都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2020年1月 記事一覧

2020-01-31 | 記事一覧 

01/02 旧三洋パッキン
01/02 高田馬場・花福
01/06 荒木商店・一英堂
01/08 富永肉店ほか
01/10 東山堂ほか
01/12 山栄ビル
01/14 銅版張りの看板建築 クリーニング東和ほか
01/16 第一信用金庫本店/浪漫亭/ビストロかがり火
01/18 早稲田大学 旧3号館 その1
01/20 早稲田大学 旧3号館 その2
01/22 日清製粉 晴東寮
01/24 旧 木村春東邸
01/26 中野屋米店
01/28 旭湯
01/30 顔系ファサードの建物

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顔系ファサードの建物

2020-01-30 | 中央区  
顔系ファサードの建物(トップ)
所在地:中央区銀座1-20-4
構造・階数:木・3F
解体年:2014〜15(平成26〜27)
Photo 2013.10.13

 身の回りのいろいろな物が顔のように見えてしまうのを「シミュラクラ現象」というそうだ。この建物は装飾もなく、建築的には取り立ててどうという建物ではなかった。ただ、3階に小さな窓がシンメトリーに並んでいたため、そこがロボットかなにかの目のように思えてしまい、いきおい2階の窓も口のように見えてしまうのがおもしろかった。

 1997年の住宅地図では「トップ」という名が記されているが、業種は不明。2000年代の住宅地図では空白。
 2009年12月のGoogle Street Viewでは、一階の扉が開かれていて中や外に段ボールが山積みになっている様子が写っている。サッシには「町会広報」という紙が貼ってあるが、建物用途との関連は不明。その後のStreet Viewではいつも閉まっていてカーテンが引かれていた。なんらかの倉庫のように使われていたのかもしれない。

 2014年4月のGoogle Street Viewには写っているが、2015年6月では既に消失して更地になっていた。その後、2019年5月に至るまでコインパーキングで、現在もそのままのようだ。

シミュラクラ現象 - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #商業系  #看板建築 

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旭湯

2020-01-28 | 中野区  
旭湯
所在地:中野区本町6-10
構造・階数:木・1F
建設年:1962(昭和37)
解体年:2017〜18(平成29〜30)
備考 :1949(昭和24)創業、2017(平成29)1月廃業
Photo 2013.8.27

 中野通りから西に入ったところにあった銭湯。

 電柱がそこらじゅうにあるのと前面道路の幅が狭く引きが確保できなかったため、建物正面側の様子を写真に上手く納められなかった。

 いわゆる宮型造りと呼ばれるもので、入母屋の大屋根に唐破風の玄関。入母屋の破風内の装飾はなく控えめ。ブロック塀と塩ビ波板の目隠しは後付けのものだがやや残念。

 東北側の角にはコインランドリーが併設されていた。大きな高窓も特徴的

 ネットで検索すると、昔ながらの雰囲気のある銭湯として知られていたそうだ。また有名な銭湯絵師が描いた富士の絵が浴室にあり、ファンの間ではその点でも有名だったようだ。

 光の加減でよく見えないが、上下二つの鬼瓦には縦書きで「旭湯」と書かれていた。手が込んだ懸魚の彫刻も印象的だった。

 その後訪れる機会がなかったが、残念ながら2017年1月に廃業したという。

 東側のコインランドリーは同年3月末に撤去。宮造りの本体建物の方は、2017年10月時点のGoogle Street Viewにはまだ写っている。ただ、2018年4月のそれでは、既に消失して更地になっており、2019年4月の写真では新しい建物を建設中であることがわかる。

新中野「旭湯」が68年の歴史に幕 伝説絵師描いた「富士山」も見納めへ - 中野経済新聞

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中野区  #銭湯 


2022.12.30追記
 上記、中野経済新聞の記事などには、旭湯は戦後の1949(昭和24)に創業し、1962(昭和37)に写真の建物に建て替えられたと記されている。しかし戦前の1933(昭和8)年発行の火災保険特殊地図で既に「旭湯」の表記があり、同新聞とは創業時期からして食い違っている。同新聞が誤っていたのか、それともなんらかの理由で戦前期の旭湯とは別扱いにしたのか、そのあたりについては不明。

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中野屋米店

2020-01-26 | 中野区  
中野屋米店
所在地:中野区本町4-48
構造・階数:木・2F
解体年:2016〜17(平成28〜29)
Photo 2013.8.27

