都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2022年2月 記事一覧

2022-02-28 | 記事一覧 

02/03 山崎邸倉庫
02/06 高山邸と2軒続きの銅板張り看板建築
02/09 博幸印刷/川田邸
02/12 旧相互無尽会社
02/15 大和呉服橋ビル(大和証券ビル/パソナグループ本部)
02/18 九段下ビル(旧今川小路共同建築) その1
02/21 九段下ビル(旧今川小路共同建築) その2
02/24 文化学院
02/27 野田(株)・石川元三郎商店

タグ一覧   Tokyo Lost Architecture

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野田(株)・石川元三郎商店

2022-02-27 | 中央区  
野田(株)・石川元三郎商店
所在地:中央区 東日本橋3-2-2
構造・階数:RC・3
建設年:1928(昭和3)
解体年:2011(平成23)頃
Photo 2005.3.27

 訪れた時には休日で閉まっていたので、どのような会社なのか詳細を知らないままだった。今回、野田(株)で検索したところ、織物卸売業者とあり、現在もこの近くに会社があるようだ。Google Street Viewで、2008年、2010年の様子を見たところでは、タオルや浴衣が店頭に並んでいる様子だった。
 古くからこの建物を使っていたのかどうかは知らないが、場所柄、やはり繊維・織物関連の会社が使っていた建物だったのだろう。一方の石川元三郎商店についてはネットでは情報が見つからなかった。

 装飾はあまりというかほとんどない。軒先のフリーズ部分に帯状の装飾があり、柱型が少し壁面から出ている程度。建設当初から装飾が少なかったのか、改築でなくなったのかは分からないが、かなりあっさりしたデザイン。軒先に古典的な装飾がわずかにあるのでモダニズムともいえない、微妙な近代建築なのだった。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中央区  #近代建築  #商業系  タグ一覧
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文化学院

2022-02-24 | 千代田区 
文化学院
所在地:千代田区 神田駿河台2-5
構造・階数:RC・4
建設年:1937(昭和12)
解体年:2006(平成18)
Photo 1988.11.1

 御茶の水近辺を知る人の多くが記憶している建物。文化学院といえば、やはりこの玄関アーチがシンボルだった。

 文化学院については、解体中の2006年8月11日にも採り上げているので、その際の文を再編、加筆して以下に掲載する。

 表現派的な玄関アーチはデザイン上の大きな特色だが、実はその他には装飾的なものはあまりない。表通り側では3階にバルコニーがあるのがちょっと目立つ程度で、これとて夏場になれば街路樹の緑に隠れて気づく人も少ない。確かにクラシックなカレッジの雰囲気を持つ建物なのだが、建築デザインとしては、一部に放物線も使ったアーチ玄関が目立つこと以外にはさしたる特徴が無いように見える。


 Photo 1988.11.1

 壁面には一面に蔦が絡まっている。この年期の入り具合が存在感に繋がっていた。


 Photo 2005.3.25

 薄暗いアーチの途中に建物(学校の事務所など)への入口があるのも印象的。


 Photo 2002.2.24

 アーチを抜けていくと、右側にも上階への階段がある。そして奥には中庭が見えている。


 Photo 1995.7.22

 通り沿いの校舎の下を潜り抜けると四角い中庭に出る。周囲の校舎から声をかければ話ができるぐらいの手頃なサイズの中庭は、学生の溜まり場であり、小さいながらもキャンパスというものを感じさせる重要な空間だったに違いない。周辺の建物が次第に大きくなっていく中で、ボリュームとしては埋もれがちだったが、それにも関わらず一定の存在感を保ち続けてきた。個性的な卒業生を多く輩出したという伝統から来る存在感も勿論あるのだが、そういう個性を育んだ建物、空間だったのだろう。

 通り沿いの校舎は、北側には大きなガラス窓のある開口部が設けられていた。ここはデッサン室とかだったのだろうか。クラシックな印象のある建物だったが、このあたりは近代的でモダンなデザインだった。

