都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

石森ビル(中野センター・中野ヘルスクラブ)

2023-01-12 | 中野区  
石森ビル(中野センター・中野ヘルスクラブ)
所在地:中野区 中央4-61
構造・階数:RC・5
建設年:1961(昭和36)頃
解体年:2009(平成21).12
Photo 1997.3.30

 中野光座があった中野センター食品街の建物の東隣にあったビル。中野光座と同時期、少し後に建てられたもので、1961年発行の「東京都全住宅案内図帳」では建設中と記されている。また1968年発行の「東京都全住宅案内地図帳」では「三越商事KK・中野センター」となっている。また、1976年発行のゼンリンの住宅地図では「石森ビル・三越商事」と記され、その後の住宅地図では「ファミリーショッピング中野センター」などとも記されている。

 南側は5階建て、北側は2階建て。北側が2階建てなのは、大久保通りが将来拡幅される予定なのが当時既に明らかだったためかもしれない。1階にはファミリー中野センターというスーパーマーケットが入居していた。また、主に2階には中野ヘルスクラブというジムがあった。

 ジムとかボディビルとかの方面には全く疎いのでよく知らないのだが、中野ヘルスクラブは古くからのジムで、草分け的な存在だったらしい。とにかく、外国人と思しきマッチョな男女が外壁に描かれているのがすごく印象的だった。最近のジムにはこのような絵は描かれていない。90年代でも異色な存在だった。またその看板が古びて色褪せたりもしていて妙な迫力を醸しだしていたのだった。いちど入ったら出てこられない雰囲気・・・。

 ファミリー中野センターの方は、西側の中野センター同様、戦後このあたりにできていた小規模店舗をまとめたものが元になっていたのだろう。

 建設当初は、大久保通りの拡幅工事が始まるなら5階建ての側は残して北側を取り壊そうと考えていたかもしれない。しかし用地買収がされる頃には建物も老朽化していて、より高層の建物に建て替える方が良くなったということだったのだろうか。

ついに終焉。中野の闇市ゾーン [中野光座] : 日本ボロ宿紀行

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中野センター・中野光座

2023-01-09 | 中野区  
中野センター・中野光座
所在地:中野区 中央4-61
構造・階数:RC・2F(一部3F?)
建設年:1960(昭和35)頃
解体年:2010(平成22).6
備考 :中野光座(映画館)は1994年頃に閉館
Photo 1997.3.30

 中野センター・中野光座は、戦後このあたりにできていた小規模店舗群(マーケット)をひとつの建物にまとめて、更に映画館を併設したもの。中野五差路交差点に面していて赤いトタンで覆われた外観が印象的だった。

 下記リンク先の「消えた映画館の記憶」によれば、1958年の映画館名簿には掲載がなく、1960年のそれには「中野光座」として掲載されているという。1961年発行の「東京都全住宅案内図帳」では「中野センター食品街」とだけ記されているが、このとき既に中野光座も存在していたようだ。その後、1968年発行の「東京都全住宅案内地図帳」には、「中野光座・中野センター食品街」と記されている。


 北西側・大久保通り側 Photo 2006.6.4

 中野光座の入口は北側の角にあった。外壁には「中野光座」のネオンサインが残されていたが、「中野光座」「中野ひかり座」「中野ヒカリ座」と、映画館名簿や住宅地図では表記が一定ではなかったようだ。160席だったそうなので映画館としては小規模。途中からはピンク映画の上映館になっていたという。映画館としては1990年代中頃に閉館したそうだ。私が上京してからもしばらくはやっていたわけだが、残念ながら入ってはいない。またその後も小劇場として2000年代中頃までは利用されていたようだ。写真の時点でも演劇開催の告知が掲出されている。
 航空写真で見たところでは、映画館は2階北側に前室(ホワイエなど)があり、中野通り側(1枚目の右半分側)に劇場スペースがあったのではないかと思われる(あくまで外観などからの想像ですが)。


 東南側 Photo 2006.6.4

 東南側は一方通行の小路に面して飲食店などが店を開いていた。上階の全てを映画館が占めていたわけではなかったようで、写真中央の居酒屋などには2階席もあったように見える。


