つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

何もかもなくなると思っているの?・・

2005-10-31 | Weblog
 人は何度も転生を繰り返す。ただ生前の記憶はすべて現象してしまうために、生まれてきても前世はわからなくなっている。生前の記憶は死後の世界の現象となってしまうために記憶が残ることは無い。自分がオギャーと生まれてきたときに、自分が以前誰であったのか、知って生まれてくる人はいないはずである。
生命が、子供の生命として生まれてくる為に、子供の動きとなっているためで、何も知らない動きとなっている。
生命に死は無い為に、生命が肉体を持って生まれてきて、肉体行為の経験を積んでいき、その経験が記憶となって、死後の世界の現象となっていく。
肉体は人の行為の為の肉体であって、肉体は自分自身ではない。生命が自分自身である。その為に、生命が大切な為に、肉体をいたわって生きていくのである。肉体が大切なのではなく、生命が大切な為に、である。
そして、その肉体経験が死後の世界となって現象するのである。
悪に身を結び、悪の限りを尽くした者が、どのような死後の世界となるかは、言わずとも分かってくるはずである。
人を悪と判断して、憎しみを持ち、驕り、貪り、愛に渇き、常に恐怖を抱いた経験が創る世界は、安穏としていられず、争いに満ちていて、ふるえている。

ささいなことでも、いけないことは、しないことである。

人は誰でも死んでいく。美しかったものでも老いる。
さて、そのときは、必ずやってくる。
本当に、死んだら何もかもなくなると思っていきているのだろうか?
・・・つづきはまた

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自分がつくってしまうもの・・・

2005-10-30 | Weblog
 地獄は自分が作ってしまうものである。もともと地獄として存在しているところに因果応報として赴くのではない。自らの主観で作られた場所で、悪に縁を結んだ為の地獄として存在となる。その為に、悪とされる行為をなさず、また、人を悪と判断することの無い生き方をしていくことである。
肉食獣は、生きていくための本能で餌となる相手を捕らえる。その行為に善悪は無い。善悪の無い行為であるために、そのことによって、地獄になるということはない。彼らに地獄は存在しないのである。が、その性質が縁となっていくために、種の保存となって永遠と肉食獣として生まれ変わる。・・・つづきはまた
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間の生き物として・・・

2005-10-29 | Weblog
 生きている‘とき’の生物を、本有〔ほんう〕と呼び、死んでいく‘とき’を死有〔しう〕と呼び、生まれ変わる‘とき’を生有〔しょうう〕と呼ぶ。
その死有と生有の間を中有〔ちゅうう〕と呼ぶ。中間の生物と言う意味である。
中陰〔ちゅういん〕とも言われる。四有説で、あり方の違いを四つに分けて説いている。仏教のなかの部派に‘説一切有部’があり、その説である。
 この中有の存在が空の存在である。中間の生物であるから、受想行識があり、色として世界があり、身体があるとしている。生きているときとなんら違いが無い世界である。が・・・。 空は死後の世界を空としている。死後の世界は、人の経験とならない為に、分からないものであるとして、空としたのであるが、菩薩の啓示によってその実体が明らかにされたために、知ることができた。
死後の世界は、現象の世界である。法の絶対世界である。その為に、時間も空間も無い。法の世界である為に、変わらない世界となっているためである。
法則が、変わらないもので、なくならないために、変化の無いところには、時間も空間もないのである。その為に、地獄が作られると・・・   つづきはまた


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「有」のみである。・・・

2005-10-28 | Weblog
 常住である中に無常があり、無常である中に常住がある。
エネルギーが‘有’であり宇宙は‘有’のみである。
唯一つのもので、他には無く、すべての存在となっている。
性質が衆縁和合して円運動となり、始まりも終わりも無いゼロの世界となって作られている。正確な円運動となっている為に、太陽は東から上って、西へと沈む。狂いの無い動きとなっている為に、人は明日が信じられる。
ゼロから始まってゼロに戻る動きとなっているために、浄化の動きとなっている。
これが宇宙の法則で、この世界のすべての法則となっている。
これが唯一の法則で、他の法則は存在しない。
エネルギーの法則で、エネルギーの世界の存在である。これが、‘有’である。
無から有は生まれない。
科学がどんなに発達しても、この法則は超えられない。なぜならこの法則の中の存在だからである。仮に超えたとしたら、それは存在とならない。
宇宙は有限であるが、その外は存在しないのである。
このエネルギーが円運動となっているために、無くなることのない法則となって、常住となっている。この常住のなかに、円運動の為の変化が無常として存在している。 
諸行無常であるが、エネルギーは絶えず変化して常住である。
不生不滅、不垢不浄、不増不減のゼロの世界となっている。
ゼロは無と言うことではない。・・・
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向上していくわけではない・・・