文化学院 - Wikipedia
美術と文芸の専門学校|文化学院(2018年閉校)
与謝野晶子が教えた文化学院が閉校 有島武郎らも教壇に:朝日新聞デジタル

文化学院/神田駿河台2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
文化学院 取り壊し決定 - Anthology -記憶の記録-
続続・文化学院の由緒ある建物が消えてしまう : 本の人生 本との人生 末端古本屋雑記帳

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #学校  #屋内階段  タグ一覧
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九段下ビル(旧今川小路共同建築) その2

2022-02-21 | 千代田区 
九段下ビル(旧今川小路共同建築)
所在地:千代田区 神田神保町3-4
構造・階数:RC・3
建設年:1927(昭和2)
解体年:2012(平成24)
Photo 2006.1.27(記事中記載のないものは全て同日)

 内部にも入ったことがあるのでそれらの写真も記録として(居室には入っていない)。上写真は入口から2階への階段。

 記事中の写真が建物内のどの部分のものだったかは、昔のことでもあり記憶が定かでない。ただ、前の記事でも記したが、1階が店舗で2階は店主の部屋、3階は一般の賃貸住宅だったという。また下記、土木学会の資料内にある平面図から考えると、東西に貫通した廊下は3階だけだったようだ。従って、廊下の写真は3階だったのだろう。


 3階の廊下

 1階の店舗は最期の頃まで営業していたので、そちらは外観も店内もきれいにされていた。また使われていた部屋の中は改装されたりして、掃除もされてそれなりにきれいだったのかもしれないが、階段や廊下、屋上といった共用スペースはあまりメンテナンスされておらず、2000年代に訪れた頃にはかなり傷んだ状態で、まるで廃墟のようだった。

 廊下の天井は、モルタルが一部剥落して天井裏が見えていた。

 共用トイレの扉が開きっぱなしで、階段室からトイレが見えている。壁の塗装は剥げ、鉄製手摺は錆びていた。

 一部の階段は荷物かゴミで埋まり、屋上へ上れない状態。

 この階段室には洗面があった。

 老朽化してくすんではいたが、この洗面は多少利用されていたらしく比較的きれいだった。

 一方、トイレはかなりマズイ状態。このような建物で働いたり住むのはやはりためらわれてしまう。

 屋上はいろいろなものが溜まって散乱した状況。

 屋上への出入口だったのか、屋上の倉庫だったのかも分からない状態。

 東日本大震災の後、耐震性が保証できないとして解体が決まり、九段下ビルは2012年に解体された。その後、しばらくは駐車場になった後、ここには専修大学の新校舎が2020年に竣工している。


 跡地に完成した専修大学神田キャンパス新校舎(10号館)
 Photo 2020.6.23


 九段下ビルは震災復興建築としての歴史的価値はあったが、定期的な手入れがされていなかったらしく、かなり傷んでいた。鉄筋がむき出しになって錆びるところまでにはなっていなかったようだが、あちこちの天井や壁が剥がれ、トイレや洗面も傷んでいる状況ではかなり修繕をしない限り再生は難しい。電気関係も貧弱だろうし上下水道の管などもボロボロだっただろう。それら全てを取り換えて耐震補強もするとなると、建て替えとあまり変わらない費用が掛かってしまうかもしれない。かなりの補助をしない限り、所有者だけで改修するのは無理なように感じられた。

 自治体が買い取ったり、所有者が寄贈すれば存続もできたかもしれないが、装飾がきれいな洋館とかではないどちらかというと地味な居住兼用店舗+オフィスで、結構傷んでいる状況では、やはりなかなか残せないのかもしれない。

 ところで、個人的には古い建物は好きだが廃墟はさほど好きではない。外観だけで十分。本当は廃墟などではなく手入れして使われている方がいい。以前の記事の原美術館や旧相互無尽会社本社などは内外が共にきれいだっただけに惜しかった。その意味で九段下ビルは微妙な建物だった気がする。

九段下ビル - Wikipedia
土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 - 04-11-0923.pdf
九段下ビル - 廃墟系
九段下ビル取り壊しへ〜ビルの内外 - 東京 DOWNTOWN STREET 1980's
九段下ビル内部潜入〜神田神保町 | 東京街歩き〜旅と車窓と徘徊の日々
東京の古いビル 九段下ビル - 御光堂世界~Pulinの日記 九段下ビル/神保町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture  
九段下ビル(旧 今川小路共同建築)
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #オフィス  #商業系 
#震災復興  #屋内階段  タグ一覧
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九段下ビル(旧今川小路共同建築) その1