 隣接したビルとの間に設けられた通路  Photo 1997.3.30

 写真左側は北東側の石森ビル。構造的には別々のビルだったが、こちらのビルの店舗も合わせて中野センターと呼んでいたようだ。


 西側入口付近から  Photo 1997.3.30

 1階には通り抜け可能な変形した丁字型の通路があり、中野五差路交差点に面した角と、東南側の小路側から入れるようになっていた。建物全体は長方形の1つの角を斜めに切ったような平面型をしており、基本的にその長方形の四辺に平行してグリッド状に柱梁が造られていた。交差点に面した角はその斜めに切った部分なので、そこから入ると天井の梁が通路を斜めに横切っていた。そして少し奥へ進むと通路はくの字型に折れていた。この頃はまだ営業している店舗がいくつかあったので、通路にも物が置かれたりしていた。
 店舗は2階建てだったが、通路上部にガッチリした梁が入っていることから考えると、この上に映画館の客席や設備が載っていて部分的には3階建てだったのではないかと思われる。


 丁字型交差部からくの字に曲がった通路  Photo 2006.6.4

 2000年代、解体の数年前の段階になると、営業している店もわずかになりひっそりとしていた。


 丁字型交差部。右へ進むと南側に出られる。  Photo 2006.6.4

 くの字型の部分は上部に劇場があったためかRCの梁とスラブがあったが、丁字型交差部付近から東と南にはスラブがなく、梁だけになっていて、角材と塩ビ版で造られた屋根が載せられたアーケードになっていた。


 丁字型の交差部  Photo 2006.6.4

 2階には店主などが住んでいたのだろう。蛍光灯の灯りが点いている部屋もところどころあった。


 南側の入口付近から  Photo 2006.6.4

 90年代に訪れた時には、通路のところどころに蛍光灯が付けられていたが、2000年代に訪れたらそれはなくなっていて、裸電球がぶら下がった状態になっていた。


 Photo 2006.6.4

 隣接する石森ビルは2009年末に解体。中野光座・中野センターも翌2010年に解体された。

 なお、その後に新築されたビルは、北側を通る大久保通りの拡幅と中野五差路交差点の改良もあり、以前よりかなり下がった位置に建てられている。

中野区の映画館 - 消えた映画館の記憶
ついに終焉。中野の闇市ゾーン [中野光座] : 日本ボロ宿紀行
中野光座 02 ← 中野光座の内部写真あり

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#失われた建物 中野区  #映画館・ホール  #マーケット  #飲食店 
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東京都住宅供給公社 中野駅前住宅

2023-01-06 | 中野区  
東京都住宅供給公社 中野駅前住宅
所在地:中野区 中野2-24〜26
構造・階数:RC・4
建設年:1951〜52(昭和26〜27)
解体年:2019(平成31).9〜
Photo 2018.6.7

 JR中野駅南口から線路沿いに東へ少し行った場所にあった団地。昭和20年代に建てられた団地は東京では既にかなり少なくなっているそうで、しかもJR駅の近くというのは珍しいというか貴重ともいえる存在だった。
 建設から70年近く経ち老朽化もしていたことから再開発されることになり、2019年に解体。現在、中野二丁目地区第一種市街地再開発事業が行われていて、2024年には超高層の集合住宅とオフィスビルが竣工する予定という。


 南北に並んだ7号棟と6号棟  Photo 1997.3.30


 手前から2号棟〜5号棟  Photo 2009.2.4


 JR中野駅のホームから1号棟と2号棟  Photo 2017.11.26


 1号棟は線路沿いの道から直接入っていくかたち  Photo 2009.2.4


 Photo 2009.2.4

 当初は風呂が無かったそうで、風呂場は南側のベランダを後から改装して造ったそう。


 Photo 2009.2.4


 入口の周囲にはスクラッチタイルが張られていた  Photo 2009.2.4


 Photo 2009.2.4

中野住宅くらしとすまい|JKK東京 東京都住宅供給公社
1953年完成も、解体間近の「中野駅前住宅」が伝える集合住宅の「原点」とは? | アーバン ライフ メトロ
Rトピックス 中野住宅が教えてくれること−団地R不動産−
現存する最古級の団地「中野駅前住宅」解体へ | 東スポWEB
歴史ある「中野住宅」の建替事業×「中野」駅南口エリア再開発 新築賃貸マンションの内装イメージを公開|東京都住宅供給公社のプレスリリース

