではないのである。
ただ、自然の法則の下にある生命エネルギーである為に、
改良はしたものの、時が経つうちに、自然の法則にもとづいて元に戻るということになる。
それは、人の平均寿命からすれば、宇宙的時間を要するものではあるが、確実に改良される以前の
生命エネルギーに還る。

太陽系は十二の惑星の構成で成り、そのための十二の遺伝子構成でできている生命エネルギーとなっている。
エネルギーの法則の質を具えてある為に、本来人間の生命エネルギーは、
とても優れたエネルギーとなっている。人間よりも遙かに先に存在し、
進化した生命エネルギーは、その質を知り、赤子の内に彼らの利となるよう、また、
先生をはるかに凌ぐことを知って、その芽をつまみ進化の邪魔を操作し、彼らの利として
応用している。
しかしながら、その進化は想像以上に早く、削りとられた十の遺伝子構造の復元がはじまった。
地上の時間は宇宙から見れば、数千年、数十万年など瞬時と変わらない時間となっている。
人間は、人間を改良誕生させた知的生命体を神と呼ぶが、全知全能とされる生命体は存在はしない。
単に、先に進化している生命体なのである。
もし、敢えて神とする存在をもとめるなら、自然が神である。
その自然は、自由という性質のエネルギーから成っているものである。
つまり、エネルギーの法則が全知全能の神になる。
このエネルギーの法則は、如何なる力にも動かされないもので、全ての力に勝るものである。
そのために、「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」と説かれ、
宇宙唯一の法則となっているものである。
この宇宙の法則の外というのは、存在しない。
知的生命体エネルギーは、このことを知ってはいるが、エネルギーの法則の下の存在であることには変わりはない。
栄枯盛衰にあり、相対にあるもので、対立という事から離れてはいないもので、
人類と何ら変わらないものである。
この不自由の操作から数十万年を経て、神々の対立が際立ち始め、
不自由を操った神々は、エネルギーの法則の自由によって
淘汰の動きとなっている。
神々の悪足掻きである。
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省みる

2017-01-26 | Weblog
一人一人順次あの世へと旅立つ。
あの人も逝ってしまった。
彼も彼女も逝ってしまった。
皆、一人一人順次あの世からのお迎えが来るのである。
年齢を追い越すことはできないものだが、
あの世へのお迎え・旅立ちは、年齢を追い越して、
無作為に旅立つものである。
宿命に与えられた運命は、自業自得の自由である。
青春は幻の如くであるが、
確かにあった事柄である。
無知にしてただ嘆くばかりである。
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魂の生き様による死後の幸不幸

2017-01-25 | Weblog
あの世が幸せとなるように、
人は生きていくのである。
だから、
生は死が絶対条件としてある。
死のない人生というのは存在しないのである。
死というのは、今生の肉体の消滅であって、
魂そのものではない。
魂は生命エネルギーの性格、質の高い生き方をすることによって、
その格は上がっていき、肉体の消滅により、魂の記憶の現象世界となっていく。
幾多に於いての輪廻の時を経て、
その統一された記憶が、魂の真実の世界となっている。
誤った記憶の繰り返しは、真実の世界が地獄模様となる。
正しい記憶の繰り返しは、真実の世界が天国の様相である。
これは魂となる生命エネルギーが死をもたないためである。
魂の真実の世界を作るのが、今生きている時の経験である。
肉体に宿した生命エネルギーの生きざまに、
真実の世界の幸不幸が担われているのである。
生命エネルギーの自由によって創られる世界である。
エネルギーの法則は、善悪など無い為に、絶対善の動きとなっているもので、
この法則の下、生命エネルギーは法則に沿う活動をすることで、
正しい動きとなり、円滑となるのである。
摩擦となることのない動きとなるために、苦のないエネルギーとなって
永遠に廻ることとなる。これが、生命の目的であり使命である。
そのための肉体の死をもって、何度となく覚るまで輪廻するものである。

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次元の転換期

2017-01-24 | Weblog
魂の変換の時期にきているようだ。
天と地の分岐点である。
向上にあるものとそうでないものとの別れ際で、
仏心にあるものと気づかないものとの違いである。
二千三十年ころまでに次々と変換が起こる。
全く想像だにしないことが現れてくる。
まるで漫画の世界の様なことである。
科学は現実と心模様を絡ませて、
真実を虚数と実数の中に入り交ぜて、
永遠を作る。
数々の人生を隔ててきても、統一された記憶の魂に逢う。
再会は、魂の願いであり望みである。
嬉し涙を流すのが魂の本望である。
魂に記憶の喪失は無い。永遠である。
仏心に気づくことである。
唯一幸福への方便である。

