都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2006年01月 記事一覧

2006-01-31 | 記事一覧 

01/09 初詣(静岡市・伊勢神明社)
01/10 ねじれた階段(落合の三角階段)
01/11 目白文化村の窪地(微少地形の楽しみ)
01/14 乱暴な風景(落合・道路計画と住宅地の風景)
01/15 落合の歩道橋(幹線道路建設で生じた階段)
01/17 落合の妙正寺川(都市河川の風景)
01/18 神田小川町 タムラ帽子店(失われゆく近代建築)
01/19 日本橋(都市河川の風景)
01/21 早稲田大学大隈講堂 その1
01/22 雪の降る町をー 1(中野区新井薬師駅周辺)
01/22 雪の降る町をー 2(中野区新井薬師銀座)
01/23 雪の降る町をー 3(中野新仲見世商店街)
01/23 雪の降る町をー 4(中野区松が丘の階段)
01/24 早稲田大学大隈講堂 その2
01/25 早稲田大学大隈講堂 その3
01/26 西銀座ビル(失われゆく近代建築)
01/27 野村證券と東京三菱UFJ銀行(日本橋周辺の街並み景観)
01/28 アイストップが気になる(銀座・中央通りの景観)
01/29 日暮里富士見坂(ダイヤモンド富士)
01/31 上に参りま~す。(日本橋高島屋のエレベーター)

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上に参りま~す。

2006-01-31 | 中央区  

 30年ほど前まではデパートのエレベーターには、エレベーターガールのお姉さんが乗っていた。エレベーターが自動化して、一般人にも操作できるようになったこと、また経費削減もあって、エレベーターガールのいる所はかなり少なくなった。大きなデパートで沢山の客を効率よく運ぶために乗員を残すとか、展望塔などで案内、解説のために乗員を付ける所ぐらいだろうか。私がエレベーターガールに「興味を持つ」頃には、既にそういう存在自体が、絶滅危惧職業?になりつつあったのでした。

日本橋高島屋エレベーター・1F
Photo 2006.1.27

 日本橋高島屋には名物エレベーターがある。私も小さい頃、両親に連れられて上京し、高島屋のエレベーターに乗ったことを、はっきりと記憶している。もうほとんど文化財のような半手動式のクラシックエレベーター。金色の金具が複雑に組み合わさった、シャッター状の扉が美しい。開閉時にジャラジャラ鳴る金属音もなんだか高級感があって、静岡のデパートにもこんなエレベーターがあったら良いのになぁと、憧れたもの。エレベーターのドアなんて単なる機械なんだが、その開閉の仕組みを芸術的に見せて、客を魅了するあたり、さすが昭和初期の消費と娯楽の殿堂。

 「建築探偵術入門」(文春文庫ビジュアル版、東京建築探偵団、1986)を見ると、高島屋は昭和8年(1933)建設で、当初はアメリカ式のオフィスビルとして建てられたという意外な経緯を持つらしい。修繕はされているのだろうが、エレベーターも70年以上経っているはず。エレベーター周辺のデザインはアールデコ系かな。

 エレベーターの中から、ドアの開閉の様子を動画で撮りたかったのだけど、混雑して撮りにくいのと、買い物もしないで、そこまでやる度胸というか、図々しさ?はまだ持ち合わせていないので、これは今後の課題。

日本橋高島屋 吹き抜けと正面奥のエレベーター
Photo 2005.6.12

 正面入口から入ると、吹き抜けの向こう正面に6台が並ぶさまも、堂々としている。

 建物のデザインの端々にはなぜか日本的要素が入っていて、例えば吹き抜け天井を支える柱の頂部には、石造の肘木(ひじき)と斗があり、寺院建築の組物のようになっている。

日本橋高島屋 屋上
Photo 2005.6.12

 屋上階のエレベーターホールを見ても、寺院の折り上げ天井のようになっているし、長押に相当する部分には釘隠のような金物が付いている。石を貼っている所なので、本来は釘隠は必要ないのだが。

