つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

この上ないもの

2016-04-30 | Weblog
優しさより優れたものを私は知らない。
この世で最上なものは優しさである。
優しさより優れたものがあるというのなら、どうか教えてほしい。

下心をもって善を為すなら、
けっして成就しないものである。
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少しづつ分かりかけてきたこと

2016-04-29 | Weblog
魂というのは、
それぞれに志というものを持っている。
意向である。
水を得た魚のように、適材にして適所というところを心得た場合、
魂は活き活きとしてくる。そこに損得という煩悩は無く、あえて
魂の使命というもの自ずとつけて、それを全うするために、精魂込めて立ち向かう。
魂が生きる意味を見出したというもので、
感情のなせる技である。
本来、そのようにして魂は動いているものであるのだが、
ある時、小賢しいものが悪智恵というものを働かせて、
煩悩具足に、お山の大将に立ちたがる。
金融システムを考え出し、金で自由を奪い、全てを牛耳ることに成功した。
何かをするのに、魂の求める使命というものを抑えこみ、損得によって成り立つ生活の
基盤を作り上げて、それによって動かなければならないようにしてしまった。
そのために、金が無ければ教育もままならず、低能なままに、金持ちの言いなりになる。
奴隷的階級制度を、一部の小賢しいものの為に作られてしまった。
満足な教育も受けられない大衆は、自由を奪われている状態である。
自由は、エネルギーの自由である根本性質、それを束縛することは、
エネルギーの法則の自由を侵すに等しい。
必ず戒められる!

太陽系惑星はまだ十分に知られてはいない。
12の惑星を持つのが太陽系なのであるが、まだその数まで正確に知られてはいない。
キリストの中にも12の使徒とあるように、この数字は12の惑星から来ている数字である。
人の遺伝子も本来12なのであるが、将来威厳となることを恐れて、小賢しいものに10削られて2螺旋となっている。
太陽をめぐる惑星の軌道が12螺旋状となっているために、人の生命も螺旋状となっている。
自然というのは、一時的に人工的改変されても、必ず元に戻っていく。もうじき、
2螺旋状遺伝子情報も12螺旋遺伝子にもどってくる。21世紀内に起こる事柄である。

他の惑星の生命は、金融システムというのは持たない。彼らは皆魂の使命というもので動いている。
そのために、人間の様な貧困はない。だから、高度に進化することがスムーズである。

日本においても、金持ちの高学歴進学率が高く、貧乏人の低学歴は歴然である。
それが自業自得として済ましてしまえば、全体のマイナスであることに気づくことが無くなってしまう。
金融であらゆる物事の進化が滞ってしまうことを知るべきである。
金融システムがある為に、幸せになるのではない。むしろ、不幸せこの上なく、
不自由極まりないものとなっている。
ある一部の金持ちの為の、煩悩に縛られた束縛社会が現代である。



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裏腹

2016-04-27 | Weblog
人というもの、
死にたいと思っても、死ねるものではなし、
死にたくないと思っても、いとも簡単に死んでしまったりするものである。

人の心と裏腹にあるのも世の常の様。
さて、
未練たっぷり思い残してこの世を去らば、
苦し紛れのあの世の世相、
思い残すことなく、未練さっぱりこの世を去らば、
さてさて、幸せなあの世の世相と思いきや、
スットコドッコイ、何ら変わらぬ哀しい世界。

心と言葉裏腹に、
心と行い裏腹に、
心と心も裏腹にしてあるものであれば、
すべてがかなわぬものである。
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気品

2016-04-27 | Weblog
哀しきかな人の心には優劣がある。
日本という国の中にしても、幼くして同じような環境の中で、
同じような教育を受け、善悪の分別を学んでいくにもかかわらず、
心無く育つ者と、心優しく育つ者とに分かれる。

同じことを見聞きしても、人によって捉え方が違うもので、
十人十色で生きている。
だから、真実というものは、なかなか正しくは伝わらないものである。
そのために、いくつもの真理が生じ、神々の存在となる。
宗教における各宗派などがあるように、真理一つにして幾つもの違いとなっている。

どうあれ、物事はたった一つから始まって、いくつもに枝分かれしていくものであるが、
正しい道の理は一つに過ぎない。
それぞれに善いとすることを学んでも、違って受け取られるのは、偏にその人の格に由るものである。

