都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2023年5月 記事一覧

2023-05-31 | 記事一覧 

05/03 農林中央金庫 仙台支店
05/06 パレット玩具店
05/09 妻入りの洋館・M邸
05/12 安積疎水土地改良区事務所 別館
05/15 水村家住宅
05/18 木崎商店
05/21 吉原マシン工業/旧東武タクシー
05/24 天山旅館
05/27 旧鶴川座
05/30 東京堂

ブログ内記事のタグ一覧   日本国内の建物や街並み

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東京堂

2023-05-30 | 埼玉県  
東京堂
所在地:川越市 仲町1
構造・階数:木・2
建設年代:昭和30年代以前?
解体年 :2009〜11(平成21〜23)
Photo 2009.7.19

 蔵造りの町並みで有名な川越。東京堂がある大正浪漫夢通りは、重要伝統的建造物群保存地区になっているそのエリアよりも川越駅に近い場所にある。昭和30年代から平成の初期はアーケード商店街だったが、1995年にアーケードを撤去し、沿道建物の街並みを活かした商店街づくりが行われている。

 東京堂はこの通りの北端近くにあった洋風看板建築の紳士呉服店。シャッターには既製紳士服とあるが、軒にはTAILORとも書かれており仕立てもしていたようだ。1階はシャッターになっていて普通の店だったが、2階の壁がアールヌーヴォー風にデザインされていて目立つ建物だった。

 この建物についてはネット上にも情報がほとんどなく、建設年代は分からない。『日本近代建築総覧』にも記載されていない。
 下記の「大正浪漫夢通り」公式ページに掲載されている昭和30年代の写真に「東京堂」の袖看板が写り込んでいるので、東京堂じたいは少なくともその頃から存在していたようだ。ただ建物本体は写っていないので同じファサードデザインだったかどうかは不明。


 Photo 2006.11.3

 アーチ型の窓があったり窓枠が木製だったりするので、新しく作られたファサードではないようだ。やはりそれなりに古い建物だったのではないだろうか。『日本近代建築総覧』に記載がないのは調査時にアーケードがあって分からなかったからかもしれない。
 アーケードがあった時代は通りから見えなくなってしまっていたが、アーケードを撤去した際に化粧直しをしたのかもしれない。妙にきれいなファサードだったのであまり古く見えず、古く見えるように新しく作られたもののように見えてしまう建物だった。

 Google ストリートビューで確認したところでは2011年には既に更地になっている。このため川越の建築を紹介する最近の書籍にも紹介されていない。

川越大正浪漫夢通り公式ホームページ
産業遺産・近代建築川越市の近代建築

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旧鶴川座

2023-05-27 | 埼玉県  
旧鶴川座
所在地:川越市 連雀町8
構造 :木
建設年:1898(明治31)
解体年:2019(令和元)
Photo 2006.11.3

 明治時代後期に芝居小屋として建てられた建物。大正時代には洋風に改装して活動写真の上映もしたりする劇場となり、戦後は映画館になっていたという。その後は書画店やライブハウスなどになった。老朽化もあって閉鎖され、その後、復原や再生利活用が模索されたが、最終的に復原等に掛かる財政的な問題などから再生は断念され、解体されたという。

 建物の経過については下記「鶴川座の歴史」に年表が示されているので、ここでは以下に少し端折って記す。またこのサイトにはかつての建物の復原図なども掲載されている。

 1894(明治27)
 1898(明治31)
 1922(大正11)
  戦後〜1998(平成10)
 1998〜2003(平成10〜15)
 2005〜06(平成17〜18)
 2007(平成19)〜
 2019(令和元)7月
 2020(令和2)7月
 
川越座として開場
新築。鶴川座に改称
外観を洋風に改装
映画館
中国製書画店
ライブハウス
建物調査、再生・利活用調査
「鶴川座」解体
立門前第一ビル完成。ゲストハウス「旅籠小江戸や」と飲食横丁になる。