 さてさて、世の中には「エレベーター萌え」なお方もおいでなようで、その名も「エレベーター通信-エレッツ-」なるHPがある。最新型のエレベーターの技術云々より、Old Styleなエレベーターを愛でる系のサイト。おお、日本にもこんなエレベーターがまだあるのね。(残念ながら無断リンクはダメらしいので、検索して御覧下さいまし)

 ところでエレベータ? エレベーター? 英語綴りはElevatorですが。エスカレーター、コンピューターも同様ですね。日本語の場合、市民権を得ると長音が無くなるという話を聞きましたが。皆さんはどちら? 日本エレベータ協会三菱エレベーター東芝エレベータオーチスエレベーター・・・。業界内でも統一はされてないみたいです。

 大学生相手に教えていると、エスカレーターとエレベーターの違いが判らん学生が意外に多い。どっちが自動階段を指す言葉なのか判ってないのだ。おいおい、頼むよ。乗ったことがないわけじゃないのでしょう?。エスカレートするっていう言葉もあるでしょ。エレベートしちゃったら変なんだから・・・。

 余談ついでにもう一つ。予備校時代に信州の田舎出身の友人がいた。彼の実家の方には、高層建物がほとんど無かったため、東京に出てきて、エレベーターに頻繁に乗るようになっても、なかなか慣れないという。発進、停止時の加減速が気持ち悪いとのたまう。未開社会の種族の人が東京に来て、エスカレーターに巧く乗れないのとちょっと似てる。都市生活にはいろんな意味で、本来はいらんスキルが必要なのかも知れない。そして見えないストレスも多いのかも。

#古い建物 中央区  #商業系  #EV・ES  #重要文化財 
#近代建築  #デパート・百貨店  #高橋貞太郎  #昭和戦前期 
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日暮里富士見坂

2006-01-29 | 荒川区  
日暮里富士見坂からダイヤモンド富士を望む
Photo 2006.1.28 17:02

 久しぶりに日暮里富士見坂へ行ってみた。東京には江戸期から富士見坂と称する坂がいくつかある。しかし富士見坂という名が付けられた坂で、しかも山手線の内側で古くからあるもので、現在も富士山が見えるのは、この日暮里富士見坂と、大塚の不忍通りの富士見坂の二箇所しかないという。不忍通りの富士見坂の方は建物でかなり見えなくなっていて、比較的よく見えているのはこの日暮里富士見坂のみ。

 富士山が見える、というと、都庁や文京区役所に行けば見えるじゃんと言われるかも知れない。そう、高い所に行けばもちろん見える。ビルの上から見るというのは、ある意味眺望の独占である。そこからよく見えるということは、その後ろの陰になった場所からは全く見えないことを意味する。ビルに居る特定少数の人が、地上の不特定多数の人の眺望を奪っている。都庁の展望室は誰でも行けるが、早朝や夜間には開いていなくて、いつでも見られるわけではない。だから地形の上から見えるということ、誰でもいつでも見ることができるということは、非常に価値あることなのだ。

 さて日暮里富士見坂からは、毎年11月中旬と1月下旬に、太陽が富士山の頂上付近に沈む現象が見られる。日没の瞬間、富士をシルエットに太陽が光り輝く様子から「ダイヤモンド富士」と呼ばれている。新聞等でも何度もとりあげられているので、ご存じの方も多いかと思う。

 太陽の沈む位置は、毎日少しずつ変わる。今回のダイヤモンド富士は1月28日~31日、夕方16時50分頃である。だが昨日、実は私は日没に間に合わなかった! 日没後数分経過しているが、まだ空は茜色で富士山のそばの雲に光が反射して輝いている。

富士への日没を見る人々
Photo 2006.1.28 17:03

 近年は、日没時刻の少し前から人が集まりだし、日没時には数十人が集団で富士を見るという、ちょっと面白い光景を見ることができる。昔はあちこちの富士見坂や坂から日常的に富士山が見えたらしい。もちろん印象的な風景だから、昨日も記したように浮世絵などの絵画にも描かれているのだが、富士見は現在ほどは特殊な状態ではなかったはずだ。都心でほとんど唯一の富士見の場所であるという特殊な状況が、非日常的な場所性を強めている。