2022-02-18 | 千代田区 
九段下ビル(旧今川小路共同建築)
所在地:千代田区 神田神保町3-4
構造・階数:RC・3
建設年:1927(昭和2)
解体年:2012(平成24)
Photo 2005.3.25

 関東大震災後の震災復興の際に、復興助成を受けて設計建設された共同建築。1階が店舗で2階は店主の住宅、3階は一般の賃貸住宅だったという。建設当時の詳細については研究論文があるので下記を御覧頂くとして、ここではその後期(末期?)の様子を少し記していく。

 靖国通り沿いに長く伸びる姿を見せていた。震災後の復興期、小規模な店舗をそのまま建て直すのでは、また木造になりがちで耐火建築とするのは大変。なので共同建築にして、かつ賃貸部分を設けることで、コストを下げ不燃化を進めようと考えたということだろうか。その結果、一つの街区の東西いっぱいに長く連なるファサードを持つ建物が造られた。街並み形成についてどれだけ考えていたか分からないが、その街並みは興味深いものだった。


 西側から Photo 1992.7.31

 1階の店舗の間口は木造家屋と似たスケール感だったが、共同建物なので隙間なく店舗が並んでいる。大型の一つの店とは異なり、店ごとに様子がさまざまなので歩いていて飽きない。


 西側・俎橋から Photo 2002.7.27

 俎橋側の端部は鈍角で、通り沿いと同様の立面が回り込んで連続している。2000年頃以降は、外壁の一部にタイルの剥落防止用のネットが掛けられていた。


 北東側から Photo 2006.7.9

 一方、東側のコーナーは西側とは異なり素っ気なく切れている。改修の結果なのかもしれないが、もしかすると当初はもっと東側の街区でも同様のものを建てようとしていたからかもしれないなどと思った。小路は敢えて無視して、靖国通り沿いに専大通りの方にまで統一感のある長い街並みを創り出そうとしていたのではないかと考えるとおもしろい。


 北側・ビル裏側から Photo 2005.3.25

 増築のせいもあるが、靖国通り沿いの表側に比べると装飾もなく殺風景な印象。表通り側の表情をやはり重要視していたのだろうと想像される。


 中央部 2、3階 Photo 1995.7.22

 中根速記学校は昭和30年代から長期間入居していたという。消えかかった「中根式速記」の文字が記憶に残る。「写植 版下 デザイン トレス」の看板も昔風の雰囲気。
 下の方で引用した当初の外観写真には、「女子タイピスト学院」や「関東特許事務所」の看板が掲げられているのが見える。神保町あたりは当時から出版などのビジネス街だったことが分かる。


 中央部 3階 Photo 2005.3.25

 最上部、パラペット上端部はU字が連続する波型。壁面の穴は換気口だろうか。屋上以外の階にも同様のものがあるので雨樋ではなさそう。窓と窓の間の壁はスクラッチタイル張り。その他の壁面はモルタル塗りコンクリートだったようだ。


 西側玄関 Photo 1995.7.22

 1階の店舗はそれぞれが改装を重ねているので、ようすもばらばら。玄関部分はやや傷みが激しかった。


 西側階段室 Photo 2002.7.27

 階段室部分は他の壁面より前に出ていて、また2階から屋上階まで壁面が連続しており、長大な壁面の中でアクセントになっていた。


 1階・東端の事務所 Photo 2005.3.25

 1階は店舗として使われている区画が多かったが、東端の一角は後期は個人の事務所のようにして使われていた。看板などが無く、外壁や窓がよく見える状態。オリジナルに近い状態だったのだろうか。


 店舗 玄関上部 Photo 2006.1.27

 タバコ店の入口上部のガラス。木製の枠にすりガラスが嵌められ、間には色ガラスの装飾もあった。この部分は相当古かったのではないだろうか。


  当初の外観写真 土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 04-11-0923.pdf

九段下ビル(旧今川小路共同建築) その2(内部)