 年表からすると、1枚目の写真はライブハウス時代のもの。
 また、写真は撮っていないが中国製書画店だった時代にちょっと中を覗いたこともある。たまたま通り掛かっただけで、当時は建物の来歴などを全く知らず、店内の床が奥に向かって下がっていて奇妙に感じた記憶がある。それでお店の人に映画館だったことを教えて貰い納得したのだった。

 以下は全て閉鎖後の写真。かなり改装されていたので見た目がいまひとつだったのが残念。閉鎖されてから時間が経って廃墟のようにもなっていた。ただ、構造体や一部の舞台機構などは昔のものが残っていたそうで、明治期の劇場遺構としては貴重なものだったはず。明治、大正、昭和と何度も改装されたようだが、どこかの段階の様子に復原できればひとつの名所になっただろうにと思う。


 閉鎖後の状況  Photo 2017.6.16


 Photo 2019.6.21

 解体が決まった頃に訪れたところ、地元の学生が解体のお知らせ看板を眺めていた。彼らと直接話した訳ではないが、様子を見るに、解体後に新しい建物が建てられることに期待しているというよりは、120年の歴史のある建物が解体されることを惜しんでいるようだった。


 解体直前の状況  Photo 2019.6.21

 右側の小窓は映画館時代の発券窓口。玄関はアルミサッシのガラス扉になっていたし、窓口周りはタイル張り。前面部分は比較的新しい時代のもののようだった。

 下記「全国町並み保存連盟」の記事には、結局のところ、残して利活用したいという気持ちがあまりないから、解体・建て替えという安易な選択をするのだ、というような手厳しい指摘がされている。
 川越の場合、旧川越織物市場などはいちど全てを解体して復原に取り組んでいるし、旧鏡山酒造の蔵などは小江戸蔵里として活用されていて、古いものを残して活用することには比較的前向きな感じではある。ただ民間の建物全てを対象にして、自治体が保全や復原を行うのには限界があるのかもしれない。となると民間の側がもっと保存や復原に意欲的にならねばならないということ。最近では保全することで価値が向上することも多いので、それに投資する人や組織がもっと増えることが期待される。そしてまた、国や自治体が補助などでそれをサポートする仕組みを更に整備することが必要なのかもしれない。

 現地には既に新しい建物ができている。宿泊、飲食施設としては利益が出ているのだろうが、観光地としての集客力は鶴川座を復原する方が遙かにあったのではないかと思われる。建築系の立場から見ると、現在の建物には残念ながら全く訪問意欲が湧かない。銀行や投資家は、新築物件から資金を回収することだけを考えず、復原再生されたものに投資をする枠組みの可能性を前向きに検討すべきなのではないだろうか。

鶴川座の歴史 - kawagoetatumonzen ページ!
埼玉)サヨナラ 川越の「旧鶴川座」:朝日新聞デジタル
川越旧鶴川座の経過 - 全国町並み保存連盟

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天山旅館

2023-05-24 | 埼玉県  
天山旅館
所在地:川越市 西小仙波町1-12
構造・階数:木・2
解体年:2011〜15(平成23〜27)
Photo 2004.12.3

 川越名所の喜多院の西側には、かつて遊廓があった。現在は旅館や料亭が数軒ある静かな場所になっている。

 埼玉県では1928(昭和3)年に公娼廃止決議案が可決され、1930(昭和5)年には遊廓に自発的な廃業を求めたそうだ。以後それらは「乙種料理店(達磨屋)」というものになったが、その実態はあまり変わらなかったそうで、戦後の売春防止法施行まで営業が続いたという。
 その後それらの建物は、改修・転用して旅館や料亭となったり、普通の住宅やアパートになったようだ。現在では建て替えも進み、かつての面影はわずかでしかない。

 旅館の看板を掲げていたこの建物が、その乙種料理店(達磨屋)だったかどうかは確証がない。ただ板塀や門柱、玄関の唐破風の庇などにはそれらしい雰囲気が残されていた。外壁がモルタル塗りなのは戦後のどこかの時点で改修されたためではないだろうか。
 撮影時はまだ旅館として営業していたようだったが、いつのまにかなくなっていた。建物の消失と共に街の記憶も次第に薄れていく。

