まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝フェルディナント3世妃 マリア

2009-12-04 02:22:32 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
そんなにエピソードがないのです…
フェルディナント3世妃 マリア・アンナ・フォン・シュパニエン


1606~1646/在位

母はフェルディナント2世の妹マルガレータで、マリアとフェルディナント3世は
いとこ同士になります。
お得意の血族結婚ですね。
         
イングランドのジェームズ1世は王太子チャールズ(後の1世)と
マリアを結婚させようとしていて、チャールズはマドリッドを訪れてまでいますが
結局(プロテスタントの)議会が承認せず破談になりました。
しかしチャールズはその後、議会の反対を押し切って
フランスからカトリックのアンリエッタ・マリアを妃に迎えているんですけれどもね。

結婚のお祭り騒ぎは1ヶ月も続いたそうです。
さすがハプスブルク家同士!
ふたりの結婚生活は幸せだったそうで、マリアもフェルディナントのことを
とても気が合う相手だと言っていました。

しかしハプスブルク家は30年戦争のまっただ中で、戦況は良くありませんでした。
一家はリンツに避難し、マリアはそこで6人目の子供を授かりましたが
妊娠中毒症で亡くなります。
その時に生まれた娘はしばらくは生きていたのですが亡くなってしまいました。
マリアと名付けられた娘と母マリアは一つの柩に納められて埋葬されたそうです。




              
さらにエピソードがないのです…
フェルディナント3世妃 マリア・レオポルディーネ
               フォン・エスターライヒ=ティロル


1632~1649/在位

マリアもフェルディナント3世の従妹で、ラインは違えど血族結婚です。
1648年に結婚し、翌年出産の時に亡くなりました。

        

1648年は30年戦争終結の年で、ハプスブルク家は大量に領土を失っています。
あまり良い時を夫と過ごせず、17歳で亡くなるとは… 可哀想すぎる人生ですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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神聖ローマ皇帝フェルディナント2世妃 マリア

2009-12-02 02:01:43 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
とりあえず・・・
フェルディナント2世妃 マリア・アンナ・フォン・バイエルン


1574~1616/在位せず

フェルディナント2世はガチガチのカトリック教徒でして
カトリック派を率いて30年戦争を戦った皇帝として有名です。

その最初の妃になったのは従姉にあたるマリア・アンナでした。
うーんと…家系図的にはにぎやかなんだが、彼女のエピソードは何も…
フェルディナントが皇帝になる3年前に亡くなっています。
      



               
国のために結婚したというのに・・・
フェルディナント2世妃 エレオノーラ・ゴンザーガ


1598~1655/在位 1622~1637

マントヴァではたぐいまれな美しさで名高かった少女エレオノーラは
フェルディナントが皇帝になって3年目の1622年に結婚しました。

     

すでに30年戦争は勃発していて、ドイツ国内の新教派
例えばプファルツ、ブランデンブルク、ザクセンなどの公女や
ヨーロッパ諸国の新教派である北欧、イングランドあたりから
妃を迎える状況じゃなかったのかもしれないね。
フランスはカトリックですが仲悪いしイタリアの取り合いをしているし…

しかしゴンザーガ家はこの結婚で恩恵を受けることはありませんでした。
1630年のマントヴァ継承戦争の際には同盟国であるはずの皇帝軍に
都市を破壊されてしまう始末。
故郷がそんな目にあうなんて、嫁いで来たエレオノーラはどう思ったことでしょうね。

エレオノーラは美しいだけでなくとても信心深い女性だったそうで
(中世では敬虔であるというのは美徳だったみたいですね)
グラーツやウィーンなどにいくつかのカルメル派修道院を設立しています。

夫の死後もオーストリアで暮らしていたらしく
1655年に亡くなるとカルメル派の修道院に埋葬されました。
1782年に聖シュテファン大聖堂に移葬されています。

国のために…と若い身空で異国へ嫁がされた各国の王女たちですが
故国との関係が上手くいくならまだしも、失敗に終わった時の後悔って…
想像するにあまりある哀れさですよね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世妃 マリア

2009-11-29 01:00:38 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ウィーンはお嫌い?
マクシミリアン2世妃 マリア・フォン・シュパニエン