2005-10-27 | Weblog
 生命は生まれ変わるごとに、浄化されるわけではない。
生まれ変わるごとに、魂と言うものが向上していくことはない。
もし、生まれ変わるごとに生命が、或いは魂というものが、良くなっていくのであるなら、早く死んで、なるべく多く生まれ変わるのが良いことになり、そのため、
自らを死に至らしめたり、或いは、殺してあげた方が、その人の為となるとなって、殺人が肯定された誤った考えとなってしまう。
転生するごとに、生命が、或いは魂と言うものが、浄化され、格があがり、向上していき、最後には解脱できると言う考えは間違いである。
人は人としての経験をつみ、人としての縁となっているために、他のさまざまなものに生まれ変わることは無く、人として転生する。 存在としての仕組みであり、法則である。
人が、肉体をもって生きているときに、肉欲におぼれ、刹那的な快楽におぼれていけば、次に生まれてくるときは、畜生に生まれてくるとなっている。
六道輪廻の世界である。また、自己に凝り固まり、自分さえよければとした生き方、けち である生き方をすれば、餓鬼の世界に生まれるとされている。
確かに、このような生き方は正しい生き方ではない。その為、地獄となる。
これらは皆、地獄を説いている。このような地獄を自ら作ってしまうとされているのである。縁でなっていく世界である。その為、人は人として転生するのであって、他の生物に生まれ変わることは無い。・・・つづきはまた 

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自分の為の行為・・・

2005-10-26 | Weblog
 環境を破壊しないようにしようと言いながら、車に乗り排気ガスを撒き散らす。暑いといってエアコンをつけ、さらに熱い風を排出する。地球温暖化となって、環境が破壊されていく。
動物の保護を唱えながら、牛や豚、鶏など家畜を殺して食している。家畜を殺すのは何の罪悪感も無い。矛盾である。矛盾であるのは自分ではなく、他人であるとなって、自分がバスに乗り、電車に乗って、商売ができるようにしていることに気がつかない。自分が焼き鳥を食べ、焼肉を食べ、需要を創って、商売がなりたつようにしていることに、気がつかないでいる。すべて自分が悪いのではなく、他人が悪いとして、その矛盾に気がつくことが無い。物事は、唱えていても、行動して、行為となっていかなければ、何の意味もなさない。
自分ひとりだけが、或いは、少人数だけが行為としていっても、無駄であるとおもうだろう。 が、そんな「数」を言っているのではない。
人が何をしたか、何をしなかったか、ではない。
自分が何をして、何をしなかったかである。
行為は経験となって、記憶となって、繰り返されることによって絶対となって、絶対善となっていく。記憶が現象となって、記憶の現象が死後の世界となっている。
その為に自分の行為が、慈愛に満ちたものであれば、自分の現象の世界は、愛に満たされた幸せな世界となっていく。
人が見ているから、いないからという、人に左右されるものではない、自分の為の行為である。 つづきはまた
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変化によって生じた違いが・・・

2005-10-25 | Weblog
 地球の回転によって変化が生まれ、昼と夜の違いが生じ、そのエネルギーの性質の違いによって、性別となって、男と女の違いとなっている。
わずかな地軸の傾きが、場所、場所の変化を生み、季節の変化となって、四季がつくられている。変わらない変化となって、その変化に対応した性質のエネルギーがつくられて、さまざまな命が生まれた。生命としてのエネルギーが、個々の体を持って生まれてくるのである。個々の体が命を持って生じるのではなく、命が個々の体をもって生じるのである。そのために、個体は生命の自由としての個体で、個体自体に自由はない。
くるくる回る動きで作られている世界である為に、ゼロからゼロに戻る動きとなって、浄化の動きとなっている。そために生命の動きも浄化の動きとなっていて、個々の体の動きも生命の浄化の動きとなっている。
個体に死があるのも、生命の自由となっている。
生命の浄化が正しくされていないと、死となってしまう。
病気になるのは、誤った浄化の行為の為で、正されていかないと、死となってしまう。生命が体を必要としなくなってしまうのである。
個々の体は生命の自由で動かされているのであり、体に自由はない。
 生命が自分自身であり、体は自分ではない。すべて生命のための体である。その行為は生命の浄化のための行為であって、誤った浄化の行為となっていくと、救われることの無い世界が作られて、地獄となってしまうと、死後の世界より仏が語ったために、真実で嘘のないものとなっているのである。・・つづきはまた・・
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必要悪のいらない世界へ・・・