川越市西小仙波町・喜多院裏の遊郭跡 - 東京DEEP案内

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吉原マシン工業/旧東武タクシー

2023-05-21 | 埼玉県  
吉原マシン工業/旧東武タクシー
所在地:川越市 久保町12
構造・階数:木・2
建設年代:大正末〜昭和初期
解体年 :2015〜17(平成27〜29)
Photo 2004.12.3

 かつて東武タクシーの事務所だったらしいモルタル看板建築。社名が2階上部に右から画かれている。下記、『川越の建物 近代建築編』によれば、昭和初期頃までタクシー会社として使用された後、吉原マシン工業となったという。建設年代が大正末〜昭和初期だそうなので、東武タクシーだったのはわずかな期間だったようだ。

 人造石洗い出し仕上げで、ざらざらした壁面に「東武タクシー」の文字や半円が連なる模様がわずかに立体的に画かれていた。窓が凸型だったのも特徴的。

 現在、東武タクシー(株)は東京都墨田区の向島にあり、川越市内には支所などもないようだ。かつて川越にあった写真の東武タクシーと、現在の東武タクシー(株)が同じ会社なのかも不明。

 Google ストリートビューでは、2015年5月時点では存在していたが、2017年3月時点では既に更地になっている。

参考『川越の建物 近代建築編』『川越の建物』編集委員会 編、仙波書房、2021

吉原マシン工業/川越市久保町 - ぼくの近代建築コレクション

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木崎商店

2023-05-18 | 埼玉県  
木崎商店
所在地:川越市 久保町5
構造・階数:木・3
建設年:1921(大正10)
解体年:2021〜22(令和3〜4)
Photo 2004.12.3

 成田山川越別院の北側の道沿いに建っていた店舗。看板には「御料理、仕出し、鮮魚、乾物」とあり、仕出し料理屋、鮮魚乾物卸をしていた店だったようだ。

 手前側、道路沿いは平入りの在来建築の商店だったが、急傾斜屋根を持つ屋根裏3階建てが後方に建っており、それがあまり見たことがない形だったので印象に残るものだった。


 Photo 2006.11.3

 下記『小江戸ものがたり−第四号 川越の洋風建築特集』によれば、先々代が鮭の仕入れで樺太へ行き、現地の建物にあこがれて造ったという。独特な形になっていたのはロシア系?の建物を真似たためだったというのが面白い。
 また入口部分は明治の大火の際の廃材を利用したものだったという。川越に残る古い建物の中で、立派ではないけれど記憶に残るものの一つだった。

 営業時間の関係か、午後に通り掛かっても開いていることはなかったが、2017年までは看板が掲げられていた。Google ストリートビューで見ると、2018年9月の画像では看板がなくなっており、どうやらその頃に仕舞屋になったらしい。その後、2021年秋まではストリートビューで建物を確認できたが、昨年秋に訪ねたところ、既に解体され更地になっていた。

 老朽化や世代交代、その他さまざまな理由で解体せざるを得なくなるのは承知している。ただ、川越には蔵造りの商家だけではなく、こういうちょっと変わった店舗建築もあっただけに、そういうものがなくなるのはやはり惜しい。

参考資料『小江戸ものがたり−第四号 川越の洋風建築特集』編集・発行 川越むかし工房、2003.4

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水村家住宅

2023-05-15 | 埼玉県  
水村家住宅
所在地:川越市 喜多町1
構造・階数:木・2
建設年:江戸時代中期
解体年:2020(令和2)
Photo 2017.6.16