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乾海苔問屋赤羽

2022-12-15 | 中野区  
乾海苔問屋赤羽
所在地:中野区 中央4-6
構造・階数:木・2
建設年:昭和初期〜昭和30年頃
解体年:2018(平成30)
Photo 2007.3.2

 中野駅南方の中野通りに面して建っていた商店。
 敷地が鋭角になっているらしく建物は北側の間口が狭い。このため北側から見ると細身の建物のように見えて印象的だ。


 Photo 2013.8.27

 一方、南側から見ると、さほど異形の建物には見えない。1階の屋根の傾斜が2階のそれよりかなり急なのがちょっと目立つ。


 Photo 2007.3.2

 建物は中野通り沿いに長く、幅広の間口を見せている。

 このあたりの中野通りは関東大震災前の大正時代にはまだできていなかったようだ。だがこの店舗はちゃんと中野通りに沿って建っている。従って、少なくとも中野通りが計画決定されたとき以降に建てられたものだろうと思われる。
 また、この建物のある地区は第二次大戦では被災しなかった場所なので、この区間の中野通りが完成した昭和戦前期の頃に建てられた可能性もあるだろう。ただ、屋号などが分かるのは1958(昭和33)年の地図以降である。

1933 ? 「火災保険特殊地図」外形は似ているが屋号などの記載がなく判別不能
1945 非焼失地域 「東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示」1947
1958 ○ 「東京都全住宅案内図帳・中野区南部」住宅協会
2018.4 ○ Google ストリートビュー
2019.3 × Google ストリートビュー


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千葉商店

2022-01-21 | 中野区  
乾物屋・千葉商店
所在地:中野区 新井1-36
構造・階数:木・2
建設年:1937(昭和12)
解体年:2016(平成28)
Photo 2005.11.3

 薬師銀座・薬師あいロード商店街にあった乾物屋。モルタル塗りのベランダのある平入りの2階建て商店。


 Photo 1993.11.7

 90年代、店先の右側にはたばこ販売のコーナーがあった(既に使われていなかったが)。また店内右側もたばこコーナーだった。店先にはしばしば海苔やお茶の段ボールや木箱が置かれていた。


 Photo 2013.8.26

 2010年代、店頭左側のたばこの自販機はまだあったが、店頭右側や店内のたばこコーナーは無くなり、乾物中心のお店になっていた。

 下記「東京ノスタルジア」には2016年1月の写真があるが、この少し後に解体されたという。薬師銀座商店街でも古い建物はかなり少なくなっている。

旧千葉商店 中野区新井 - 東京ノスタルジア

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一の湯商店街のアーケード

2020-11-01 | 中野区  
一の湯商店街 西側入口付近から東方向
所在地:中野区沼袋1-36、37
解体年:2000〜07(平成12〜19)の間
Photo 2000.4.19

 西武新宿線沼袋駅北口にある銭湯前のアーケード商店街。北口の商店街の通りから、一の湯という銭湯へ向かって東へ入る小路と銭湯前の小路にT字形にアーケードが架かり、商店が並んでいた。

 小路の北側の一角がマンションに建て替えられた(ダイナシティ中野沼袋、2008.3竣工)際に、アーケードは撤去されたようだ。南側の建物も一部は建て替わったり業態が替わっている。ただ、右側、幟のある店舗、茶の丸美屋と、奥の右角の鮮魚店魚光は現在も存続している。

 アーケード中ほどから西側入口方向。右側はマンションになり、左側は店舗の業態が替わった。

 一の湯の前から西方向。左端の鮮魚店と、少し奥の茶の丸美屋は現存。右側はマンションになり全てなくなっている。

 T字形のアーケードの東南端から。右側の銭湯、一の湯は現在も営業していて、その前の部分だけはアーケードが残存している。

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ニューグリーンビル

2020-03-16 | 中野区  
ニューグリーンビル
所在地:中野区 中野2-23
構造・階数:RC・6F
建築年:1963(昭和38)
解体年:2019(令和元)
Photo 2018.6.7

 JR中野駅南口を出て、線路沿いに東へ行った場所にあったオフィスビル。

 中野駅南口周辺では超高層複合ビルを建てる市街地再開発事業が始められていて、東京都住宅供給公社住宅が解体されたが、隣接地にあったこのビルも昨年7〜8月頃に解体された。ただ、このビルの敷地は南口周辺の再開発とは別なようで、再開発地区の東側に新しく整備される区画道路の東側にあたる。

