まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる〜い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ15世王女 ヴィクトワール

2012-06-01 23:11:36 | フランス王妃・王女
マリー・アントワネットにとんだとばっちりを与えた王女
ルイ15世王女 ヴィクトワール・ド・フランス


1733〜1799

ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカは王子二人を生んでいたものの
次男フィリプは1733年に2歳で亡くなりました。
その1ヶ月後に生まれたのが五女ヴィクトワールです。

ルイ15世は「また女かっ!」ってことで怒り心頭です。
疎まれたヴィクトワールはフォントヴローの修道院に預けられ
15歳までヴェルサイユには戻れませんでした。

修道院では地下墓所に閉じ込められたり…という苦行で怖い思いをしたようで
一生トラウマに悩まされたとも言われています。
         
20歳の時にスペイン王フェルナンド6世との縁談が持ち上がりました。
でもね、この時フェルナンド6世妃バルバラ・デ・ポルトゥガルは病気だったけど
まだ存命中だったわけなのよ。
ひどくない? まだ生きてるのに結婚相手を探すなんてっ
仲が良い夫婦だったらしいんですけどね…

しかし、かなり深刻な状態だと思われてバルバラ王妃はそれから5年生き延びまして
ヴィクトワールとの縁談も立ち消えに…

1765年に兄の王太子ルイが亡くなり、1768年に王妃マリー・レクザンスカが亡くなります。
姉妹たちは深く喪に服すと同時に結束を強めていきました。

新たに登場したデュ・バリー夫人を許すまじ!てなわけで
姉のアデライードと甥の王太子ルイ(16世)妃マリー・アントワネットをけしかけました。

父王ルイ15世が亡くなると、即位したルイ16世は愛妾たちをヴェルサイユから一掃しました。
これで憎たらしい女たちが居なくなって安心… と思いきや…

未婚シスターズは先王の王女としてヴェルサイユで暮らすことは許されましたが
すっかり若返った宮廷ではマリー・アントワネットの影に隠れ
過去の人…忘れ去られた存在になりました。

宮廷に居づらくなったシスターズは、地方へ旅行をするようになりました。
旅行っていっても、こじんまりした女三人旅っていうわけではなく、贅沢三昧の旅でした。
度重なるシスターズの旅は国庫にまで影響を及ぼしてフランス革命の一因にもなりました。

マリー・アントワネットがドレスや宝石、舞踏会やパーティーで
フランス王家のお金を使い果たしたような印象がありますが
シスターズをはじめ、国のお金を浪費する王族はゴロゴロいたわけですね。

革命後も姉のアデライードと行動を共にし、1799年にトリエステで亡くなりました。
乳癌だったそうです。
後にアデライードと一緒にフランスへ送られ、サン=ドニに埋葬されました。

とにかく、ヴェルサイユに帰ってからは常にアデライードと一緒、
アデライードが亡くなる8ヶ月前に亡くなり、死後も一緒。
完全なおねえちゃん子ですね。 自分の意志ってあったんでしょうかね?

ヴィクトワールはルイ15世の王女の中で一番美しかったと言われていますが
一番おばかさんだったとも言われています。

マリー・アントワネットが言ったとされる「パンが買えないならお菓子を買えばいいのに」は
ヴィクトワールが言ったらしい… お菓子ではなくてミートパイだそうです。

マリー・アントワネットのばか丸出しエピソードみたいに語りつがれ
現在に至るまでとんでもない濡れ衣を着せられてるのね
少しでも名誉回復のお役にたてれば良いのだが…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 マリー・アデライード

2012-05-31 22:41:36 | フランス王妃・王女
禁断の噂を持つ “ 未婚シスターズ ” のドン
ルイ15世王女 マリー・アデライード・ド・フランス


1732〜1800

王妃マリー・レクザンスカがたて続けに3人の王女を生んだもんで
ルイ15世はちょっとふてくされていましたが
1729年に王太子ルイ、1730年に次男フィリプが生まれてご機嫌が直ったようです。

四女マリー・アデライードは、ルイーズ・エリザベートアンリエットとともに
ヴェルサイユで育ちました。
        
アデラードも十代に入ると結婚が取沙汰されました。
しかし「君主じゃない男と結婚するぐらいなら一生独身の方がまし!」と言うアデライードを
ルイ15世が「よしよし」てな感じで許し、結局縁談は決まりませんでした。

どうやらルイ15世は「女ばっかり!」とこぼしていたにもかかわらず
王女たちをお嫁に出すのがいやだったようです。 困ったもんだ
なにせこの後に続く王女たちも皆未婚です。

お気に入りだったアンリエットが亡くなり、ポンパドゥール夫人の健康が衰えはじめると
ルイ15世の愛情は俄然アデライードに向かうようになります。
あ、愛妾は別だからね