 蔵造りの町並みで知られる川越。蔵造りの建物群は重要伝統的建造物群保存地区に選定されて保護され、近年は多くの観光客が訪れている。

 水村家住宅は、その重伝建地区の北端の札の辻交差点から、更に200mほど北へ行った場所にあった江戸時代中期の商家の建物。水村家は江戸時代には味噌・麹問屋で、幕末には川越総名主も務めた家で、また明治以降は米穀問屋だったという。
 建物は1726(享保11)年にあった大火の後に建てられたと考えられており、また1893(明治26)年の大火で被災しなかった。このため川越の古い時代の建築様式を残す貴重な建物で、建築史の専門家からは、保存されれば重要文化財にも指定される可能性があるものだと評価されていたという。

 解体予定であることが明らかになってからは署名活動など保存への働きかけもされていた。しかし残念ながら3年前に解体された。関係者でも地元民でもないし建築史の専門家でもないので、なぜ解体に至ったのか詳細は知らない。ネットで検索したあたりでは、保存や文化財指定について所有者の同意が得られなかったということらしい。解体直前は子孫が所有して居住していたわけでもないようで、かつてこの家に住んでいた子孫も残したかったができなかったという。

 解体直前には見学会も行われた(私は参加できなかったが)。最後の頃はトタン葺きだったがもとは杉皮葺き。江戸期の建物なので棟の高さが低く、中2階(厨子二階)は舟底天井と呼ばれるアーチ型の天井になっていた(下記リンク先記事などを参照)。蔵造りの立派な建物群とは異なり、高さも低くトタン葺きなので一見すると粗末な長屋のように見えてしまうが、それは江戸時代の建物だったから。大半が明治以降の建物である蔵造りの町屋とは造りがやはり異なる。

 西日本には古い建物がたくさんあるが、関東地方は災害や都市開発などで古い建物は少ない。立派には見えなくても、江戸時代の様子を残していたという点でこの建物は貴重な存在だったわけで、残せなかったのはやはり残念だ。

 その後、この場所は駐車場になっている。現在の様子を見ると、3年前に壊す必要があったのだろうか、もう少し猶予はなかったのだろうかと思ってしまう。

「水村家住宅」解体始まる 江戸中期の川越の町屋建築、保存ならず:東京新聞 TOKYO Web
関東最古クラスの町家・川越の「水村家住宅」が取り壊しの危機に 署名運動も - 川越経済新聞
川越style「水村家住宅」江戸時代中期に建てられた県内最古の商家 川越市喜多町 | 「小江戸川越STYLE」

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安積疎水土地改良区事務所 別館

2023-05-12 | 宮城県・福島県
安積疏水土地改良区事務所 別館
所在地:郡山市 開成2-22-2
構造・階数:木・2
建設年:1937(昭和12)
解体年:2011(平成23)
Photo 2000.9.8

 安積疏水は、年間雨量が少ない郡山周辺に猪苗代湖から水を引いたもので、農業、工業、飲用などに使われている。疏水じたいは明治の中頃にできて灌漑が始められたが、この事務所の建物は昭和12年に建てられたものだったそうだ。

 郡山で建築学会の大会があった際に訪れたのだが、夕方になってしまい外の門が閉じられていて、内部や近くでの見学は叶わず。この写真は敷地の外から望遠で撮った一枚。薄暗くなってからISO400のフィルムで望遠で撮ったため、若干手ブレしてしまっている。

 記念館的な建物だったので、壊されることなく残っていると思っていたのだが、不運にも2011.3.11の東日本大震災で損壊してしまったそうで、残念ながらその後、取り壊されたのだという。

安積疏水土地改良区
安積疏水 - Wikipedia
福島県の町並みと歴史建築 - 安積疎水事務所(郡山市)

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妻入りの洋館・M邸

2023-05-09 | 宮城県・福島県
妻入りの洋館・M邸
所在地:宮城県亘理郡 亘理町 五日町28
構造・階数:木・2
解体年:2015〜19(平成27〜31)
Photo 1991.9.14