魂の格である。気高くあらねばならない
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無償の愛

2016-04-23 | Weblog
多分にして人というのは哀しいものである。
心あるものでありながら、心無い人のなんと多いことか。
そんな彼らは皆、この世とあの世とを幾多にわたって行き来して、
一切皆苦の中にただ埋もれるばかりである。
なぜ?と問うばかりにて答え見出すことなくして、右往左往に生きるのみ。
戸惑いトワイライトの世に振り回されるだけ。
ほんの少しでも、我を振り返り、省みて己の至らなさ、情けなさを嘆くならば、
その時点でもう自分は、心ある人という事になる。
心あるなら情け多くして、共に分かち合い、共に繁栄を願うものである。
しかるに、人の心浅ましくあり、他人の不幸蜜の味と思うものでもある。
であるからこそ、戒めて戒めて、己の心の澄むことをただ精進にして努力のみである。
たとえ聖者と言われていても、この世相対にあらば、ゆえに、極力極力として醜さを戒めるに勉めること然り。
まことに、己の心下心なく、浄くある事気が付かば、まことにまことに喜ばしいものである。
何かに着飾ることもなく、ありのままにして質素にありながら、後光極まりなく翳されているものである。
そのような心に邪集うことなく、悉く災い避けて通る。
倖せとはそんなところに寄り添う。己の心ただ戒めて清くあるなら、幸いということこの上なし。

多分にして哀しいものの性は、破滅の進化をただ辿るばかり。
あちこちにて禍多く生まれ、抑止力としての核力に頼れば、自ずとそのものに破滅させられる。
救われるのはただ一点、無償の愛に宿る。
それ以外に、救われる道は皆無と法則のエネルギーは示している。
さて、魂の向上、次元上昇転換期、この二十一世紀内に起こってくるとエネルギーは指し示す。
未だ目の前の仕合せにのみ執着し、分かち合うことなく、
有償という金銭に縛られていれば、共に奪い合い傷つくことしきりに、偽善にあり、愛のひとかけらも無く、
物事は滞るばかりにして、全ては過ぎたるは及ばざるが如しとなる。

苦楽は、我が身に置き換えて考えることができなければ、
この転換に置き去りにされて、儚くも永遠の苦しみの中に彷徨うばかりとなっている。

無償の愛、此の連鎖が多くの人を育てる。自由を克ちえる最大の要である。
私達はすでに今生の運命は破滅の進化一途である。助かることはない。
しかし、
魂は不滅である。生命は不滅である。故に、キリストも釈迦も今生の救いを説いたものではなく、
死後の救いを説いていったものである。死後の世界こそが魂の真の生きる世界であるとし、
その世界を幸せとするか否かが今生の人生であると。
だから、生命は死を絶対条件として生じているものである。魂の向上の為に!
それを正しい浄化の為にという。
そのゆえ、生命は死ぬために生まれると覚ることである。
覚れば、何をして何をしてはいけないというのが自ずと知れてくるもので、
真に覚れば、二度と再び生を享けることが無く、一切皆苦を離れる。苦からの解脱という。
時間も空間も無い自由気ままなエネルギーの世界に安住するものである。
永遠という世界であり、法則の絶対世界である。
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一途に愛

2016-04-21 | Weblog
東北の震災から未だ復興ままならずであるにもかかわらず、
熊本、大分と九州地方の震災。
助け合いがいち早い復興のカギを握る時期に、
消費税増税の意向は変わらないと政府は言い張る。

兆候というのは一・二度というふうに、
少しの間を置いてその対応の様をうかがう。
自らのことであるにもかかわらず、対岸の火事のようにして、
対応のもどかしさをして誤れば、今度は中枢の損壊を免れることが無い。
それは悉くにあり、二度と立ち上がることはなくなるものである。

困り果てているものは腹を空かして、朝にはいても、夕べにはもういないものである。
無上の愛なくして、人の救いはできないものである。
差し伸べるのは献身である。
それ以外の方便はないものと道理は示す。
愛というのは、そういうことである。
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弛まない努力

2016-04-20 | Weblog
善い人にめぐり会うこと、
肝要である。
優しさというのはとっても大事なことである。
優れるとも読むように、最も大切なことである。
優しくあるなら、優しい人が集まってくる。
綺麗なものに綺麗なものが集まる様に、
麗しくありたいならば、心身よく整えていなければならない。
怠ることなく、
精進努力である。
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質素に生きる

2016-04-20 | Weblog
何も持たない!
何も欲しがらない!
特に必要でないものは、
捨ててしまう。

手に持たず、腹に持たず背に負わず
足枷をつけることなく、軽く軽く、
自由であるように。

吾唯知足を思う。
吾唯足るを知るである!
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さしあげる

2016-04-17 | Weblog
宇宙は生きているというものである。
だから、動いている。
円運動にあり、その動きは螺旋状である。
その螺旋は、右巻きと左巻きとがあるが、前後にして逆転となっているもので、
進みもしないし退きもしないというものである。が、高速で移動しているものである。
全く正反対になるもならないも、心の立ち位置で見えるもので、ただ真円である。
そのために、高速に動いているにもかかわらず、まるで動きが無いようにある。
だから、何の抵抗も無く触れるが、動きに合わなければ(知ることが無ければ)弾かれてしまう。