しかし、毎朝お茶を飲むためにアデライードの部屋に行ったり遠乗りに連れていったりと
一緒にいる時間が増えた父王と王女はあまりに仲が良く近親相姦の噂がたったほどで
愛妾フランソワーズ・ド・シャリュが生んだとされるルイ・ド・ナルボンヌは
実はアデライードが生んだルイ15世の子だとまで言われました。

アデライードは、ルイ15世の王女たちの中で唯一政治に興味があったと言われています。
まずは兄の王太子ルイ、続いて甥の王太子ルイ(16世)に
自分の考えを吹き込もうとしました。 失敗に終わったようですが…

そしてポンパドゥール夫人をかなり敵視して、父王を通わせないように頑張っていました。
もちろんルイ15世の子供たちは皆ポンパドゥール夫人を嫌ってましたが
アデライードは人一倍激しかったらしい…もし噂が本当だったとすればうなずけますね。

ポンパドゥール夫人が亡くなり、デュ・バリー夫人が登場すると
アデライードの出番もめっきり少なくなります。
アラフォーにさしかかると、アデライード、ヴィクトワール、ソフィーの未婚シスターズは
お互いの部屋に集まり、もっぱら編み物をしながら宮廷の噂話に耽っていました。
めったに正装することはなく、パニエの上にガウンを羽織っただけで過ごしました。
いかんいかん、おしゃれ心を忘れてはダメでないの!

そんなシスターズは王太子ルイの妃マリー・アントワネットの教育係に指名されます。
『ヴェルサイユの薔薇』で、マリー・アントワネットに
デュ・バリー夫人との徹底抗戦を吹き込んでいる三人組がいましたね?
それがこのシスターズだったのでした。

1789年7月、フランス革命勃発!
10月、パリの婦人たちがヴェルサイユ宮殿に向かって行進した日
アデライードは住み慣れた宮殿を後にしました。
ヴェルヴュ城に逃げ込んだ後、何度か拘束される目に遭いながら
1791年にイタリアへ向かいました。

イタリアには姪(兄の王太子ルイの王女)クロチルデや
マリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナなどがいましたが
皆革命の余波を恐れていてアデライードはイタリア内を点々とするハメに…
最後に訪れたトリエステで1800年に亡くなりました。

遺体はルイ18世の時代に入ってフランスへ送られサン=ドニに埋葬されました。

各国の王家の権威と安泰に翳りが見え始めた時期とはいえ
「結婚したくない!」というわがままが通って、子分のような妹たちに囲まれ
好き勝手な人生が送れたとは幸せな王女であったといえますね。

晩年はかなり波瀾万丈で、イタリアでは屈辱を味わったかもしれないけど
下々の民の苦しみを踏み台に栄華を誇った58年の人生の後に味わう10年の苦労でしょー?
私はあんまり同情しないわ…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 アンリエット

2012-05-25 22:24:18 | フランス王妃・王女
初恋はかなわず
ルイ15世王女 アンリエット・ド・フランス


1727〜1752

ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの最初の子供は
双子の王女ルイーズ・エリザベートとアンリエットでした。
       
まだ浮気に走っていなかったルイ15世は、初めての子供ということもあり
二人の王女をものすごく可愛がりました。

姉エリザベートの結婚の時、アンリエットはとても悲しみましたが
ルイ15世も娘が旅立つ直前まで付き添い、別れを惜しんだそうです。

エリザベートがいなくなると、ルイ15世の愛情はアンリエットに向けられました。
なるべくアンリエットと長い時間を過ごせるように秘書に指名して手伝わせたり
外出に誘ったりしました。

アンリエットはからだが弱かったのですが、父王の愛情を失うまいと
体調不良をおしてルイ15世に従いました。
喀血した時にも「お父様には知らせないように」と口止めしたそうです。

アンリエットは十代半ばでルイ・フィリップ・ドルレアンと愛し合うようになります。
二人は結婚を望みましたが、ルイ15世はこれを即却下しました。
オルレアン家の台頭阻止とか貴族のバランス・オブ・パワーとかの
政治的な考えもあったかもしれないけど
一番の理由は、お気に入りの娘を持ってかれるのが嫌だったんじゃないかしら?

ルイ15世は後にオルレアン家の格式やスペイン王家の継承の可能性などから考え直しますが
結局二人が結婚することはありませんでした。

ちなみに…
ルイ・フィリップはブルボン家の支流コンティ家のルイーズ・アンリエットと結婚しました。
もしかしてアンリエットとは宮廷で顔を合わせていたかもしれませんね。
年ごろも同じぐらいなので、一緒に遊んだり勉強した仲かもしれないのに恋敵に?
愛憎渦巻くヴェルサイユ…今度調べてみようっと!