1528~1603/在位 1564~1576

マリアの父スペイン王カルロス1世も母王妃イサベラも信心深いばりばりのカトリック、
てなわけで、宗教的には厳格に教育されたようです。

1548年、従兄のマクシミリアンと結婚することになりました。
スペイン王妃のところでも再三書いていたハプスブルク家の血族結婚ですが
ふたりが第1号らしいです。

     

結婚後しばらくはカルロス1世の要望で摂政としてスペインに滞在したマクシミリアン夫婦は
1552年にウィーンへ移りました。

マリアはかなり敬虔なカトリック信者で、説教師たちをスペインから同行して
厳格なカトリックの普及に努めたらしいんだが
ハンガリーやベーメンでは新教が盛り上がりを見せていました。
実はマクシミリアンはちょっとプロテスタントに傾きつつあったんですね。

ふたりの間には16人のお子さんが生まれているのですが、衝突は絶えませんでした。
マリアは子供たちに多大な影響力を持っていて、特に長男ルードルフ(2世)などは
彼女の宗教観を受け継いでいました。

1576年にマクシミリアンが亡くなり、6年後にスペインに帰ったマリアは
「異端者のいない国で暮らせるなんて幸せなことよ!」とコメントしています。

1603年に亡くなるまで、大好きなスペインで暮らしたそうでございます。

その強い信仰心、もし権力を握っていたらイングランド女王メアリー1世
フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス的な弾圧も辞さなかったかもね!
権力を欲しがるタイプの方ではなくて、本当にようございました。




              
年の差親戚婚
マティアス妃 アンナ・フォン・ティロル


1685~1618/在位 1612~1618

マクシミリアン2世の後皇帝になったのは次男のルードルフ2世(長男は夭逝)でしたが
未婚だったので、その後は弟のマティアスに帝位が移りました。

ルードルフ2世は芸術におおいに貢献した皇帝として名高いのですが
政治的には上手く国をコントロールできなかったみたいです。

実はマティアスはルードルフ2世のことをふがいなく思っていて
自分が皇帝になれば!という野望があったのです。
プラハに隠遁してしまったルードルフのもとへおしかけて帝位を譲れとせまったり
実力行使に及んだり… 兄弟喧嘩と言っても奪い合うもののスケールが違いますからねぇ。

そんなマティアスの妃は、従妹のアンナ。
アンナの母はマントヴァ公女アンヌ・カタリーナ・ゴンザーガで
従姉妹のエレオノーラが後に皇帝フェルディナント2世妃になります。

       

マティアスは皇帝になったものの、やはり国政は上手くいかず
たった7年で亡くなってしまいました。
アンナはその3ヶ月前に亡くなっています。

親戚だ、という以外にエピソードがない皇后でございました。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家  講談社


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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世妃 アンナ

2009-11-27 02:55:52 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ハプスブルク家にふたつの王冠をもたらした妃
フェルディナント1世妃 アンナ・フォン・ベーメン・ウント・ウンガルン


1503~1547/在位せず

1516年、ヤゲウォ家のハンガリーとベーメン王ウラースロー2世が亡くなります。
すると、10歳で王になったラヨシュ2世と妹のアンナは
皇帝マクシミリアン1世の保護下におかれました。

これはマクシミリアンの結婚戦略によるものです。
まず孫のマリアは1歳の時にラヨシュと婚約し、1515年に結婚していました。
アンナはどの孫と結婚させるか迷っていましたがフェルディナントに決まり婚約しました。

マクシミリアンはすでに息子フィリップ美公とスペイン女王ファナとの結婚で
スペインを手に入れていました。
次のターゲットは、ベーメン&ハンガリーってわけでしょうか?

         

1521年、フェルディナントは兄カール(5世)に代わって
オーストリアを治めることになりました。

実はカールはフランドル育ち、フェルディナントはマドリッド育ちです。
だから本当は逆を治めた方がもめなかったんじゃないかと思うんだけどね。
性格も兄カールは寡黙で信仰心が強く質素だったというけれど
フェルディナントはご陽気ですぐにみんなの人気者、太陽が似合いそうじゃない?