 ダイヤモンド富士などは、交通整理のお巡りさんなども現れ、一種のお祭りになっている。夕方30分限定のお祭り。主役は富士と太陽。見るものは示し合わせてあっという間に集まり、日没の十数分後にはもとの静かな坂に戻る。

日暮里富士見坂の夕暮れ
Photo 2006.1.28 17:06

 富士見坂からの風景は、上野台地から西南方向へ眺めるもの。不忍通りの谷の反対側には、本郷通りを尾根道とする本郷台地が見える。昔はほとんどの建物が平屋か二階建てだったので、地形に沿って甍の波が見えていたはずだ。

 数年前に本郷通り沿いでマンションが建設されて、富士山の左側が隠れることになった際は建設反対運動も起こった。昔は富士の両裾が見えていたが、今は右側だけ。なかなか強制力を持って富士への眺望を規制できないので、現在は富士を隠すような建設行為のみに運動が展開されている。

 確かに富士山のお姿が気になるので、ついそっちの方だけを注視してしまうのだが、冷静に坂の様子と富士山へのヴィスタ景全体を眺めてみると、周辺の状況も気になってくる。例えば、富士の右側、画面中央に大きく見える不忍通りのマンション。また、遠方左側の東洋大学の校舎も富士より高くなっていて気になる。

 残したいのは、谷になった斜面全体の景色とその向こうにある富士山なのだと思う。富士山さえ見えれば良いというわけではないのだ。額縁に囲われた富士山にはしたくない。富士山が見えなくならないようにという活動はもちろん大切だが、富士へのライン以外の場所は何をしてもOK、という状況は望ましくない。とは言っても、現在の状況ではすぐにはコントロールはできないかもしれない。日暮里富士見坂からの富士山の眺望が、文化景観として多くの人々に愛され、かけがえのない風景遺産になることが重要で、そうなれば、バロックの都市計画で創られたヴィスタ景を守ろうとするパリのような、強制力を持った取り組みをすることができるようになるのだろう。

 日暮里富士見坂からの眺望について

富士見坂眺望研究会
日暮里富士見坂を守る会
日暮里富士見坂からの眺望
東京の斜面地空間−都心部山の手の地形−

#階段・坂 荒川区  #ヴィスタ  #眺望  #山
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アイストップが気になる

2006-01-28 | 中央区  

 昨日は野村證券と旧東海銀行が日本橋三越あたりの中央通りからアイストップになっていると記した。ちょっと気になってきたので、中央通りを南下しながら同様に見てみることにする。

日本橋高島屋付近から汐留の電通本社ビルを望む
Photo 2006.1.27

 中央通りの横断歩道を渡りながら撮ってみた。真正面にエライ存在感で電通本社ビルが建っている。手前には銀座三越の裏手にある王子製紙本社ビルが見えており、以前はこれがアイストップだったのだが、電通ができて銀座を飛び越えて汐留の建物がアイストップになった。電通ビルは、見る方角によって細くなったり幅広になったりするのだが、中央通りから見るとべたっと幅広い状態で見える。

京橋付近から銀座方面と汐留シティセンター
Photo 2006.1.27

 もう少し南下して京橋付近になると、京橋で中央通りは少し向きを西に変える。すると今度は汐留シティセンターが街並みの背後に聳えるようになる。銀座の建物は、銀座ルールなる暗黙の紳士協定のようなもので、軒高が56m以下になっている。そのお陰で銀座の街並みは比較的揃っているのだが、汐留エリアの200m級の建物は、銀座の街並みの向こう側に、銀座ルールなど全くお構いなしに建っており、少し広い視点、遠い視線で見てみると、街並みがかなり乱されてしまっていることが判る。