姉のエリザベートとアンリエットは仲良しでしたが、エリザベートが初の里帰りをした時
二人の愛情にひびが入りました。
だってエリザベートが、家族の敵ポンパドゥール夫人を気に入っちゃうんですもの!
兄弟姉妹たちはポンパドゥール夫人のことを “ パパの売春婦 ” よばわりしていました。
それなのに、そんな女に憧れて親友になろうとするなんて〜!!
てなわけで、その後エリザベートとアンリエットは疎遠になってしまいます。

ポンパドゥール夫人に負けまいと無理をしていたアンリエットは
24歳の時に天然痘で亡くなりました(腸チフス説あり)

ルイ15世の悲しみは大変なもので、アンリエットの死後2時間は呆然とし
数週間は愛妾たちにも目を向けないほどのうちひしがれようでした。

ルイ15世といえば次から次へと愛妾をつくっては愛欲に耽り
家族を蔑ろにしていたイメージがありますが、こういうエピソードを知ると
「親としての愛情はあったのね…」と、少しホッとしますね。

けれども、これから生まれてくる王女たちに対するルイ15世の態度は徐々に変化します。

三女ルイーズが生まれた時、ルイ15世は「また女?」とふてくされまして
王子だったら行うはずだった祝典は取り消されてしまいました。
ルイーズにはヴェルサイユ内のチャペルでミサが行われただけです。 ひどいわ
4歳で風邪に罹ったルイーズは、亡くなる前に慌てて洗礼を受けさせられたってことです。

さてさて、四女からはどんなことになっていくのでしょうね?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート

2012-05-16 23:23:08 | フランス王妃・王女
義母と離れてからは幸せだったような気がする・・・
ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート・ド・フランス
パルマ公フィリッポ妃


1727〜1759

アンリ4世とルイ14世という艶話の多い王様に挟まれたルイ13世は浮いた噂も無く
地味な印象ではありますが、絶対王政の礎を築いた忘れてはならない君主です。
王妃アンヌ・ドートリッシュは何回かの流産の後
結婚後23年目に驚きの妊娠をしてルイ14世を含む王子が二人生まれましたが王女はいません。

ルイ14世と王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュには3人の王女が生まれましたが
長女アンヌ・エリザベートと次女マリー・アンヌは1歳で亡くなり
熱愛していた三女マリー・テレーズも5歳で亡くなりました。

多産な家柄が買われてルイ15世の妃に選ばれたマリー・レクザンスカ
評判どおりお子様をた〜くさん生みましたが、なにせ二男八女と王女ばっかりで
ルイ15世はたいそうご立腹
年長の王女たちと年少の王女たちは完全に扱いが違ってます。

長女ルイーズと次女アンリエットは双子です。
この頃はルイ15世はまだ浮気をしていませんでした。
初の子供が生まれたってことで大喜び!の父王は二人を可愛がりました。
    
12歳の時にカトリック強国同士の繋がりを強固なものにするため
スペイン王フェリペ5世王子フィリッポとの婚約が決まりました。
しかしフィリッポは八男で(既に4人の兄は亡くなっていたものの)
王位を継ぐ可能性が低いということでフランス宮廷は少々意気消沈したようです。

なんだかんだでその年のうちに結婚したルイーズでしたが
19歳年上のフィリッポとの結婚はあまり幸せなものではなかったようです。

ルイーズが嫁いだ時、スペイン宮廷ではフェリペ5世の未亡人
イサベル・デ・ファルネシオが権勢をふるっていました。
作法はヴェルサイユより厳格だし、義母は意地悪だし…ってことで
なかなか馴染めなかったようです。

ルイーズは義母を避けて人形で遊ぶようになり
父王ルイ15世には「不幸です」と手紙を送りました。
12歳ですものね… 遊びたい盛りだと思うんですけど
世継ぎが必要な王家の結婚生活はそんなに甘いもんじゃありません。
14歳で長女マリーア・イザベラを生みました。
マリーア・イザベラは後に神聖ローマ皇太子ヨーゼフ(2世)に嫁ぎます。

1745年オーストリア継承戦争の終結でパルマがスペインに引き渡され
3年後フィリッポがパルマ公になりました。
ルイーズはスペイン(=義母)から離れることができました。
ここからけっこう好き勝手に生きるわよ

パルマに向かう途中でルイーズはヴェルサイユに立ち寄り数ヶ月滞在します。
その時ポンパドゥール夫人に会いすっかりファンになってしまいました。
他の姉妹たちは目の敵にしていたんですけどね…