 コーナーが丸められていて、窓の上側には庇状の囲みがある。開口部をコンクリートで囲むのは、耐震性を持たせるためだというが、上側だけでもある程度効果はあるのだろうか? 一方、北側の小窓は規則性があるような無いような並び方。

 写真の部分は北側の道路に面した部分で、実際は南北にやや長いコの字型をしていたようだ。Google Mapを見るまで気がつかなかったので写真は撮っていなかった。

 北東角は階段室やエレベーター室だったらしい。ただ、その塔屋北側に張り付けられたこのカーブした壁はなんだったのだろう? ニューグリーンビルだから緑色だったのかもしれないが、何か理由があっての形なのか、単なるデザインだったのかは知らず。

 カーブした緑色の壁の左下には袖看板の跡があり、上の方にはビル名の文字が付いていたのではないかと思われる跡が見える。

 衝立のような壁は日射しによって陰ができ、建物に独特の表情を与えていた。

 玄関わきのモザイクタイル壁画。こういうものは最近は造られない。昭和30〜40年代の建物らしい雰囲気が出ていた。

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#失われた建物 中野区  #オフィス  #住宅系  #モダニズム 
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旭湯

2020-01-28 | 中野区  
旭湯
所在地:中野区本町6-10
構造・階数:木・1F
建設年:1962(昭和37)
解体年:2017〜18(平成29〜30)
備考 :1949(昭和24)創業、2017(平成29)1月廃業
Photo 2013.8.27

 中野通りから西に入ったところにあった銭湯。

 電柱がそこらじゅうにあるのと前面道路の幅が狭く引きが確保できなかったため、建物正面側の様子を写真に上手く納められなかった。

 いわゆる宮型造りと呼ばれるもので、入母屋の大屋根に唐破風の玄関。入母屋の破風内の装飾はなく控えめ。ブロック塀と塩ビ波板の目隠しは後付けのものだがやや残念。

 東北側の角にはコインランドリーが併設されていた。大きな高窓も特徴的

 ネットで検索すると、昔ながらの雰囲気のある銭湯として知られていたそうだ。また有名な銭湯絵師が描いた富士の絵が浴室にあり、ファンの間ではその点でも有名だったようだ。

 光の加減でよく見えないが、上下二つの鬼瓦には縦書きで「旭湯」と書かれていた。手が込んだ懸魚の彫刻も印象的だった。

 その後訪れる機会がなかったが、残念ながら2017年1月に廃業したという。

 東側のコインランドリーは同年3月末に撤去。宮造りの本体建物の方は、2017年10月時点のGoogle Street Viewにはまだ写っている。ただ、2018年4月のそれでは、既に消失して更地になっており、2019年4月の写真では新しい建物を建設中であることがわかる。

新中野「旭湯」が68年の歴史に幕 伝説絵師描いた「富士山」も見納めへ - 中野経済新聞

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#失われた建物 中野区  #銭湯 


2022.12.30追記
 上記、中野経済新聞の記事などには、旭湯は戦後の1949(昭和24)に創業し、1962(昭和37)に写真の建物に建て替えられたと記されている。しかし戦前の1933(昭和8)年発行の火災保険特殊地図で既に「旭湯」の表記があり、同新聞とは創業時期からして食い違っている。同新聞が誤っていたのか、それともなんらかの理由で戦前期の旭湯とは別扱いにしたのか、そのあたりについては不明。

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中野屋米店

2020-01-26 | 中野区  
中野屋米店
所在地:中野区本町4-48
構造・階数:木・2F
解体年:2016〜17(平成28〜29)
Photo 2013.8.27

 中野通りと青梅街道が交差する杉山公園交差点のそばにあった米店。

 奥に見えるモルタル看板建築の方は、デザインはあっさりしているが比較的間口が大きかった。中央の出桁造りは一階の階高が比較的高く、一方、二階は階高がやや低く奥まっていた。いつ頃の建物だったのだろうか?
 屋根もメンテナンスされていて、看板も立派で残って欲しい建物だったが、4年ほど前に残念ながら解体されてしまった。