 宮城県南部の亘理町にある五日町商店街にあった妻入りの洋館。いつ頃の建物か知らないままに終わったが、そこそこ古かったのではないかと思う。

 亘理町を訪れたのは、都市計画系研究室に在籍していたときに研究室が五日町商店街の街並み調査などを受託したため。写真に写っているのは大学院時代の研究室の同級生で、一緒に図面作成をした友人。ただ、この写真は調査時ではなく報告書作成の半年ほど後で、しかも私も同級生も亘理町を訪れたのはこの時が初めて。報告書には街並みの連続立面図が載っているが、私たちはその図面を実は町を訪れずに描いてしまった。

 90年代初めは、所属していた研究室への委託調査研究が多かった。ひとつ上の先輩達が現地調査を行って街並みの連続写真を撮影したが、その先輩達は別の調査でも忙しく、連続立面図などを作成する時間が無かった。そのため後輩の私たちが現地へ行ってないのに資料を元に連続立面図を作成した。

 そんなわけなので、機会があったら実際に訪れてみたいと考えていたところ、たまたまその年の建築学会の大会が仙台市で行われたので、学会参加のついでに見に行ったのだった。

 初めて訪れる商店街なのに、通り沿いの建物立面についてはデザインの詳細まで知っているので、既視感の強い妙な体験だった。写真には、図面作成担当者が「私がこの建物の立面図を描きました」という体で記念に写っている。

 1991年に撮影した時はM邸だったが、その後、空き家になったようだ。建物としては存続していたが2015年の住宅地図には住人の名がない。Google ストリートビューでは2019年6月時点で更地になっている。

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パレット玩具店

2023-05-06 | 宮城県・福島県
パレット玩具店
所在地:宮城県柴田町 西船迫2-2-2
構造・階数:S・1
設計 :石山修武+ダムダン空間工作室
建設年:1988(昭和63)
解体年:2021(令和3)
Photo 1991.9.14

 宮城県南部の柴田町、国道4号線バイパス沿いにあったおもちゃ店。早大の教授だった石山修武先生が設計したもの。学生時代に石山先生の講義も受けていたので、学会の帰りに研究室のメンバーと訪れた。

 入口の前にドーナツ型の庇があり、その中を貫いて鉄骨製の斜めな塔が建っているのが目を引く。
 塔やドーナツ型の庇は、おもちゃを売ることにはほぼ関係がなく、幹線道路沿いで目立つための広告塔的なもの。ただ、それを普通の広告塔にはしなかったところがミソで、通り掛かる人々にあれはなんだ?と思わせる仕掛け。子供だけでなく大人もなんだろう?と思ってしまい、おもちゃ店として記憶に残るものになっていた。

 塔を思いきり斜めにしたことで、見る向きによってかなり印象が変わるあたりもおもしろい。

 内部は一転して簡素で倉庫のようなつくりだが、天窓があって明るい。天井が高いので開放感があり、空中に吊り物を出すこともできるようになっていた。
 通路もゆったりして気持ちよい空間。ただ、大量のおもちゃが所狭しと並んでいてどれにしようか迷うという、おもちゃ店にありがちな迷宮的な感じではなかった。妙に見通しがよいので、少し歩き回ると全体像が把握できてしまう。それが良いことだったのかどうかは、ちょっと微妙な感じではあった。

 その後、ここを訪れたことはない。最近になってネットで調べたところ、2002時点ではカラオケ店になっていたという。Googleストリートビューでも、2019年6月時点でカラオケ店だったことが確認できるが、ドーナツ型の庇や斜めの塔はなくなっており、その外観はかなり替えられていた(もう一つの塔は残っていた)。この内部空間をどうやってカラオケボックス化していたのかも気になるところではあったが。。

 更にその後、2021年4月のストリートビュー画像では解体中で、2022年3月時点では更地になっていた。いわゆるポストモダン建築と称されるタイプの建物は短命なものが残念ながら多いが、この建物も築30年あまりで失われてしまったのだった。

PALETTE TOYSHOP
新建築1989年1月号
パレット玩具店-石山修武
パレット玩具店 宮城県柴田郡柴田町 | 文献情報 | J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター

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