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煩悩にまみれて

2017-01-23 | Weblog
日出国、日本。
天空の神々は、ここに降り立ち、ここから発祥していった。
この先進国である日本から崩壊が始まる。
裕福に見えて病んでいる。
病みは損得である。
見栄は我が身の見映えに固執したもので、
利己的なことである。
格差は精神の病み、
損得を捨てない限り広がっていく。
おもてなしは見栄の建て前、
本音は損得浅ましくあるために、
見栄の邪魔となる貧困層を悉く苛める。
徐々に傾きかけてきているが、
これから数年顕著になり、ハプニングが続々、
オリンピックどころではなくなる。
対岸の火事と思いきや、富裕層悉く崩れ去り、
初めて苛めたことを悔やむも、
時すでに遅く、運命共同体を覚る。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」道理である。
面舵いっぱいにして果たして、この時間線上日本沈没にある。

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疑問にある者

2017-01-22 | Weblog
本物という言葉は、
先にあるものというものを持たない。
自然が先生である。
自然から独学で学び得た者だけが本物となる。
師と仰ぐ者を持つことは、ただその師の癖をを受け継ぐ者であり、
自ら考えだされた癖ではないために、決して本物とはなり得ない。
本物の様に見えてあるだけで、その師を越えられるということはできない。
声聞というのは、ヒントを与えられてあるだけで、
そこから全く新しい癖を生み出してこそ本物となり得るものである。
同じ様に癖を受け継ぎ、同じような方便でもって何かを生み出しても、
本物というものではない、ならないのである。それが自然というからくりである。
不可能なことをごまかして、何とかつじつまだけを合わせるという事ではないもので、
そこに、本物という操作がある。自然はあるがままを見せているが、
観るものの知恵がなければ、不自然にあるものでも自然と見て取れるものである。
自然は、計算によってその数字の貸借を明確にしてあるが、
必ずしも、諸々に当てはめられるほどからくるものではない。
それは、永遠という円運動に由来するものである為に、決して解決という事には至らないのである。
もし、解決という答えとするなら、ゼロという無い事を表す有的存在をもって答えは出せるものである。
それを端的に表せば「自由」という言葉になる。
円周率が続いていくのは、エネルギーの法則が終わりのないものとなっているために、
数字はゼロを持つことが無いが、ちょっとした思いによってゼロという数字が現れる。
その思いが人の「自由」である。それを計算違いとする単純ミスが因と明確とするのも、また、できないのも自由からきているのである。
自由はエネルギーの根本である。深遠とするも、また、単純とするも応変によるとしか言いあてれない。
自由とは、人間とは何だ?私は私であるが、私とは何だ?と自身を知らない、自問自答して答えのでない、だせない、或は、
答えを出す、答えとするものである、と、
答えを出すのと同じである。

自然はこう示す。是が法則である。と。
宇宙隅々に、つまり、隈なくいきわたってある法則である。
自由というエネルギーの存在にして、我々の感じる事柄である。
生命もエネルギーからできている。だから、そもそも自由である。
だから、、「為せば成るし為さねば成らない」というあまりにも大きなヒントを訓えられてある。先人の知恵である。
時に人は、不可能という事を自然から与えられ常識とするが、
自由という根本性質が、不自由のないものとして生命エネルギーに感受させる。
「成らぬは人の為さぬなりけり」にある。よく知っててはいるも、
人間自身、人間とは何だろうと本当のところ知り得ていないように、根本知らないのである。
だから、悉く打ちのめされて、不可能という常識を刻んでしまう。
不自由を生きている。
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願解如来真実義

2017-01-19 | Weblog
般若心経を正しく読み解くことで、
諸々の事柄に対応できていく。
智慧とは何なのか、知識とどう違うのか、
自ずと知れてくる。
師と仰ぐものを必要とはしない。
物事の善し悪しが自然と知れてくるのである。
先生といわれる人には師はいないものである。
心経を正しく理解していれば、
分かってくることである。

ただ一般的な解釈をしているのであれば、到底知ることのできないことである。
般若心経を読み解くのに、知識など不要である。

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