この帰国の時、18歳のルイーズを目にしたヴェルサイユ宮廷の人々は
「なんてチャーミングなんでしょう」と驚きました。
また、洞察力と知性があり、若いのに母性溢れる女性だと言われたそうです。

ばっちりフランス式の作法を仕込んだルイーズはパルマに渡り
夫フィリッポとともに万事フレンチスタイルで過ごしました。

その3年後に双子の妹アンリエットが亡くなったので
ルイーズは再びフランスに帰国します。
本当は2〜3週間の予定だったのですが、実家が楽しかったんですかね?
結局1年近くパルマに戻ろうとしませんでした。

さらに1757年にもフランスに戻り、個人的に連携していた女帝マリア・テレジア
皇子ヨーゼフと娘のマリーア・イザベラの縁談をまとめました。

その後パルマに戻ったのかどうだか定かでないんですけど
1759年にヴェルサイユで天然痘に罹って亡くなっています。
パルマにいたら長生きできたかもしれなかったのにね…

幼い頃に離れたヴェルサイユの楽しく美しい記憶が
彼女を引き止めていたのかもしれませんね。

ルイーズ-エリザベートの次女マリーア・ルイーザ
スペイン王カルロス4世妃です。
娘の不埒な新婚生活を知らずにすんで良かったのかしら?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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フランス王アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー

2012-05-07 21:29:06 | フランス王妃・王女
父王の(浮気な)血をひく王女
アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー・ド・フランス
サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世妃


1606〜1663

子供の影で王権を行使していたと言われるカトリーヌ・ド・メディシスですが
16歳で亡くなったフランソワ3世とメアリー・スチュアートにはお子様がいませんでした。
シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュには
マリー・エリザベートという王女が生まれましたファが6歳で亡くなりました。
アンリ3世とルイーズ・ド・ロレーヌにもお子様がいませんでした。

結局王座は王女マルゴの婿アンリ4世の手に渡ります。

アンリ4世はガブリエル・デストレを筆頭に、たくさんの愛妾を持っていたことで有名ですが
行動力・人柄に優れ思慮深い人で、人気が高い王様でした。
一人目の妃マルゴとの間にはお子様ができませんで
二人目の妃マリー・ド・メディシスとの間に三男三女を授かりました。

長男は後のルイ13世です。
長女エリザベートはスペイン王フェリペ4世に、
三女アンリエッタ・マリーはイングランド王チャールズ1世に嫁ぎました。

       
次女クリスティーヌは13歳でサヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオに嫁ぎました。
しかし彼女はこの結婚に満足できなかったようですね。
姉のエリザベートばかりか妹のアンリエッタまで王妃になるなんて!

クリスティーヌは妹に負けるもんか!とサヴォイア宮廷にフランス式を持ち込み
イングランド宮廷と張り合いました。
そのためには宮殿だって建て直すぜ!

しかし王妃ではなく、公国の妃という現実はどうにもなりませんね…
そこで夫にキプロスとイェルサレムの王様になってちょうだいよ! と
うるさくけしかけておりました。
男性の皆様、「課長になってよ! 次は部長になってよ!その次は専務になってよ!!」なんて
口うるさく言われるのはつらいですよね。

結局ヴィットーリオ・アメデーオ1世は王になることなく1637年に亡くなりまして
クリスティーヌは5歳の息子フランチェスコの摂政になりました。
翌年フランチェスコが亡くなり、続いて4歳のカルロ・エマヌエーレ2世の摂政になります。

クリスティーヌは移り気で軽薄な女性と言われています。
その上浮気性で多数の愛人を持っておりました。
摂政とは名ばかりで政治はそっちのけ… 評判は芳しくなかったようです。

そんな母親が幼王の摂政に就いた国… もちろんもめ事がおこりますってば。
ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟マウリッツォとトンマーゾはスペインの力を借りて、
クリスティーヌはフランスの力を借りて、継承戦争が4年ほど続きました。

この戦いはクリスティーヌの勝利に終わりました。
なんだかんだあっても息子のために領土を守り抜いたことは賞讃に値しますね。
しかもフランス王家の力が領土内で強まることも防いでいました。
やればできる子だったのですね… と思いたいが一方では…

カルロ・エマヌエーレ2世が成人に達するとクリスティーヌは摂政の座を退きましたが
実際は権力を手放しませんでした。
私生活はやりたい放題で、愛人たちが侍っておりました。
その中には継承戦争で敵だった義弟マウリッツォも含まれていた模様…
とにかくハンサムで逞しい男性がお好きだったようです。

息子カルロ・エマヌエーレ2世がクリスティーヌの弟オルレアン公ガストンの
公女フランソワーズと結婚した年に亡くなりました。
生きていたら嫁姑問題が起きかねなかったですよね?
ある意味潔い逝き方と言えましょう。
          