 花の都パリでは、バロック期のオスマンの都市計画により、アイストップを多用した街並みが造られている。アイストップの対象となる建物は、凱旋門やオペラ座、有名な寺院、モニュメントなど、文化財的なランドマークばかり。一企業の建物がアイストップになっている例はほとんど無い。現代においてバロックの都市計画を再現しろというつもりはないが、アイストップを効果的に用いた都市景観は一つの財産であり、そういう都市景観計画がもっと考えられても良かろう。

 地方都市では山や城をアイストップにして都市景観計画を行っている例も増えてきている。東京でも、絵画館前、国会議事堂前、東京駅前の行幸通りなど、公共系で既存のヴィスタ景とアイストップ景観については、東京都の都市景観マスタープランをもとにしてコントロールするようになっている。しかし、これからアイストップ景観を巧く創るということは、まだあまり実例がない状況。

 汐留のビル群は、デザイン検討の際に、どの程度アイストップとしてのランドマーク性について考慮したのだろうか? 汐留シティセンターについては、アイストップになることを認識していたという文面を読んだことがある。一つの民間建物が、中央通り等のメジャーな通りでアイストップになり、それだけで視線を一手に集める時、広告塔として更に目立つようにデザインするか、街並みに合わせてできるだけ調和しようとデザインするか。景観法が成立して、景観の向上に努めねばならないことは決まっている。しかし現在は、まだ建築家、施主の良識に頼る面が大きい気がする。

 ところで、日本橋に最近オープンした三井記念美術館に行ってきた。三井が所有する茶器などの美術品が展示されているのだが、現在は開館記念特別展として、日本橋を描いた江戸期の北斎、広重、清長らの浮世絵版画などが一堂に会して展示されている。その中に、駿河町の越後屋の通りを描いたものがある。そして通りの正面、つまりアイストップの位置には富士山が描かれている。

 江戸期の城下町計画に際しては、山あてといって、通りの延長線上に山が見えるように街が計画されたといわれる。日本でも江戸期には既に、バロック的な景観を考慮した街区計画がなされていたわけだ。上記の駿河町は富士山を望むように道が造られた街なので、お天気なら正面に富士山が見える。ちょうど現在の三井本館の脇の道、中央通りと直行する道。江戸で一番繁盛していたこの道から、現在は富士は見えない。

 現状では、放っておくとあちこちの通りの末端正面に民間建物が建ち、まるで栓をするように次々に視線を塞いでしまう可能性がある。アイストップのコントロールによって、良好なヴィスタ景観を創造しうる道を、まずリストアップし、個別に対策を講ずる必要があるのだろう。

 ところで、さきの三井記念美術館に隣接する日本橋三井タワーだが、これも周辺を圧倒する高さを持つ、巨大ランドマークとなっている。日本橋、八重洲、神田周辺の通りを歩いていると、突然巨大なお姿が見えて唖然とさせられることが多い。日本橋の高速道路景観を憂い、昔のすばらしい景色として駿河町から見えた富士の浮世絵を掲げていることと、なんだかひどく矛盾している気がするのだが・・・。経済効率からするとこれまた仕方のないことなのだろうか。

#ヴィスタ  #街並み 中央区  #旧東海道 
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野村證券と三菱東京UFJ銀行

2006-01-27 | 中央区  


 Photo 2005.6.12



所在地
建設年
構造・階数 
設計
野村證券
(旧日本橋野村ビル) 
中央区日本橋1-9
1930(昭和5)
SRC・7F
安井武雄
日本橋御幸ビル(右)
(三菱東京UFJ銀行/旧東海銀行)
中央区日本橋1-7
1975(昭和50)
SRC+S・11F
日建設計

 日本橋の南詰にある二つの対照的な建物。昭和初期に建てられた近代建築と、70年代のモダニズム建築。

 野村證券は増築部分と合わせると船のように細長く、7Fだけが白く艦橋のようで、頂部の塔も船の煙突のように見える。折衷主義の名作と言われる堂々とした建物。手元の「建築探偵術入門」(東京建築探偵団、文春文庫ビジュアル版、1986)を見ると、昔は建物の左手前に交番があり、目立っていたのが、右側に移設され比較的目立たないデザインになったことが判る。