九段下ビル - Wikipedia
土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 - 04-11-0923.pdf
九段下ビル - 廃墟系
九段下ビル取り壊しへ〜ビルの内外 - 東京 DOWNTOWN STREET 1980's
九段下ビル内部潜入〜神田神保町 | 東京街歩き〜旅と車窓と徘徊の日々
東京の古いビル 九段下ビル - 御光堂世界~Pulinの日記
九段下ビル/神保町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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九段下ビル(旧 今川小路共同建築)
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大和呉服橋ビル

2022-02-15 | 千代田区 
大和呉服橋ビル
所在地:千代田区 大手町2-6
構造・階数:SRC・9+B3
建設年:1956(昭和31)
解体年:2017(平成29)
備考 :1966、1970、2009に改築
Photo 2006.1.28

 竣工以来、大和証券の本社ビルとして長い間使われていたビル。Wikipedia等によると2007年に大和証券が転出し、その後2010年からはパソナグループの本部ビルになっていたそうだ。

 容積率制に移行する前の絶対高さ規制時代の建物なので、大和証券の看板が載る塔屋以外の部分の軒高は31m以下になっていたのではないかと思う。開口部が大きくシャープな印象のモダニズムのオフィスビル。ガラスなのかブラインドなどの色なのか分からないが、薄緑色の外観が印象的だった。
 南北2ヶ所に塔屋(EVの上屋)があったが、北側の塔屋上にはロケット状の塔が載せられていた。これがアンテナ的なもので実用のものだったのか、単なる装飾・シンボルタワーだったのかは知らず。パソナのビルになった後もこの塔は屋上に載っていた。


 大和証券の転出後、パソナになる前のようす Photo 2009.1.18

 日曜日だったこともあり灯りも点いておらず、このまま壊されてしまうのかと思ったが、その後、外観は大きく変化することとなった。
 後方の黒っぽい高層ビルはJXビル、左端の超高層ビルは朝日生命大手町ビル。


 パソナの本社になってしばらく経った頃のようす  Photo 2014.5.4

 外壁が大幅に改修され窓割も替えられた。外壁は半分ほどが壁面緑化され、1Fには人工照明を用いた水田も作られた。当時、この水田はしばしばメディアにも採り上げられていた。


 壁面緑化のようす  Photo 2014.5.6

 季節によっては花も咲いていた。当時、壁面緑化を大々的に行った建物は都心では珍しかったので、会社の業務内容はともかく、このような建物が増えていくのも面白いなと考えていたのだが、結局、これは数年で終わってしまい、超巨大な高層ビルがこの一帯には建てられることになり、この建物もあっという間に解体されたのだった。


 屋内での稲の栽培  Photo 2011.1.9

 人工照明で光を当て、温湿度も管理されていたのだろう。1月に通り掛かった際にも青々と稲が育っていた。ただ、人工照明を当てて暖房をして稲作をすることが、エネルギー的に本当に環境に優しいことだったのかどうかは知らない。多分にショールーム的なものだったのかもしれないと、今となっては思う。

 大和呉服橋ビルとJXビルは、東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業)に伴い解体された。西側の朝日生命大手町ビルや日本ビルヂングも近日中に解体されるはずである。丸の内、大手町、八重洲、日本橋、界隈の建物は次々に解体され、跡地では巨大かつ超高層のビルの建設が相次いでいる。

大和呉服橋ビル - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture 日本橋界隈 - 都市徘徊blog
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旧相互無尽会社

2022-02-12 | 千代田区 
旧相互無尽会社本社
所在地:千代田区 神田神保町2-19
構造・階数:RC・4
設計・施工:安藤組
建設年:1929(昭和4)
解体年:2020(令和2)
Photo 2005.3.25

 相互無尽株式会社の本社として建てられたビル。相互無尽株式会社は、1911(明治44)年に「相互貯金株式会社」として設立され、1917(大正6)年に「相互無尽株式会社」に商号変更したという。戦後の1951(昭和26)年に「第一相互銀行」となった。
 Wikiを見るといろいろあったようだが、1989(平成元)に「太平洋銀行」となり、更に同行が1996(平成8)年に破綻すると「わかしお銀行」となり、2003(平成15)年に三井住友銀行となった。