それはさておき、統治を機にフェルディナントとアンナは結婚しました。
もちろん政略結婚だったわけですが、とても愛し合っていたそうです。

1526年、マクシミリアンの思惑どおり(と言ってはなんですが)
ラヨシュ2世が嫡子を遺さないままオスマントルコとの戦いで戦死してしまいました。

フェルディナントはアンナの権利を盾に、ハンガリーとベーメンを手に入れます。
しかしハンガリーには少々手こずりました。
ハンガリー貴族たちは外国の統治者を認めようとせず
対立王にサポヤイ・ヤノーシュをたてます。
その後はサポヤイの妻イザベラが女王を名乗り、次いで息子のヤノーシュ・ジグムンドが
王になり、というわけで完全に手に入れたのは1571年でした。

これより歴代の神聖ローマ皇帝は、ベーメン王とハンガリー王を兼ねることになります。

1531年に兄カール5世から継承者としてローマ王の座を譲られていたフェルディナントは
アンナの死から9年後の1556年に神聖ローマ皇帝になりました。

ご陽気だったフェルディナントはアンナの死後は大人しい人になってしまったそうです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家 講談社


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神聖ローマ皇帝カール5世妃 イザベラ

2009-11-26 01:28:28 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
大帝国を持つ夫の質素な妻
カール5世妃 イザベラ・フォン・ポルトゥガル


1503~1539/在位 (スペイン王妃)1526~1539
          (神聖ローマ皇后)1530~1539

すでにスペイン王妃イサベルでご紹介しているのですがちょっと補足を…

家系図も1カ所だけ補足しました。
      

なにしろ信心深くて、ウィーンに移る時にはスペインから説教師を同伴させて
厳格な信仰を深めました。
その上、とっても質素な人で、暖房も入れずに冷たいご飯を食べたそうです。

神聖ローマ帝国と大国スペインを治めているというのに
台所事情が苦しかったのでしょうか?

イザベラは難産の末流産して亡くなったのですが
あまりの苦しさに顔が変わり果てていたということです。
お別れのキスをしようとした皇太子が気絶してしまうほどだったらしいですよ。
皇太子フェリペ(2世)は母親が大好きだったといいますから悲しかったでしょうね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 高橋秀爾氏『歴史の中の女たち』)

歴史のなかの女たち 岩波書店


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名画にのこる女性の歴史を解説してくれます
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世妃 ビアンカ

2009-11-25 02:43:13 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
宝石のドレスを纏った花嫁
マクシミリアン1世妃 ビアンカ・マリア・スフォルツァ


1472~1510/在位 1508~1510

愛妻マリア・フォン・ブルグントの死から26年、マクシミリアンが再婚します。

なぜいきなりイタリアから?
この当時はフランスがイタリアへ進出し始め、ナポリなどの支配権を主張していました。
“ 神聖ローマ皇帝 ” としては黙っていられませんね! あまり関係はないけど。

スフォルツァ家はミラノですよね?
フランスはミラノの権利も主張していたので、その前に手を打っとこうと
ビアンカを選んだのかもしれません。
     

ビアンカはまだ2歳にも満たないうちに従兄弟のサヴォイ公フィリベルト1世と結婚、
相手も9歳ですから結婚したと言えるのかはどうかは分かりませんが
8年後にフィリベルトが亡くなって、わずか10歳で未亡人になりました。

22歳の時にマクシミリアンと再婚します。
結婚式の時、ビアンカはルビーや真珠からなる80ピースものジュエリーアートで
飾られたボディスを着ていました。
それに持参金も、40万ダカット? なんだかとってもすごい金額だったらしい。

マクシミリアンはビアンカとの結婚を理由にミラノ君主を宣言しましたが
これにシャルル8世の姉で摂政だったアンヌ・ド・ボージューが激怒し軍事介入して来ました。
この後、ヴァロア家とハプスブルク家はイタリアを巡って戦いを続けることになります。
人の国でなにやってるんだか…

すでにフリードリヒ3世と共治王になっていたマクシミリアンは
1508年にローマ皇帝になります。
ビアンカはその2年後に38歳で亡くなりチロルのシトー派修道院に埋葬されました。