 三菱東京UFJ銀行(旧東海銀行)の方は、野村證券と対峙するかのように鋭利な姿を見せる。西側、南側には玄関以外に全く開口部が無く、まるで彫刻かモニュメントのよう。レンガ風の赤いタイルが鮮やかで野村證券と共に日本橋の新たなランドマークとなっている。

 調和という観点からすると、確かにかなりギャップのある風景。大きさもデザインもかなり異なる。しかしタイルが同じ赤系統なのでひどい対立にはなっていない。

Photo 2006.1.27

 中央通りは日本橋を境に少し向きを変える。日本橋三越の方から見ると、野村證券の建物はアイストップの位置にある。恐らくこの建物は、そのように見えることを想定して設計されているのだろう。しかし旧東海銀行の建物はその景色の背後に壁のように建ってしまった。ヴォリューム上の要請とはいえ、ちょっとこれはもったいない景色だった。そして更に旧日本橋東急の跡地に建った日本橋コレドによって、この景色は大変貌することになった。日本橋コレドは、東海銀行の建物よりも遙かに巨大であり、今では野村證券の建物は、可愛らしく思えるほど小さく見える。しかも日本橋コレドは、このアイストップの景色に完全に背を向けてしまっており、正面に比べて無粋な背面が大きく見えているのだ。地価も高く、有効活用が期待される日本橋周辺ではあるが、商業的価値の向上だけでなく、景観的価値をも大切に保持する取り組みが、もう少しあればと思わずにいられない。

 >日本橋からの景色を後から追加しました。

 それにしても「三菱東京UFJ銀行」って長い名前だなー。合併に次ぐ合併で、どんどん名前が変わるので、昔の銀行の名前が全然思い出せなかった・・・。

#古い建物 中央区  #街並み 中央区  #ヴィスタ
#安井武雄  #モダニズム  #近代建築  #オフィス  #銀行・保険 
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西銀座ビル

2006-01-26 | 中央区  
西銀座ビル
所在地:中央区銀座5-5
建設年:1936(昭和11)
構造・階数:RC・4
Photo 2005.6.12

 銀座界隈を歩いていたら、西銀座ビルに「建築計画のお知らせ」が掲げられているのを発見。着工予定はH18年1月10日(もう過ぎてるけど)。8階建ての建物が計画されている。既に多くのテナントが退去したようで、部屋の明かりはほとんど点いていなかった。写真を撮った昨年6月時点で、既にテナントは殆ど無く、建て替え計画はかなり進行していたようである。

 銀座は近年は次々に有名ブランドの店舗が建てられているが、裏の方の通りを歩くと昭和初期の建物がいくつか見られる。銀座5丁目~6丁目近辺に数軒残る建物のうち、この西銀座ビルは比較的小規模なビル。1階部分はかなり改変されていたが、上階はスクラッチタイルとモルタル仕上げが帯状になり、角地に建つ姿が印象的だっただけになんとも残念。

 このところ、以前歩いた所を確認しながら歩くたびに、解体物件や解体予定物件に出会ってしまう。古い建物を味わうヨロコビではなく、次の角を曲がったらまだあの建物に再会できるだろうか?、建物は残っているだろうか?、というハラハラ感の方が強くなる。で、何度もガッカリし、他の建物も早く確認しなくてはと、焦る気持ちで一杯になり、足早に次の気になる建物へと急ぐ結果になってしまう。

 記念建物系の立派な近代建築は文化財として残る確率が高いが、街中のオフィスビルや住宅は、人知れず解体され、知らぬ間にピカピカの建物になってしまう。焦りつつあちこちの街をフラフラする日々は続く。

Tokyo Lost Architecture Index

#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス  #昭和戦前期 
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早稲田大学大隈講堂 その3

2006-01-25 | 新宿区  

 2Fホワイエの青いガラスの大きな丸窓。これは前に載せた玄関アーチの奥の上部に位置する花模様の窓なのだが、内側から見ても印象的。

 さて、いよいよ時計塔へ。

 時計塔内部には階段室があるが、下層階の階段は比較的ゆったりしていて、ステンドグラスのガラス窓から差し込む光が美しい。

 4階には紀念室という名の小さな部屋がある。時計室の一つ下の階で、三方に小さなバルコニーのある部屋だが、現在はあまり使い道がないようで、がらんとして何もない。数年前に大学を訪れたクリントン元大統領を歓迎する看板が、何故か保管されていた。