その後はフランス王家とこんな感じで繋がってまいります。
手を抜いてすみません… 見てもらった方が解り易いと思いまして…
         
美男子を侍らせてるあたりエカチェリーナ2世と同じなんですけどね。
エリザベス1世も何人か恋人がいましたよね。
政治をきっちりやるか、絶対的な権力を持って反対勢力を押さえ込んでいたら
悪評ばかりがたつこともなかったでしょうに… きっといいところもあったと思うよ。

いよいよブルボン家末期にさしかかってまいります。
長〜い時間かかっていたフランス王女編も終わりが見えてきましたね! ふ〜う

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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『地図にない町』SFって幅広いのね

2012-04-24 21:55:38 | アメリカの作家
THE COMMUTER AND OTHER STORIES 
1953 フィリップ・K・ディック

SFをあまり読まない私なんですが、P・K・ディックは何冊か持ってます。
しかし完全に内容を覚えていないのだが…
村上春樹さんに凝った時に「読んでる」って書いてあったからだと思うのね…

P・K・ディックは宇宙でドンパチ…という印象が強いんですが
この一冊からはもう少し親しみ易さを感じました。
内容はともかく、とりあえず地球が舞台の話が多かったのでね…

好きだったお話しをご紹介します。

『おもちゃの戦争(The Little Movement)』
ボビィ少年は町でおもちゃの兵隊をひとつ買ってもらいました。
しかし、家に持ち帰ると兵隊は豹変し、ボビィ少年に命令するようになります。
兵隊は仲間の兵隊たちと人間社会を乗っ取る気です。

ASIMOとかムラタセイサクくんがある今、「ありえない」 とは言えないですよね!
明晰な頭脳を持つ小さな兵隊に攻められるって、怖いような可愛いような…
兵隊をやっつける正義の味方もかなり可愛いです。

『名曲永久保存法(The Preserving Machine)』
ラビリンス博士は名曲を後世まで遺したいと思い名曲保存器を製造します。
モーツァルト、ベートーベン、バッハなどの楽譜を奇妙な生物に変えて森に放ったところ
生物たちは野生化して、森はとんでもないことになります。

ものすごい良音で場所もとらずに音楽が保存できる今、そんな回りくどいこと…と
思いがちですが、昔の人々にとっては夢みたいなことだったんでしょうね?
でも1950年代って蓄音機は無かったのかしら?
現代には100年前の人から見れば魔法みたいな商品が山のようにありそうですね。

『ありえざる星(The Impossible Planet)』
アンドリュウ船長の船に350歳になるゴードン夫人がやってきて
死ぬ前に伝説の星、地球へ行きたいと言います。
大金に目が眩んだ船長は、地球によく似ているエムファー3星を選び向かいました。
しかしその星の没落ぶりにゴードン夫人は…

地球の寿命ってあと何年でしたっけ? その後にはこんなことがおこるのかしら?
星の最後は粉々に砕け宇宙に飛び散るんだと思っていましたが
廃墟になったうら寂しい星のたたずまいを想像すると
一種のロマンを感じないでもないですね。

未来の戦争や宇宙の駐屯地をテーマにした話もあれば、不思議な機械の話あり
ギリシャ神話をモチーフにしたもの、怪奇小説のような話、超能力など
一般人が不思議に感じるものを幅広く描いております。

本当にあったら東スポが黙っていなそうな内容が盛りだくさん!!で
面白かったですよ。
あと2冊短篇集があるのでいつか読んでみます。
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『1984年』正解は見えない・・・

2012-04-18 22:22:56 | イギリス・アイルランドの作家
NINETEEN EIGHTY-FOUR 
1949年 ジョージ・オーウェル

恐ろしい小説ですが、ただの独裁国家批判小説とは思えない… というか
批判してるんですかね?
最初に言っとくとハッピーエンドではありません。

舞台はオセアニア国の首都ロンドン。
主人公ウィンストン・スミスが暮らしているのが勝利マンションズで勤務先は真理省。
話す言葉は “ 新語法 (ニュースピーク)” 、一息つきたくなったら “ 勝利ジン ”
国では “ 憎悪週間 ” を迎えようとしていました。

オセアニア国は常にいずれかの隣国と戦争中で国威発揚が叫ばれています。
党の最高指導者B.Bのポスターとスローガンが至る所に貼られています。

ウィンストンたちの暮らしは屋内に取り付けられたテレスクリーンで完全に監視され
朝の体操から煙草の銘柄、出かける場所などありとあらゆる面で管理されています。

なんていうか… 「こうすれば独裁体制は安泰!!」っていう教科書みたいよ。

ウィンストンは39歳の男性で、記録局というところで働いています。
政府の刊行物を政府に都合良く修正(改ざん)するのが仕事です。
両親と妹は第一次大粛正の時に姿を消したようですがはっきり覚えていません。