宝石と持参金以外にエピソードがないというのも… なんだか悲しいですね。

ところで、ビアンカの義理の姉(父の愛妾の娘)がカテリーナ・スフォルツァです。
“ 泣く子も黙る ” 彼女のエピソードはまたの機会に…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世妃 マリア

2009-11-24 00:09:01 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
貧しき皇子に嫁いだブルゴーニュ公女
マクシミリアン1世妃 マリア・フォン・ブルグント


1457~1482/在位せず

フリードリヒ3世は、なんとか息子マクシミリアンを大国に縁付かせて
ハプスブルク家を大きくしてもらおうと考えていました。
そこでブルゴーニュ公家のひとり娘で相続人、マリアに白羽の矢をたてます。
まあ、申し込むのは勝手だから…

ブルゴーニュ公でしかもヴァロア家と言えばたいへんな名家なわけです。
マリアにもたくさんの縁談が舞い込んでいました。
それなのに、なぜに貧乏なハプスブルク家の息子なんかと?
    
ブルゴーニュ公シャルル突進公は、とても神聖ローマ皇帝になりたかったのです。
フリードリヒ3世に再三ローマ王を譲れと言っていたシャルル公でしたが
なんだかうまいことはぐらかされているうちに戴冠までされてしまい…

そんなシャルル公にフリードリヒ3世から娘マリアに縁談の申し入れがありました。
もしかして… シャルル公は自分が皇帝になれるかもしれない、と思い
とりあえずお相手のマクシミリアンと会うことにしたそうです。

するとどうでしょう!! 弱気で陰気な父親からは想像もつかない
元気はつらつで男らしい少年(14歳)が現れたではありませんか。

概ね結婚に同意したシャルル公でしたが条件の交渉が難航して4年の月日が流れます。
そして1477年、ふたりの結婚を指示する遺言を遺して亡くなりました。
急がないとブルゴーニュを狙うフランスが攻めて来ます。

マクシミリアンは急遽ブリュッセルへ向かい、やっと結婚することができました。
マリアはふたつ年上の姉さん女房でした。

ふたりは出会った時から惹かれ合って、とにかく仲が良かったということですが
最初はお互いの言葉が分からなかったんですって。
愛に言葉なんかいらない…ということですかね。

マクシミリアンはフランス軍も撃退してブルゴーニュ公の地位を確立し
王子も生まれて幸せ一杯の日々を送っていたのですが…

結婚から5年後、マリアは妊娠中にもかかわらずマクシミリアンの鷹狩りについて行き
落馬したところへ馬が倒れてきて、という不幸に見舞われます。
家族や国民の祈りも虚しく、3週間後に息を引き取りました。
15000人が参列し、ノートルダム寺院に埋葬されました。

なぜ誰か止めてあげなかっんでしょうね? よりによって乗馬とは…
幸せ一杯の王妃は早く亡くなる傾向がある気がしますが、気のせいでしょうか?

マクシミリアンはマリアの死から8年後、ブルターニュ公女アンヌと婚約し
結婚したとも言われていますが、フランス王シャルル8世に奪取されてしまいました。
シャルル8世は、マクシミリアンとマリアの娘マルグレートと婚約していたのに…
中世の結婚はなかなか波乱が多いものですね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』
          『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家史話 東洋書林


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神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世妃 エレオノーレ

2009-11-23 21:54:24 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
理想と現実のギャップに唖然・・・
フリードリヒ3世妃 エレオノーレ・ヘレーナ・フォン・ポルトゥガル


1434~1467/在位 1452~1467

今年が日本オーストリア交流年だってことを今頃知ったわたし てなわけで
ハプスブルク帝国にいってみようと思います。
ハプスブルク家もかなり枝葉が分かれていますので、神聖ローマ皇帝からね。

ざっくりいうと、中世のドイツおよびその周辺では各領邦君主が領土を治めていましたが
神聖ローマ帝国というのを形成していました。

皇帝は選帝侯といわれる実力者たちが選挙というか会議で選んでいました。
あまりにも野心満々の人が皇帝になると牛耳られてしまう…という危惧がお互いにあって
たまにどうでもいい感じの人が選ばれることがありました。