 中野通りと青梅街道が交差する杉山公園交差点のそばにあった米店。

 奥に見えるモルタル看板建築の方は、デザインはあっさりしているが比較的間口が大きかった。中央の出桁造りは一階の階高が比較的高く、一方、二階は階高がやや低く奥まっていた。いつ頃の建物だったのだろうか?
 屋根もメンテナンスされていて、看板も立派で残って欲しい建物だったが、4年ほど前に残念ながら解体されてしまった。

 写真中、一番手前の2棟(クリーニング店とその右側)は、2019年5月のGoogle Street Viewにはまだ写っている。しかしその時点で既に無人化していて解体の告知が掲出されているので、この建物も同年中に解体されたのではないかと思う。

 交差点周辺で道路拡幅事業が行われていたこともあって、現在、この周辺は高層マンションが建ち並ぶ街並みになっている。


2022.12.30追記
 1933(昭和8)年発行の火災保険特殊地図には「米ヤ」と表記されている。写真の建物が既に建っていたかどうかは不明だが、昭和初期の時点で中野屋米店はあったようだ。また、1958(昭和33)年発行の「東京都全住宅案内図帳」には「中野屋米店」と記されている。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中野区  #街並み 中野区  #看板建築 
#モルタル看板建築  #出桁造り 
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旧 木村春東邸

2020-01-24 | 港区   
旧 木村春東邸
所在地:港区 高輪3-18
建設年:1907(明治40)
構造・階数:木・3F
解体年:2012(平成24)
Photo 2006.3.5

 1907(明治40)年完成で、築100年以上。華やかな屋根装飾を持つ木造3階建て住宅が、東禅寺わきの小さな住宅地にあって、なぜこんなところにこんな建物がと驚かされる代物だった。


 Photo 2006.3.5

 改装されて増築もされていたのか、部分的に張り出していたり、2階への梯子段が付いていたりで、入口周辺は奇妙な感じ。

 建物を建てた木村春東という人は徳川慶喜の従医だった人という。代替わりはしていたが、最後の頃まで木村家が使用していたらしく、門柱には木村という表札がまだ掛かっていた。


 Photo 2012.12.4

 それほど規模の大きくない3階建てだったが、屋根はスレートと銅で葺かれ、デザインはまるで西洋の宮殿風。個人住宅でこれほどの装飾のある屋根は稀。小路の奥にあったため全景を撮れなかったのが残念。

 使われなくなったという話を聞いていたので、近くを通りかかるたびに気になって見に行っていたのだが、2012年の12月4日に訪れてみたら、ちょうど解体業者が来ていて、既に家財道具などが運び出され、解体準備真っ最中だった。現在、同所にはタカナワテラスという集合住宅が建っている。

高輪に建つ明治からの洋館がもうすぐ解体。最後の記念に数枚。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 港区  #住宅系  #近代建築  #洋館・洋風住宅 

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日清製粉 晴東寮

2020-01-22 | 中央区  
日清製粉晴東寮
所在地:中央区日本橋蛎殻町1-33
構造 :木造?
階数 :3F
解体年:2017〜18
Photo 2014.5.6

 「日清製粉晴東寮」という看板が玄関先に掛けられていたが、この頃もそうだったのだろうか。 都心に大会社所有でこのような小規模な寮の建物が残っていたとしたら珍しいことだった。

日清製粉晴東寮(ディテール)

 スクラッチタイル風のタイル張り。RC造3階のように見えたが、もしかすると木造洋風看板建築だったのかもしれない。なかなか謎の建物なのだった。

 Google Street Viewで確認したところ、2017年8月では存在していたが、2018年4月には残念ながら既に更地になっていた。2017年後半から18年初頭の間に解体されたようだ。


2021.10.9追記
 航空写真で見ると寄棟屋根だったと記載しているサイトもあるので、洋風のビルのように見えるがやはり木造だったのかもしれない。

晴東寮/蛎殻町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
日東製粉晴東寮 中央区日本橋蛎殻町 - 東京ノスタルジア

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#失われた建物 中央区  #住宅系 

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早稲田大学 旧3号館 その2

2020-01-20 | 新宿区  


 正面玄関扉と玄関内の小窓

早稲田大学旧3号館
所在地:新宿区西早稲田1-6
建設年:1933(昭和8)
構造・階数:RC造・4F
設計 :桐山均一(早稲田大学営繕課)
解体年:2011(平成23)
備考 :2014(平成26)に新3号館が完成
Photo 2007.9.20(以下すべて同じ)