物語はウィンストンが決死の覚悟で日記を書くところから始まります。
これはものすごく危険なことで “ 思想警察 ” に知られたら大変なことになります。
同僚も友人もいつ密告者に変わるかわからず、誰も信用できません。

ウィンストンは地下組織として国家転覆を図る “ 兄弟同盟 ” に入ろうとします。
兄弟同盟に実態はありませんが、噂は広くはびこり公然の敵とされています。

けれども信じた相手が悪かった…
ウィンストンは逮捕され、洗脳され、釈放されて… 過去の政治犯と同じ末路をたどります。

主な登場人物を書きますね。
誰がウィンストンを陥れたのでしょうか?

魅力的な女性でありながら “ 青年反セックス連名 ” の活動をしているジューリア。
けれども彼女はいきなりウィンストンに愛を告白します。
ジューリアは国の体制になんら疑問はないようですが、実は快楽が好きな女性でした。

“ 党内局 ” で重要なポストを占めているオブライエンは、どこかユーモラスで魅力的です。
ウィンストンはオブライエンが自分と同じような考えを持っているのでは…と
思うことがあります。

仕事熱心な同僚のチロットソンは口をきいたこともありませんが
彼はウィンストンに敵意のある視線を送ります。

夢見がちで頼りない同僚アンプルフォースは詩の改ざん版を制作しています。
彼は過去のイギリスの詩について語る時幸せな表情を見せます。

サイムはウィンストンの友人で調査局に勤めています。
政府には忠実で新語法にのめりこんでいます。
しかし、ウィンストンはサイムがすぐに密告者に変わるタイプだと気づいています。

マンションの隣人パーソンズは政府のために骨身を惜しまず活動しています。
気の弱そうな妻と、政府のプロパガンダを完全に信じている子供たちがいます。

ウィンストンとジューリアが人目を忍んで会うために借りた部屋がある
“ プロレ街 ” の古道具屋の主人チャリントンは過去の遺物のような人です。
粛正以前のことを覚えていて、懐かしそうに話します。

以上、主だったところを書いてみましたが、この中の何人かはまさに思想警察の中枢で
ウィンストンのような政治犯に容赦はしません。
手順に従って徹底的に潰します。

逆に何人かはウィンストンが収容所で会うことになります。
皆不安げで、“ 101号室行き ” を心底恐れています。
ウィンストンも最後には101号室に行かされるんですけどね…

でもそれが終わりじゃないの… 怖いわぁ。
『メトロポリス』的なラストを予想していましたが、全く違ったですよ。
確かに『メトロポリス』は政治というより経済格差が焦点だったけど…

しかし… 私は最初にハッピーエンドじゃないと書きましたが、もしかして…
こういう社会を当然視していて、謳歌していて、何も不自由を感じていない人には
反逆者が哀れな末路をたどって社会秩序が保たれるって、良いことかもね?

民主主義が正解で、共産主義・独裁が誤り、というのはこっちサイドの見方であって
国家にとって何が良いのかは、学者さんによって見解が異なるんでしょうね?

私はやっぱり、自由にものが言える世の中が好きですね。 好きですが…
こうもトップが入れ替わり、どいつもこいつも長続きしない(させない)政府を見てると
「もう! 独裁者でもいいから長続きする指導者が欲しいよ!」なんて思っちゃうけど
国民が自由な独裁体制ってあるんだろうか?
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フランス王アンリ2世王女 クロード

2012-04-16 21:50:52 | フランス王妃・王女
母は… でました! カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世王女 クロード・ド・フランス
ロレーヌ公シャルル3世妃


1547〜1575

アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの間には愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ
どっしり居座っていたとはいえ、お子様は10人が生まれています。
王子は5人で、3人が王に即位しましたが皆カトリーヌに操られていたような感じですね?

長女エリザベートはスペイン王フェリペ2世妃になりました。

次女クロードは姉のエリザベートと
兄フランソワ(2世)の婚約者スコットランド女王メアリーと一緒に育てられました。

エリザベートはメアリーに従順で大人しい性格に育ったということでしたが
クロードは輪をかけて内気で控えめな性格だったようです。
恐るべし、メアリー・ステュワート…

         

クロードは病弱で、カトリーヌの猫背と内反足を受け継いでいました。
ちなみにこの特徴は、三女のマルグリート以外の兄弟姉妹が皆受け継いでいたらしいです。

クロードは11歳の時に4歳年上のロレーヌ公シャルル3世と結婚しました。
カトリーヌの大のお気に入りだったクロードは結婚後も頻繁に里帰りしましたし
逆にカトリーヌもしばしばロレーヌを訪ねていました。