そこで選ばれたのがハプスブルク家のオーストリア公フリードリヒ3世です。
なんたって領土は小さいしお金もないし、あまり能力もなさそうだし、
皇帝がフリードリヒならば好き勝手ができるでしょ、ということで選ばれたのです。
まさか今後ずっとハプスブルク家が皇帝になるとは…

フリードリヒの前に同じような理由からルードルフ1世、アルブレヒト1世も
ローマ王として選出されていますが、神聖ローマ皇帝になっていないのでまたの機会に…

まずは前段階のローマ王となったフリードリヒ3世は、選帝侯たちが見込んだ通り弱気で非力、
戦うぐらいなら妥協するか逃げ出す、という人だったので
幽閉されたり、追放されたり、逃亡したりの繰り返しでした。

ただ、彼がたったひとつ持っていた才能、それは長生き!
フリードリヒから王座を奪おうとしていた人たちはことごとく先に死んでしまったのね。
じっと耐えたかいがあったというものです。

1452年、37歳のフリードリヒは、ポルトガル王ドゥアルテ1世王女エレオノーレと
結婚するためにイタリアへ向かいました。
でもこれは表向きの理由で、本当はローマで戴冠してさっさと皇帝になってしまおう、と
思ったからなのではないかしら?

       

さてエレオノーレはものすごいお金持ちのポルトガル王女ですから
結婚の申し込みはたくさんあったのに、フリードリヒからの求婚に応じました。
ハプスブルク家のことはあまり知らないが神聖ローマ皇后なんてすごいじゃない!
というのがOKの理由だったみたい。
だって15歳ですもの。 夢見る年ごろですよね。

              
           こちら、シエナで初めてご対面した時のおふたりです

豪奢で裕福なリスボン王宮からウィーンにやってきたエレオノーレは愕然とします。
だって食事にワインも出ないし、すごく質素…というか貧乏なんですもの。
しかも皇帝は野良仕事までしますよ。 自家菜園ってやつですか?

エレオノーレはとても美しく、快活な少女だったらしいのですが
しばらくすると体調を崩し、33歳の時に5人目の子供を生んで亡くなりました。

あぁ、皇后になれるっていうから20も年上の陰気な男に嫁いできたのに…
しかも寒い! 温かいリスボンに帰りたいよぉ、と思ったことでしょうね。

神聖ローマ皇后という肩書きだけにつられてやってきたエレオノーレは
確かに愚かな少女ではありましたが、親や大臣がちゃんと調べてあげないと…
もしかして親も肩書きにやられたのでしょうか?

いずれにしても、エレオノーレが持って来た莫大な持参金は
ハプスブルク家の発展に、おおいに役に立ったようです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家の女たち 講談社


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私は昔の表紙の方が好きでしたけれどもね…講談社新書
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THE ハプスブルク展に行ってきました

2009-11-23 21:54:14 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
「行こうかな~?」と迷っていたTHE ハプスブルク展に行ってきました。
実は3年前に『マリア・テレジアとマリー・アントワネット展』を
横浜そごうに見に行ったことがあるんですよね。

でも今回は規模が大きいし肖像画が多そうだし…てなわけで、国立新美術館へ。

確かに絵画は多かったんですけど、今回はハプスブルク家が富にものを言わせた
スペイン、オランダ、イタリアなどの絵画がふんだんに揃えられていました。
7割がた宗教画や伝説をモチーフにした絵でございまして…

ティツィアーノ、ベラスケス、ゴヤ、ファン・アイク、ルーベンスなど
各国のそうそうたる画家の作品が見れたのですが
わたくしとしては肖像画で歴史を辿る…的に
枝葉・裾野のひろーいハプスブルク家の方々のお顔が拝みたかったですね。
特に王妃とか公女なんか。

ハプスブルク家の方の肖像画は10点足らずで
その中でもマリア・テレジアとマルガリータ、シシィの前は黒山の人だかり!!
女性陣3人しか出ていないんですもの。
何回か舞い戻ってみたものの、全身は一瞬しか見れませんでしたよ
肖像画だけなら横浜そごうの方が多かったんじゃないかしら?

次回は規模は小さくてもいいから、ぜひ肖像画メインでやっていただきたい!と…
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