 学校建築なので壮麗な装飾が内部にあるわけではないが、クラシックな建物らしいデザインが各所に見られる建物だった。記憶が曖昧だが、以下3枚は2階の廊下の様子。南側と北側で建設年が少し異なり、両者を結ぶ部分もあるため、廊下のデザインも場所によって異なっていたようだ。

 幅木の部分は大きめのタイル。床も石のように見えるが左官仕上げかと思われる。

 別の場所では1.2mほどの高さまで木製の板が腰壁として張られている。手前には丸柱が廊下に張り出している。ここの床はリノタイルだろうか。

 さらに別の場所は、ほとんど装飾がなくちょっと素っ気ない感じ。左側は給湯コーナーのようだが、後から廊下の途中に造ったのだろうか。衝立で区切った奇妙なものになっている。


 階段室

 この階段は高い位置までタイル張りの腰壁が立ち上がっており、床もタイル張り。階段わきにはトイレがあった。


 4階から階段室

 なじみのない建物だったので、この階段室がどこにあったのか、中庭側と外側どちらの側だったのか覚えていない。踊り場の角はカーブを描いていて、最上階では天井から灯りが吊されていた。


 階段室見下ろし

 このようなタイル張りの階段は、建物内では最近はあまり見掛けない。


 階段手摺

 上3枚の階段とは別の位置にあった階段。こちらは3枚の板を重ねたような手摺。この手摺のデザインは現在の建物でも再現されている。


 消火栓と火災報知器

 電気系は建設当初はあまりなかったので、壁にはたくさんの配線パイプなどが張られていた。スプリンクラーなどではなく、壁面にホースを収納した消火栓。これも古い建物ではときどき見られるもの。

都市徘徊blog > 早稲田大学3号館つづき

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#失われた建物 新宿区  #早稲田大学  #大学 
#桐山均一  #近代建築  #屋内階段 
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早稲田大学 旧3号館 その1

2020-01-18 | 新宿区  
早稲田大学旧3号館
所在地:新宿区西早稲田1-6
建設年:1933(昭和8)
構造・階数:RC造・4F
設計 :桐山均一(早稲田大学営繕課)
解体年:2011(平成23)
備考 :2014(平成26)に新3号館が完成
Photo 2007.9.20

 全体の平面型はロの字型で南側の両翼が少し張り出した形。屋根は他の校舎同様えんじ色の瓦屋根。


 北西側から Photo 2011.5.26

 北側には4号館との間をつなぐブリッジが架けられていた。新しい3号館ではこのブリッジは無くなっている。また、2011年度に入ると外側に工事用囲いが設置され、解体工事が始まっていた。


 正面玄関 Photo 2007.9.20

 玄関内のようすは異なるが、外側は新3号館でもほぼ忠実に復元されている。


 4階壁面の装飾 Photo 2011.5.26

 中庭側壁面の装飾も同様に復元されているが、旧3号館の中庭部分は新3号館では吹き抜け内になっており、壁面沿いに設けられた通路を歩くと装飾を間近に眺めることができる。


 3号館両サイド中央の壁面 Photo 2011.5.26

 3号館は当初は南側半分だったようで、後に北側半分が造られ、更に両者がつながれてロの字型の建物になっていた。写真はコの字型の南北二つの建物をつないでいた増築部分。ここの部分の4階にはアーチ型の装飾はなく、壁面全体がガラス面の多いモダンなデザインになっていた。


 西側の7号館から増築部分 Photo 2011.5.26

 ギザギザの庇が付いており、その下には水を流し落とす嘴状の装飾が付けられていた。


 2階から中庭 Photo 2007.9.20

 比較的大きな中庭には植栽だけでなく高木もあった。


 中庭南側 Photo 2007.9.20

 中庭上空の4階部分にブリッジがあるのも印象的だった。残念ながらこのブリッジ内部の写真は撮らずじまい。


 ブリッジ見上げ Photo 2007.9.20

 4階の南側に大きな教室があってこの部分に廊下がなかったため、東西を行き来できるようブリッジを架けていたらしい。当初からあったのか増設されたのかは知らず。早稲田キャンパスの他の校舎にはあまりないデザインが印象的だった。