しかしそんなお気に入りの娘もたまには母親に反抗…
クロードはカトリーヌに黙って妹マルグリートに
サン・バルテルミーの虐殺のことを教えてあげようとしたとか…
三女マルグリート、通称マルゴはブルボン家のアンリ(4世)と結婚したばかりでした。
ちなみにアンリはプロテスタントでございます。

 ひとくち情報
“ サン・バルテルミーの虐殺 ” とは、ザックリいうと
1572年8月24日に、アンリ(4世)とマルゴの結婚式のために集まったプロテスタント貴族たちが
カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公アンリの指示で多数殺害された事件です
殺害は貴族だけにとどまらず、街中でプロテスタントの市民が殺されました ひとくち情報おわり


大人しかっただけにあんまりエピソードがないですね。
9人のお子様がいまして、28歳の時に末娘クロードの出産で亡くなりました。

長女のクリスティーヌがトスカーナ大公フェルディナンド1世妃になりました。

なにせ、カトリーヌ・ド・メディシス、マルゴ、メアリー・ステュワートと
大物が目白押しのフランス宮廷ですのでね…
他の淑女たちは霞んじゃいますよね

アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの四女ジャンヌと五女ヴィクトアールは双子でしたが
ジャンヌは生まれた翌日、ヴィクトアールは生後2ヶ月で亡くなりました。

この後カトリーヌは「子供生み過ぎ!」ってことでお医者様からストップがかかりました。
アンリ2世は「やった!」って感じでカトリーヌの寝室に近づかなくなり
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋に通うことが多くなったようです。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王フランソワ1世王女 マルグリート

2012-04-13 22:19:55 | フランス王妃・王女
瀕死の兄王の指示で挙式
フランソワ1世王女 マルグリート・ド・フランス
サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト妃


1523〜1574

フランソワ1世はルイ12世の王女クロードと結婚し
アンリ2世を含む7人のお子様を授かりました。
王女は4人ですが、長女ルイーズは2歳で、次女シャルロットは7歳で亡くなりました。

三女マドレーヌはスコットランド王ジェイムズ5世の妃になります。

      

義理の姉にあたるカトリーヌ・ド・メディシスとはとても仲が良かったそうです。
カトリーヌも中傷や夫とディアーヌ・ド・ポワティエの問題でつらい結婚生活が続く中
宮廷内にお友達ができてとても心強いことだったでしょうね。

15歳の時、フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世の間で
マルグリートとカール5世皇子フィリップ(後のスペイン王フェリペ2世)の
結婚が決められましたが、すぐに破談になりました。

実はフランソワ1世は、カール5世に神聖ローマ皇帝の座をもってかれた経験があります。
フランスと神聖ローマ帝国はイタリアの覇権も争っている最中でした。
スペインの王座奪い合いもこれから激しくなっていくし…
まったく、他所の国で何やってんでしょうね?

ちなみに、フランソワ1世は王妃クロードを亡くしてから6年後
カール5世の姉アリエノールと再婚しました。

その後マルグリートに相応しいランクの相手を探すために時間が費やされ
結婚が決まったのは36歳の時… 費やしすぎではないのか?
相手は5歳年下のサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトでした。

この結婚の祝賀式典の一環で行われた騎馬試合で兄アンリ2世は傷を負い
瀕死の状態に陥ります。
けれども一瞬意識を取り戻すと、マルグリートの結婚式を直ちに執り行うよう指示しました。
これはサヴォイア公側がアンリ2世の死で同盟を拒むのを恐れたためです。

宿敵カール5世の息子フェリペ2世にミラノとナポリを奪われた以上
少しでもイタリアにリンクしておかねば!! というガッツが感じられますね。

アンリ2世はマルグリートの結婚式の最中に亡くなりました。

マルグリートとエマヌエーレ・フィリベルトのお子様で成長したのは
カルロ・エマヌエーレ(1世)だけでした。
後にフェリペ2世の王女カタリーナ・ミカエラと結婚します。

父親と破談になった姑がいる家なんて… 嫁いだらいじめられそうで怖いですね
でもマルグリートは亡くなってたらしい。
ま、当時はそんな個人的な感情なんて関係なかったんでしょうけど…

フランス王家とハプスブルク家の覇権争いが激化しているのはうっすらわかるが
マルグリートのパーソナリティについてはまったくわかりませんでした。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ12世王女 レネー