2005-10-24 | Weblog
 若いがゆえに、悪に走り、自らの体を蝕んでいき、
苦しみ悩んだ挙句、そこより抜け出してきたがゆえの人は、善に対してさらに
強い意識がある。強靭な善の力がある。その意味でいえば、その悪もその人にとって必要悪であったことになる。 しかし、どんな悪でも、ないに越したことはない。悪によって立ち上がる必要のないことが一番なのだ。が、自分自身である生命は、その善悪共に存在する世界に、悪であるものでも善に変えていくことのできる自由として、うまれてきている。
悪があるから悪になるのではなく、悪をも善に変えていくことができるとしての、善悪の世界であり存在である。
それが生命の自由として創られている。
迷える生命の迷える世界が、善悪の選択の自由な世界となっている。
すべてエネルギーの存在の仕組みであり、法則の自由となっているためである。
 どうぞ迷いながらも100%善を選んでください。それが自分自身である生命の目指すゴールとなっている。必要悪のいらない世界であるため、悩み苦しむことの無い世界である。  つづきはまた・・・

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もとは人である・・・

2005-10-23 | Weblog
 観世音菩薩は法華経を説き、その中で、多くの人々を悟りへと導く為の入門品として、観世音菩薩普門品偈を説いている。これが観音経である。法華経の中の25番目に説かれている一つの章である。
観音と呼ばれるようになった人の心念の力が、あの世の究極の悟りの世界を創っていき、その究極の世界はこうであると説明しているのである。
観世音菩薩も、実在していた人物であったのである。はじめから超能力的な、超現象的な存在ではなかったのである。
釈迦が修行の末に見つけた法を教わり、その教えを守り、法を身に備えて観世音と呼ばれるようになっていったものである。観音と言われる人の中には、観自在菩薩もいる。これは、般若心経を語ったのである。共に実在した人物で、釈迦の弟子であった。人であったために、身に備えた法が縁となり、法を修行している弟子たちに啓示となって語ることができたのである。
皆、もとは人であった。悟りを開いていけば、誰でも観音となることができると、観世音菩薩も、観自在菩薩も説いているのである。
「嘘ではないよ、その為に、名前を言い現身をしているんだよ」と語っているのである。
 観音は、イメージとして女性のように思われているが、男性である。
彼らは皆、釈迦の弟子である。釈迦の弟子には女性はいなかった。その為男性であることがわかる。・・・つづきはまた
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観世音菩薩の世界・・

2005-10-22 | Weblog
観世音菩薩に無尽意菩薩が尋ねたとき観世音菩薩は偈によって答えている。   「無尽意菩薩が問うた時、偈でもって答えた。
釈迦の法を備えた世尊である彼に今重ねて問う。 
仏の子よ、何が因となり、縁となって、その名を観世音と呼ばれているのか。
それは、釈迦の説いた法を身に備えたからである。と偈は無尽意に答えた。
汝、聴きなさい。観音となった人の行いは、諸々に対して正しく対応された、善の行いとなっている。
その誓いは、海の如く弘く深く永遠に思議のいらないものである。
多くの人々を仏としてはべらして、清浄な願いを発した世界である。
我、汝に説くに、身を現して、名を聞かせ語っているのである。
心念の力は、あの世で無駄にならず、諸々の苦をすべて滅ぼしていく。
仮に、悪意によって害を加えられて、大火抗に投げ落とされたとしても、彼の観音の心念力は、大火抗を池に変えてしまう。
或いは、大海で漂流して、龍魚、諸々の鬼難にあったとしても、彼の観音の心念力は、波の中に沈まなくしてしまう。
或いは、須弥山の峰から、人に突き落とされたとしても、彼の観音の心念力は、如来の如く、空中に浮かぶことができる。
或いは、悪人に追いかけられ、金剛山から落とされても、彼の観音の心念力は、一本の毛も損なうことがないようにしてしまう。
或いは、怨みある賊にとりかこまれて、刃物で害を加えられても、彼の観音の心念力は、怨みをなくさせ、慈しみの心を起こさせてしまう。」
・・・等等々語りがまだまだ続いていく。長くなるのでこの辺でやめておく。
 これが、観音となった人の、経験の世界である。釈迦の説いた教えを守り、修行して、教えを身につけて、悟りをひらいていった人の経験は、死んであの世となっても、無くなることが無く、無駄にはならず、心念の力は、何者にも犯されることのない力となって、神通力となっていくとしている。
 「念彼観音力」は、 「彼の観音の力に思いをこらしなさい」としているのではない。「彼の観音となった心念の力」としているのである。その力は、云々と述べているのである。 けっして祈る為の経ではない。
祈る為に作られたものでない為に、どんなに唱えても、けっして救われることは無い。祈って救われるのなら、とっくに皆、救われているはずである。・・・
つづきはまた


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