まずもってこの語らいを聞き入れられるのは、法則の自由を少しなりとも理解できていなければ、
ちんぷんかんぷんそのものである。

宇宙は真円の容にして、激しく縮まり、激しく伸びて、
そのつり合いでゼロをもっての円運動の容である。
変化していて、変化に無いものである。
深遠であるとするものである。

ありのままを見ていながら、ありのままがわからないもので、
まことに深淵であるとなっている。

回るものである為に、繰り返すという変化を辿って、予知予見、
兆候を感じるものである。
あの時とこの時という時間差をもって、何ら気の付くことが無く
対応に無ければ、右往左往のなか悉く傷つく。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」にあるならば、助かる見込みということはない。
ある日突然ということはなく、兆しという事柄は慈悲にしてあり、
謙虚さなくしてただ傲慢にあれば、「だろうよかろう」の怠慢にあり、打ち砕かれるだけである。

悲劇を受けて、あの時この時の思いに漫然とあらば、
悲劇は繰り返されるだけである。

「我が身に置き換えて」と、
謙にして献にあらねばならないものである。
愛というのは「献」にある。
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生命エネルギー

2016-04-16 | Weblog
エネルギーの法則は浄化の法則である。
文字通り浄く化けると書いている。
化は感化の化である。
変化の刺激に応じて教化されることが本来の浄化である。
一旦ゼロに戻るということの綺麗である。それは、
綾のようなもので、あやぎぬ、綺羅と表現できる。
綾の様である為に、一見にして分からないために、
往々にして過つことあり、それが間違った浄化である。
一旦ゼロに戻るという綺麗を、事細かくたどれば、
正しい浄化の意味が理解できていく。だから、綾の様であるとする。
何もかもゼロに戻るが、繋がっているものである為に、
一旦である。正すことが大事である。自由が法則の性質であるために、
間違った浄化としない事である。
法則は善悪を持たない。そのために絶対善となっているもので、
人が善悪を判断するのは人の思いである。人の思いが善悪顚倒していれば、
それが絶対善となるために、正されることが無くなっていく。
人の思いが誤っていれば、それが地獄となって、その地獄が絶対となり正しいものとなってしまう為に、
正されることが無くなっていく。気が付くことが無い世界となるのである。地獄が作られれば、
地獄に仏が現れることはない。地獄に仏というのはないのである。その世界が正しいとなって、
正されることが無くなるためである。絶対世界であるためである。
あの世が法則の絶対世界であるために、曖昧というものが無く、二つに一つの世界である。
どちらか一方、それが、天国と地獄である。
地獄に仏が現れないのは、「無刹不現身」として説かれている。「悪の浄化のされないところには、
身を現して語ることはない。」ということである。
人が浄化されるのはこの世の間だけである。身をもって行動できる人生においてのみである。
ゆえに、正しく生きていかなければならないのだが、得てして人は煩悩にまみれ、反省する事が無く、
横柄(横行権柄)にして闊歩する。その行く先は、間違いなく地獄の沙汰である。
死んでからでは救われることはないのである。
あの世は、時間も空間も持たない。どれほど長くいても時間を感じることが無いのである。
それがどういう意味を持つのかお分かりだろう。
希にして、この世に再び生を受けたとすれば、それこそ、法の慈悲であろう。が、
この世はまた一切皆苦の世である。
生を享けるということは、苦をもってして、法を悟ることのできる最大の機会であるということである。
法を悟れば、行いがすべて自分に返ることを理解でき、すれば、何をして何をしないという方便が知れてくるものである。
生は、死を絶対条件にある。それはなぜか?死後の世界こそが生命の真の生きる世界だからである。
死後の世界は、心の現象の世界である。記憶の世界である。そのために、現世、正しい記憶として生きていくことである。
死後の世界を幸せとするか不幸せとするかが、今生の行いにかかっている。
生命には死が無いのである。それは、エネルギーの法則が無くなることのない円運動となっているためである。
その円運動は、法則の自由である。
自由がすべてである為に、人生の在り方、生の受け方、置かれた立場も自由によっているものである。
そのために、どう生きるかも自由である。
ただ、この世は悟れる唯一の場であることを忘れてはならない。
死んでからは正せる術を持たないのが、生命エネルギーなのである。
どれほどの間を置いてこの世に生を享けるかは、
生命エネルギーが、円運動の変化の刺激に対して、どう反応したかによってくる。
それは縁起が関与する。
生命は、エネルギーの法則の自由な世界を目的として誕生している。
その世界は、、清浄な世界であり、気ままにしてある世界である。
変化することのない世界となり、自由自在に生きられる世界となっている。
極楽浄土といわれている。

まず、
悟ることである。
エネルギーの法則を悟ることである。

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