2012-04-06 17:20:49 | フランス王妃・王女
義理の母がチョー有名!
ルイ12世王女 レネー・ド・フランス
フェラーラ公エルコレ2世妃


1510〜1574

イタリア支配を夢見ていたシャルル8世は若くして亡くなりました。
王妃アンヌ・ド・ブルターニュは7回妊娠しましたが、皆死産や流産
あるいは幼くして亡くなりました。
王女は3人ですが、お名前がついたのは末子のアンヌだけです。

アンヌ・ド・ブルターニュが再婚したのがルイ12世です。

ルイ12世は、ルイ11世王女ジャンヌと結婚していましたが、無理くり離婚して再婚しました。
ジャンヌとの間にお子様はいません。

アンヌ・ド・ブルターニュはまたまた9回妊娠しましたが、成長したのは王女二人でした。
長女クロードはフランソワ1世妃になります。

アンヌ・ド・ブルターニュは自分の領地であるブルターニュの自治を守るため
日々戦っていまして、ブルターニュをレネーに譲ろうと考えていましたが
ルイ12世が承諾しませんでした。
結局ブルターニュはクロードに譲られ、その後フランス王家に持ってかれます。
       
当時フランス宮廷の侍女の中にはアン・ブリーンがいまして
レネーは彼女がお気に入りだったようです。

18歳の時エステ家のフェラーラ公エルコレ2世と結婚しました。
エルコレ2世の母は “ あの ” ルクレツィア・ボルジアでございます。
レネーが嫁いだ時には既に亡くなってますので直接は会ってませんけど。

フェラーラの宮殿はルクレツィアによって芸術が盛んになたていました。
レネーはさらに芸術を奨励し、科学に力を注いだりしました。
最初はそんな宮廷生活を楽しみ、5人のお子様に恵まれたりと幸せだったみたいですが
後年はそんなにハッピーではなかった様子…

なぜかっていうと…
ルクレツィア・ボルジアの父はローマ教皇アレクサンデル6世で
いわばエルコレ2世はカトリックの長の孫にあたるわけなんですが
レネーは後にカルヴァン派(プロテスタント)の支持者になって後押ししたからです。

ローマ教皇庁が新教の貴族たちをフランスから追い出しにかかった時に
ジャン・カルヴァンがレネーの宮廷を訪れて数週間過ごしました。

レネーは多数のプロテスタント信者たちと連絡を取り合ったり
プロテスタントの正餐を受けたりとプロテスタントに傾倒していきました。

しかしローマでは反宗教改革が始まり、フェラーラで審問が始まりました。
エルコレ2世はレネーの甥アンリ2世に告訴し、レネーの財産を全て剥奪して捕らえました。
レネーはこの仕打ちに屈し、懺悔を行ってカトリックの聖体拝領を受けました。
しかし今までのように好き勝手なことは当然できませんね。

息子たち、特に末子で司教のルイージとは当然意見が合いません。
レネーはフランスに帰ることを熱望しましたが実現せず
1559年にエルコレ2世が亡くなってからやっと帰ることができました。

フランスでは長女のギーズ公妃アンヌのもとに身を寄せましたが
ギーズ公はカトリック派の筆頭貴族です。
ここでも小さくなっていなければね…

ギーズ公の甥にあたるフランソワ2世が亡くなってギーズ公のパワーが少し衰えると
やっと領地の中でプロテスタントの礼拝を受けることができるようになりました。
良かったね
そればかりかカルヴァン派の牧師まで呼ぶことができるようになり
レネーの城はプロテスタント貴族の避難所みたいになっていきました。

けれども安泰な時期は10年ほどでした。
1572年、サン・バルテルミーの虐殺がおこります。
レネーはかろうじて何人かのプロテスタント信者を救うことができましたが
大多数の信者を守れませんでした。

さすがにカトリーヌ・ド・メディシスも王女であるレネーには手を出さなかったようですが
その後もカトリックへの改宗をしつこく迫りました。
レネーは無視してたみたいですけどね。

サン・バルテルミから2年後、娘アンヌの領地モンタルジで亡くなりました。

エルコレ2世は教皇パウルス3世に忠誠を宣誓しています。
パウルス3世はカトリックとプロテスタントの対話を計った教皇だったようです。
そんな人に忠誠を誓った人がなぜ自分の妻にそんなことを?
ちなみにパウルス3世の後任ユリウス3世もプロテスタント理解者だったらしい…

二つの宗教(派?)のどちらかが主張を和らげていたら
たくさんの人の人生が変わっていた時代のような気がしますよ。

世界の転機みたいな方面から見ればレネーはもっと知られていても良い気がするが
“ 女の歴史 ” の中では、美貌の持ち主でスキャンダルいっぱいのルクレツィアの方が
どうしても目立っちゃいますよね。

(参考文献 澁澤龍彦氏『世界悪女物語』 Wikipedia英語版)
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