写真をクリックすると大きく表示されます。

 時計は、昔は大型の機械を使って動かされていたようだが、現在はクォーツ式で、ムーブメントもかなり小型になっている。人の背丈ほどもある大きな文字盤なのだが、動かしている機械は拍子抜けするほど小さい。文字盤はすりガラスで、12個の電球が文字盤を裏側から照らすようになっている。

 各文字盤の下には、機器類の調整時に使う踏み台が置かれている。塔の四面全てに文字盤があるので、東側の面の文字盤は階段室上部の壁面に取り付けられており、踏み台は階段の上を跨ぐようになっている。時計を動かす機械が当初とは異なるため、仮設的なものになっているのかもしれない。

 大きな機械が無くなったため、こちらも室内はがらがら。天井から裸電球が一つぶら下がっているだけなのがちょっと可笑しい。

 時計室の上には鐘のある屋上があるのだが、残念ながらここは立ち入り不可。海外の教会の鐘塔などは、有料で鐘のすぐそばまで上れたりする。日本には西洋式の鐘塔は少ないので、大隈講堂がそういう営業をしてくれると面白いのだが。それはともかく、普段は入れない時計の裏側に上れるのには大満足。

 さてこの大隈講堂は今後、大規模な改修が予定されている。といっても外観や内装の変更ではないのでご安心を。近年の調査の結果、耐震性に問題があったため、建物を免震化する工事が行われるのだそうだ。現在の建物を一時的に浮かせて、下に免震装置を仕込む工事をするらしい。また同時に、空調、電気設備、音響面も改修されるとも言われる。大隈講堂でイベントなどをしたいという需要は多いのだが、今までは設備面で実現しないケースもあったようだ。現在の要求に応じて、使いながら残していくためには、うまく改修していく知恵と努力がやはり必要だ。

2007.4.23追記:大隈講堂の改修工事に際して、免震工事をするらしいと記しましたが、これは誤りでした。正しくは耐震壁の付加による耐震化だそうです。

早稲田大学大隈講堂 その1
早稲田大学大隈講堂 その2
早稲田大学大隈講堂 その4

#古い建物 新宿区  #早稲田大学  #大学  #映画館・ホール 
#佐藤功一  #佐藤武夫  #近代建築  #昭和戦前期 #重要文化財 
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早稲田大学大隈講堂 その2

2006-01-24 | 新宿区  

 週末に雪が降ったので中断していたが、再び戻って大隈講堂のつづき

 講堂内部には大講堂(1F・2F)と小講堂(B1F)があるが、これらは講演会などに参加すれば入ることが可能である。ただ、大学のシンボルでもある時計塔などには、簡単に上れるわけではない。今回は特別に大学に申請手続きをして、時計塔内部や回廊、貴賓室も併せて見学させて頂いた。

 大隈講堂の時計室などは、早稲田大学のキャンパスツアーに参加すると見学ができるので、興味がおありの方は是非お試しを。

 写真は、講堂北側(玄関から入って左側)で大隈庭園に面したバルコニー。建物の1Fなのだが庭園より少し高くなっていて、開放的に庭園を見渡すことができる。正円アーチが連続するあたり、ちょっと中世の修道院のような趣き。また、右手の壁のくぼみには大隈重信候の立像が置かれている。

 バルコニーの突き当たりにある貴賓室。同じような内装・広さで、手前、奥と二部屋が並ぶ。ここから舞台袖につながっており、講演者の控え室として使える部屋。派手な造りではないが、えんじ色の絨毯が敷かれている。

 大講堂。3F最後部から。全体に卵形をした内部空間で、舞台に掛かるプロセニアムアーチも楕円形の弧を描く。2階席左右の放物線状の切り込み部分はスポットライト投光器を操作するスペースになっており、舞台裏からアクセスできるようになっている。