 神保町にあったこの建物は、相互無尽株式会社の本社として建てられ、戦後、上述のように第一相互銀行の本店となったようだが、1973年の住宅地図では、道を挟んだ西隣(神保町2-21)に第一相互銀行本店があり、この建物は「相和不動産」となっている。更に1982年の住宅地図では「亀田健雄事務所」と「兵藤次郎事務所」となっており、この頃は銀行としては使われていなかったようだ(銀行の部分もあったのかもしれないが、地図では省略されていたのかもしれない)。

 ところが、1991年の住宅地図を見ると、この建物は第一相互銀行別館となり、再び銀行として使われたようだ。そして2001年の住宅地図ではわかしお銀行別館、2011年のそれでは三井住友銀行別館と(財)日本タイ協会が記されている。

 手もとには1992年時点の写真があるが、当時は銀行の看板などは掲げられていなかった。ただ室内の灯りは点いており、オフィスとしては確かに使われていたようだ。2002年の写真では「わかしお銀行ローンショップ」という看板がコーナー部に出され、さくら通り側には広告も張り出されていた。


 Photo 2017.6.26

 2010年頃にさくら通りの電線地中化が行われたため、この頃以降は建物の全景がきれいに見えるようになった。周囲の建物が高層化していく中では4階建てのこのビルは可愛らしく見えていた。
 また2009年に、外壁はいちどきれいにされている。3、4階のさくら通りに近い部分の窓まわりも修復された。今後も大切に使っていくのかもしれないなと思っていたのだが、最終的に売却されて敢えなく解体されてしまったのはやはり残念。


 Photo 2019.3.22

 2009年頃に東隣の建物が解体されて駐車場になったため、旧相互無尽会社の建物はポツンと建っているような感じになっていた。隣の建物が無くなったので、東側壁面が見えるようになったのは興味深かったが。


 Photo 2005.3.25

 壁面はスクラッチタイル張り。改修前にはエアコンのパイプが目立っていたが、改修後は目立たないようにされていた。


 西側壁面 Photo 2009.2.16


 北側(さくら通り側) Photo 2005.3.25

 さくら通り側のこの窓だけ大振りな格子になっており、他の窓とは異なり目立っていた。テラコッタのようにも見えたが、ザラザラした感じは色付きコンクリートだったのかもしれない。


 Photo 2017.6.26

 「日本近代建築総覧」などでは1930(昭和5)年竣工となっているが、下記、「近代建築探訪」の記事への書き込みによれば、設計・施工の安藤組の記録には1929(昭和4)年竣工と記されているという。

第一相銀別館/神田神保町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
旧相互無尽会社本社 2020.6 | 貴族の部屋
太平洋銀行 - Wikipedia
神保町のビル: ★近代建築探訪★
神保町の復興レトロ建築 「旧相互無尽ビル」 - 東京冒険紀行
旧相互無尽会社 - 千代田遺産
神保町を見守り続けた老ビル、90年の歴史に幕 「旧相互無尽会社」解体に惜しむ声相次ぐ「取り壊してほしくないよ」(全文表示)|Jタウンネット
「本の街」見守り90年、解体へ 関東大震災の復興建築 神保町「旧相互無尽会社ビル」:東京新聞 TOKYO Web

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博幸印刷/川田邸

2022-02-09 | 千代田区 
博幸印刷/川田邸・東戸陸運貨物協同組合
所在地:千代田区 西神田3-5-1
構造・階数:木・3/2
建設年:1929(昭和4)
解体年:2010(平成22)頃
Photo 2005.3.25

 この界隈では再開発によって千代田ファーストビルの東館(右後方)と西館(左後方)が建てられたが、写真の建物はその2つのビルの間の一角にしばらく残っていたもの。千代田ファーストビルの東館は1998年竣工、西館は2004年に完成していたが、間にあったこの建物は、その後も数年の間残されていた。