 80年近くにわたって使われていた旧3号館だったが、残念ながら解体され現在は高層の新3号館になっている。

 新3号館の低層部前面には旧3号館の南半分を復元し、メインの軸線沿い低層部の景観の保持を試みている。往時の3号館がそのまま残されているように見えるが、新棟建設に際してはRC造の旧3号館はいちど完全に解体されている。新3号館の復元部分は、S造(一部SRC・RC)で、外観を「再現した」という方が良いのかもしれない。

 旧3号館の内部についてはまたこんど。

都市徘徊blog > 早稲田大学3号館 その2新3号館 その1その2

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#失われた建物 新宿区  #早稲田大学  #大学 
#桐山均一  #近代建築 
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第一信用金庫本店/浪漫亭/ビストロかがり火

2020-01-16 | 新宿区  
ビストロかがり火(旧第一信用金庫本店)
所在地:新宿区市谷柳町1
建設年:1925(大正14)
構造・階数:RC・2F
解体年:2015(平成27)
Photo 2006.8.27

 大正時代に信用金庫の本店として建てられた建物。戦後はしばらく病院として使われていたというが、平成期には居酒屋、そしてレストランになっていた。大久保通りの拡幅に伴い2015年10月末に閉店し、残念ながら同年末に解体された。

 2006年に訪れたときは、外壁がきれいに塗り直されていてちょっとオシャレな感じのレストラン・洋菓子店だった。


 Photo 1995.6.3

 1990年代に最初に見た時は浪漫亭という居酒屋だった。

 改修前後の写真を比較すると、側面や正面上部の看板が取り外され、側面には照明も取り付けられていた。店舗の庇も建物に合ったものに取り替えられていた。建設当初の色と同じかどうか分からないが、改装によって外観はもとの建物を活かしたものになっていたようだ。

 浪漫亭という店の名をネットで検索すると、現在も「新・浪漫亭/ビストロかがり火」というサイトがあり、その中の「浪漫亭あれこれ」にこの建物の来歴が記されている。

1925(大正14)第一信用金庫本店(注1)
  戦後    柳町病院(注2)
1989(平成元) 浪漫亭
1996(平成8) 新・浪漫亭
2005(平成17)ビストロかがり火
2015(平成27)閉店、解体

注1)第一信用金庫は、後に帝都信用金庫となる。更に2000.3に東京都商工信用金庫、日本橋信用金庫、東商信用金庫、京橋信用金庫と合併し、現在は東京シティ信用金庫。
注2)柳町病院は1982に道の反対側に移転。

 またこのページには第一信用金庫本店当時の姿も載っている。

 飲食店だった時期の姿と比較すると、もともとは半円形の付柱が1階から立ち上がっていたが、後年は2階部分のみになっていたこと、またかつては中央上部に第一信用金庫の社章とおぼしきレリーフがあったことも分かる。

 もともと銀行系の建物だったのが、戦後、病院になったり飲食店になったりと紆余曲折はあったが、幸運にも90年間使い続けられてきていたわけで、もう少し残れば文化財とかになっていたかもしれないだけに、道路拡幅で取り壊されてしまったのはやはり残念。

#失われた建物 新宿区  #商業系  #銀行・保険  #近代建築 
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銅版張りの看板建築 クリーニング東和ほか

2020-01-14 | 新宿区  
銅版張りの看板建築 クリーニング東和ほか
所在地:新宿区高田馬場4-39-6
構造・階数:木造・2F
解体年:2010〜12
Photo 2006.2.3

 早稲田通り沿いに4軒つづきで並んでいた銅版張りの看板建築。営業しているのはクリーニング店だけのようだったが、比較的きれいな状態で残されていた。緑青銅板張りの看板建築がたくさん建ち並んでいる場所は既に少なくなっていたので、この建物群はちょっと貴重だった。

 一番左は、縁をトタンにしたためそこが額縁状に錆びていて、窓まわりの壁面はカラートタンに替えられているが、右の3軒は上端部の装飾が連続して繋がっていて、元はひとまとまりの看板建築だったことが窺える。

 一番右は、上の方の壁面に文字は読めないがなんらかの店舗名が張られていた跡が見える。また右から2番目は、一部をトタンにしたせいか2階庇上などが錆びているがその他は比較的当初の姿を残しているようだった。

 一連の建物は、Google Street Viewで見ると、2009年12月時点ではまだ存在していたが、2013年7月の画像では既に新しいビルになっている。建設に掛かる時間を考えると、2010〜12年頃に解体されたようだ。

高田馬場の看板建築 - 都市徘徊blog

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