 放物線を多用した流れるような内部空間デザインゆえに、表現派的だと言われるそうだ。時計塔の頂部はゴシックスタイルだし、玄関のアーチはチューダーアーチなのだが、内部はまた別のスタイルになっている。

 大講堂の天井。中央部に楕円形の天窓があり、間接的に外光が差し込むような設計になっている。卵形をしたホールなので、天窓を取り囲むように埋められた沢山のスポットライトが、夜空にきらめく星のようである。

 2階への階段脇にある丸窓。教会のステンドグラスなどと異なり、絵柄がデザインされているわけではなく、シンプルに黄色一色なのだが、日光が差し込むと辺り一面が黄色の世界になり、非常に印象的になる。

早稲田大学大隈講堂 その1
早稲田大学大隈講堂 その3
早稲田大学大隈講堂 その4

#古い建物 新宿区  #早稲田大学  #大学  #映画館・ホール 
#佐藤功一  #佐藤武夫  #近代建築  #昭和戦前期 #重要文化財 
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雪の降る町をー 4

2006-01-23 | 中野区  

 夕食を食べてから本屋などをうろついて、夜遅く帰宅。ふと思いついて自宅近くの階段へ。

中野区松が丘1-29・30 雪の夜の階段 22時頃

 夜10時に住宅街の階段のそばで、三脚使って写真撮ってるのって、ほとんど不審人物ですが・・・。

 歩いている人は誰もいないんだけど、人が歩いた痕跡はしっかり残っているというのが良いです。

 今度は同じ階段を上の方から。階段の上からは哲学堂公園や公団住宅が見えます。ちょっと露出不足で色が妙なことになっちゃいました。雪の夜景は撮りなれていないので難しい。団地やアパートにちらほら明かりが点いていて、でも街には人影が全然ないっていうのが、雪の夜の都会らしいです。

#雪  #街並み 中野区  #階段・坂 中野区
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雪の降る町をー 3

2006-01-23 | 中野区  

 1月21日のつづき。

 夕方から出掛けたのですぐに暗くなってしまった。

中野区中野 武蔵野蕎麦処わきの小広場 17時頃

 新井薬師方面から南下して薬師銀座を抜け、早稲田通りを渡ると中野。最近はオタクの城としても有名になった中野ブロードウェイや駅前のサンモール商店街があるゾーンに入る。そのブロードウェイやサンモールの東側には、横丁や路地があって、ちょっと面白い空間になっている。お店が密集した一角の中に、突然現れる小広場。ケヤキが一本だけあり、冬にはイルミネーションが点く。広場があるような横丁や路地は少ないので、ここはしばしば写真集などにも出てくる。この日も私が写真を撮っている数分の間に、3人の人が携帯やデジカメでこの場所とケヤキの写真を撮っていた。

 ところで、写真を撮った時は気が付かなかったのだが、家で画像を改めて見て、電線がやたらにあることに気づいた。ケヤキの枝の間を縦横に横切る電線。やっぱり路地裏とか横丁なのだなと改めて認識。

中野区中野 中野新仲見世商店街 17時頃

 この小広場のあるあたりは新仲見世商店街というらしい。不規則な形で分かれるこの道も奥でつながっている。左奥に見えるオレンジ色の建物は昔は映画館だったそうだが、今では小さな飲み屋が集まる、あまりパッとしない雑居ビル。周辺には2階建ての小さな木造の飲食店が集中する。

中野区中野 喫茶店マロ 17時頃

 同じ一角に存在する、よく行く小さな喫茶店。先代の時代(30年ほど前)は楽器店だったそうだが、今はこの地域の人が多く出入りする喫茶店である。表通りから一つ裏に入った所にあるので、比較的静かでホッとできる、安くて良心的なお店。最近のcafeチェーンはBGMでボサノバばかりかけている所が多いが、このお店は60~90年代のROCKが中心なのも個人的には好きです。

#雪  #広場  #街並み 中野区
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