 右側の建物は赤瓦の切妻屋根が載ったハーフティンバー様の洋風建築。『日本近代建築総覧』には、この建物が「東戸陸運貨物協同組合」であると記されているが、1973年以降の住宅地図ではその名は見当たらない。ただ、1973年と1982年のゼンリン住宅地図には、この場所に川田邸と千代田運送事業協組の2つが記されている。東戸陸運貨物協同組合と千代田運送事業協組では微妙に名前が異なるが、やはりこの建物が総覧掲載のものに該当していたようだった。なお、1991年の住宅地図では、川田・長島邸になっており、更に1998年には川田邸のみになっている。
 建物1階には、角側(写真右側)に観音開き?の扉があり、左隅のアーチ型の箇所にも入口があったようだ。少々区別が付かないが、どちらかは川田邸、もう一方は小規模な事務所の入口だったらしい。

 一方、左側のモルタル塗り3階建てのシンプルな看板建築は博幸印刷。こちらは1973年の住宅地図には社名が見当たらないが、少なくとも1982年以降はずっと博幸印刷(株)として掲載されていたもの。

 かつてこの街区には最高でも5階建ての建物しか建っていなかったが、千代田ファーストビル西館は32階建て。超高層ビルの足下に木造2階建てが2軒だけポツンと建っている様子は、かなり奇妙なものだった。

 Google Street Viewで見ると2009年12月時点では存続していたことが分かる。そして現在、同所にはウェルスクエア神保町(RC、10F)という2012年2月竣工のマンションが建っている。そこからするとこの2つの建物は2010年頃に解体されたのではないかと思われる。

博幸印刷、他/西神田3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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高山邸

2022-02-06 | 千代田区 
高山邸/2軒続きの銅板張り看板建築
所在地:千代田区 神田須田町2-13
構造・階数:木・3/2
建設年:1923(大正12)/戦前?
解体年:2014(平成26).5/2014〜15.3
Photo 2005.3.27

 左端は看板建築として有名な海老原商店。その右隣、写真中央が高山邸。写真右手も2軒続きの銅板張り看板建築。

 高山邸は『日本近代建築総覧』では「高山巌宅」として掲載されている銅板張りの3階建て看板建築。2階と3階では戸袋の模様が異なるなど、小規模ながら手が込んだデザインになっている。その右側の銅板張り看板建築の方は、1970年代以降いくつかの店が入れ替わりながら店舗として入っていたようだ。

 海老原商店は現存しているが、高山邸とその右の看板建築は共に2014年後半〜2015年前半までに解体され、現在はコインパーキングになっている。看板建築が並ぶ街並み、とりわけ戦前期の銅板張り看板建築が並ぶ場所は年々少なくなっている。解体後、跡地は中高層マンションかコインパーキングになることが多い。写真に撮っておきたいとはあまり思えない街並み風景が次第に増えているのはやはり残念だ。

黒田栄次郎商店、海老原商店/神田須田町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
【×】高松松蔵宅 - ずぼら堂懐古録

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山崎邸倉庫

2022-02-03 | 千代田区 
山崎邸倉庫
所在地:千代田区 西神田2-1
構造・階数:木?煉瓦?・2
建設年:1916(大正5)
解体年:2010〜12(平成22〜24)
Photo 2008.9.9

 『日本近代建築総覧』に「山崎邸倉庫」として掲載されているものらしい。そして右側の家が山崎邸。
 下記、「ぼくの近代建築コレクション」では「この蔵が『総覧』の「倉庫」なのか? と疑問ではあるが可能性はある。」と記されている。
 たしかにこの何の変哲もないモルタル塗りの倉庫が近代建築総覧に載っているのはちょっと不思議だ。いわゆる土蔵は都内にもまだそこそこあって、同書が発行された頃ならもっとたくさんあったはずで、煉瓦造の蔵やRC造の蔵でも載っていないものは結構ある。独特の洋風意匠などがあればそれが掲載の根拠にもなるが、この倉庫にはそれらしいものもない。

 同書にはこの倉庫の構造は記載されていないが、外見からすると木造か煉瓦造の倉庫だったようだ。あるいはこの倉庫の他に洋風の倉庫がかつてはあったのだろうかと思い、1970年代の住宅地図を見たが、他には該当しそうな建物が見当たらなかった。結局、これだったのかなぁと考えているうちにこの建物も解体されていったのでした。

中教出版、白山通り裏の蔵/西神田2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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