 写真中、一番手前の2棟(クリーニング店とその右側)は、2019年5月のGoogle Street Viewにはまだ写っている。しかしその時点で既に無人化していて解体の告知が掲出されているので、この建物も同年中に解体されたのではないかと思う。

 交差点周辺で道路拡幅事業が行われていたこともあって、現在、この周辺は高層マンションが建ち並ぶ街並みになっている。


2022.12.30追記
 1933(昭和8)年発行の火災保険特殊地図には「米ヤ」と表記されている。写真の建物が既に建っていたかどうかは不明だが、昭和初期の時点で中野屋米店はあったようだ。また、1958(昭和33)年発行の「東京都全住宅案内図帳」には「中野屋米店」と記されている。

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#失われた建物 中野区  #街並み 中野区  #看板建築 
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名曲喫茶クラシック

2019-01-29 | 中野区  
名曲喫茶・クラシック
所在地:中野区中野 5-66
構造・階数:木・2F
建設年:1916(大正5)
備考 :2005.1月末閉店 2005.11.2解体
Photo 2005.5.18

 2005.11に「Site Y.M. 建築・都市徘徊」に記載しましたが、ブログ内に記事を移設しました。


 五木寛之氏のエッセイを週刊誌で読んでいたら、行きつけの喫茶店が次第になくなってしまい残念である、というくだりがあり、フムフムと読み進めていたら「よく通った中野のクラシックももうない。」とあった。へ?、去年行ったんだけどな。自宅の近くでしょっちゅう通ってるし。間違いじゃないかしら?。気になって、早速訪ねてみる。すると、ガーン。2005年1月末で閉店だと。もう一度行っておけば良かった。

 今回、初めて外観をしげしげと眺めてみた。お店をやっていた頃はこの路地にクラシックという黄色い看板が出ていたのだが、既にそれもない。1月の閉店後、数ヶ月の間に、ペイント落書きもされてしまった。今となってはただの廃墟。なんだかとても残念。

 しかしこのお店、営業していた当時もかなり怪しい建物ではあった。年月を経てそうなってしまったのだろうが、店内の床があちこち傾いていた。窓や手摺もゆがんでいて、崩れてしまうのではないかとちょっと怖い。寄りかかったりするのをためらってしまう。椅子もかなり年季が入っていて、ギシギシガタガタ。バネがバカになっていて、座るとズルズルっと沈み込んでしまう。ただこの老朽化加減は昔からのものだったと、30年ほど前から店の様子を知る方に伺った。となるとこの怪しさも昔からのものだったのだろうか??

 また、コーヒーを頼むとミルクがマヨネーズの蓋に入って出てくるのが印象的だった。店内がかなり暗いので、コーヒーは怪しい黒い飲み物になる。暗いと人間の味覚はやや鈍くなくなるということがよく判った!。多分にヒトは目で味わっているらしい。

 それから、このお店には飲み物のmenuしかなかった。食べ物を出さない代わりに、ゴミを持ち帰れば食べ物の持ち込みOKというシステム。慣れたお客さんは、コンビニでサンドイッチなどを買って、店内でピクニックみたいにそれらを広げて食べていた。こういう営業スタイルでよく続けられるなぁと、ちょっと不思議だったのでした。

 渋谷のクラシック喫茶・ライオンの方は、CDも使っていて、スピーカーも新しくしたりしているようだが、中野クラシックはアナログオンリーで、全部が「クラシック」だった模様。まあ、それはどちらでも良い。閉店の理由は判らないが、チェーン店のCafeに押されて、このような個性的なお店がなくなるのはやはり残念だ。建物がまだあるんだから、またお店開いてくれないかなぁと、何回も通ったわけでもないのに勝手に期待。

 閉店になったらたちまち落書きがされてしまった。アートだという人もいるが、いかにもレベルが低い。どう考えてもやはりただの落書き。汚損しているとしか言いようがない。無人だから、古いからといって、落書きで汚して良いわけはない。もったいない、もったいない。

 2005.11.2に通りかかったら、まさに解体している最中だった。結局、再開はなかった。重機が建物に襲いかかり、瞬く間に廃材の山を作っていた。解体の現場は、記憶を粉砕するようで、あまり見たくない。

名曲喫茶クラシック - Wikipedia

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